監督・脚本は『青の帰り道』『新聞記者』などの藤井道人。
企画・製作・エグゼクティブプロデューサーは河村光庸で、『新聞記者』のコンビが再び組んだ形になっている。
三部構成で20年を描く
本作は「第一章(1999年):出会い」「第二章(2005年):誇りを賭けた闘い」「第三章(2019年):激変した世界」という三部構成となっている。ヤクザ者として生きるしかなかった山本賢治(綾野剛)の20年に渡る半生を追うクロニクルだ。
賢治は父親を覚せい剤で亡くしている。すでに母親はなく天涯孤独の身の上で、先のことなど何も頭にないという刹那的な生き方をしていた賢治。そんな彼に目をかけてくれたのが柴咲組の組長・柴咲博(舘ひろし)だった。町の麻薬取引を仕切っていた敵対組織・侠葉会とトラブルになり命を狙われていたところを助けられ、それまで気丈に振舞っていた賢治は初めて涙を見せることになる。
賢治と柴咲が初めて出会った場所は、賢治がいつも通っていた焼肉屋だ。そこでは賢治のことを「ケン坊」と呼ぶ愛子(寺島しのぶ)が店を切り盛りしている。劇中では詳しく触れられることはないが、この焼肉屋の愛子は在日韓国人(朝鮮人)なのかもしれない。そして、その愛子と昔馴染みである賢治もそうなのかもしれない。
暴力団の構成員にはいわゆるマイノリティと呼ばれる人が多いとされる。そもそも社会の中で居場所がなかった人が、ヤクザという疑似の親子関係を結び生きて抜いてきたというところがあるのだ。本作の賢治も柴咲に拾われることで居場所を確保することになり、そのことを恩義に感じているからこそ命を賭けて組長である柴咲を守ろうとする。
しかし、時代は変わっていく。第二章で敵対組織との抗争で刑務所に入ることになった賢治は、第三章で14年後にシャバに戻ってくるわけだが、そこでは暴対法と暴力団排除条例によりそれまでのシノギを続けることができなくなった惨めなヤクザたちの姿がある。
カッコ悪いヤクザ
『ヤクザと家族 The Family』は、自暴自棄になっていた賢治が柴咲に拾われる第一章と、背中に入れ墨を背負った一端のヤクザ者になった賢治の姿を描く第二章は、派手な立ち回りなどもあって“ヤクザもの”らしい賑やかさがあるのだが、第三章はとても地味な人間ドラマになっている。とはいえ本作はこの第三章に焦点を当てて構成されているようにも感じられる。
今の時代にヤクザ映画を作るということは、かつての東映作品――たとえば『仁義なき戦い』など――をどうしても意識せざるを得ない。しかし、今の役者陣は良くも悪く線が細いわけで、かつての骨太で強面の役者陣のそれを真似しようとしても太刀打ちできないし、陳腐なパロディにしかならないわけで、本作は“ヤクザもの”でありながらもどこかカッコ悪い姿を描いていく。かつてのようなシノギが不可能になり、シラスウナギを獲るために漁師の真似事をせざるを得ないヤクザのカッコ悪さを描く第三章こそが本作のキモになっているように思えるのだ。
もちろん第二章の賢治はインテリヤクザ風でしかもキレる時は恐い側面も見せているのだが、由香(尾野真千子)との関係ではちょっと締まらない。いつものようにホステスの由香を部屋に呼びつけた賢治は、ヤクザ者にも物怖じしない由香に拒否されてタジタジといった具合で、これもかつての“ヤクザもの”からはズレたところだろう。
また、由香というキャラは、賢治にとっては母親のように自分のことを受け止めてくれる女性だと言える。賢治は敵対組織の川山(駿河太郎)を殺してから助けを求めるようにして由香の元に身を寄せ、そこで初めて結ばれることになる。
賢治はヤクザになることで父親代わりの柴咲と縁を結び、母親の代わりになるような女性を無意識に求めていたということなのだろう。由香のキャストとして尾野真千子が選ばれているのも、あまりに若くてチャラチャラした女性ではその役目は果たせないということなのだろう。賢治はヤクザの世界に疑似的な家族を求めているわけで、本作は“ヤクザもの”でありつつ“家族”を描く作品になっているのだ。
窮屈な世界
映像のスタイルという点でも第三章だけは特別だった。というのは、第三章だけはスタンダートサイズの画面になっているのだ。第一章と第二章は賢治の行動も破天荒で、カメラの動きも派手さがあった。賢治が走り、暴れ、倒され、引きずられると、その姿を追っていくカメラも、その度に横移動してみたり、横倒しになったりする映像をシネスコサイズの広い視野で捉えていく。
しかし、第三章になると賢治もちょっと歳を重ね、ヤクザ者たちも暴対法に縛られ鳴りを潜めるしかなくなり、フィックスの映像が多くなる。第三章がスタンダードサイズで撮られているのは、ヤクザがかつての時代とは違って窮屈な世界に生きていることを示しているのだろう。
かつてはヤクザが町を肩で風を切って闊歩する映画があり、それを観ていた観客も劇場を出る時には同じように肩で風を切って歩いていくといったことがあったようだが、そんな時代は終わりを告げたということなのだろう。本作のヤクザはカッコ悪く自滅していくしかないのだ。
滅びの美学はありや?
最近の“ヤクザもの”として力の入った作品だった『孤狼の血』では、主人公はマル暴の刑事だった。暴対法成立以前の警察(あるいは国家権力)の立場は、暴力団に目を光らせるマル暴の刑事などを近くに侍らせ、暴力団の存在を認めつつ、うまくコントロールしていこうとしていたようだ。それが何がきっかけになったのかはわからないが――というよりもやはり「時代の趨勢」としか言いようがないのかもしれないが――警察は暴力団を反社会的存在として社会から閉め出す対策を打ち出すようになる。
それによって暴力団に関係する者は銀行口座も作れなければ、携帯電話も契約することできないことになる。銀行や企業は暴力団と関係すること自体が禁じられ、新たな契約を結ぶ時には「暴力団の関係者ではない」という文言に署名させ、後になって暴力団関係者であることが判明した場合は、その署名をした本人は詐欺罪に問われることになる。
暴力団排除条例が施行されてからは、暴力団は人として生きる権利を奪われてしまうのだ。「それが嫌ならカタギになれ」というのが国家権力の立場なのだが、たとえ暴力団を辞めたとしても5年間は“元暴力団”というレッテルを背負わされやはり人として生きる権利はないのだ。「社会」と「反社会」以外の別の世界があるわけでもないわけで、“元暴力団”は居場所などあるはずもなく次第に追い詰められていくことになる。そんな時代のヤクザ映画だからこそ、カッコいい滅びの美学などあるはずもないのだろう。
追い詰められて
柴咲組の組長は「組を解散しようか」と悩みつつも、年老いた構成員を今さら放り出すわけにもいかないという中で病に侵されていく。任侠道を熱く語っていた古臭いタイプの中村(北村有起哉)は、シノギの手段を奪われ仕方なく麻薬取引に手を出し、自らもそれにはまっていく。賢治と昔からつるんでいた弟分の細野(市原隼人)は、暴力団を辞めて真っ当な生活を始めていて、賢治との再会を喜びつつも、それが人に知られることを恐れている。
そして賢治は戻ってきたシャバに自分の居場所がないことに気づく。由香と再会して実は自分に娘がいたことを知るのだが、三人でのつかの間の幸福な生活は世間の目によって壊されることになる。ヤクザ者であったことは、仮に暴力団を辞めたとしてもすぐにチャラになることではなく、周囲の者に煙たがられつつ生きていくほかないのだ。
賢治は最後の仕事としてかつての馴染みの場所だった焼肉店の息子・翼(磯村勇斗)を助けることになる。これは義理・人情のなせる業でもあるが、端的に賢治には社会の中に居場所がなかったからでもあるだろう。ラストでは同様に居場所を失った細野に刺されて死んでいくのだ。賢治としてはそれしか選択肢がなかったわけで、何とも虚しい終わり方だった。
たとえば柴咲役の舘ひろしが敬愛する渡哲也が主演した『仁義の墓場』では、主人公は義理・人情を重んじる男ではなかったが無茶苦茶なことをして盛大に暴れ回った挙句に派手な散り方をして逝った。一方で賢治はそうした派手な死に方も出来ず、あちこちに気を配りつつもはた迷惑な存在でしかなく暗い海の中に沈んでいくことになる。そんな哀れな姿こそが今の時代のヤクザということなのだろうと思う。
『新宿スワン』のような金髪の若者から始まり、『日本で一番悪い奴ら』のような堕ちていく男の悲哀までを演じきった綾野剛は、現時点での自分の集大成だと感じているようで、それだけに見どころのある作品になっていたんじゃないかと思う。
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