『マンティコア 怪物』 共感もできないし愉快にもなれないけれど

外国映画

脚本・監督は『マジカル・ガール』などのカルロス・ベルムト

東京国際映画祭コンペティション部門出品作品。

原題は「Manticora」。

物語

空想のモンスターを生み出すゲームデザイナーのフリアン。VR空間で獣のデザインを立体的に形作っていく。ある日、自宅で作業をしていると助けを求める子どもの声が。アパートの向かいの部屋から炎があがっている。玄関のドアが開かずパニックになっているクリスチャン。フリアンは必死にドアを蹴破り救い出す。
夜中、息が苦しくなり目を覚ますフリアン。病院にたどり着くと気を失ってしまう。しかし、心電図も検査の数値も正常だ。強いストレスや恐怖に対する脳の自己防衛によるパニック発作だと診断される。
フリアンは同僚サンドラの誕生日パーティーで美術史を学ぶディアナに出会う。聡明でどこかミステリアスなディアナ。彼女の父は2年前に脳卒中を患い、いまはふたり暮らしで、ほぼひとりで介護をしているという。映画やゲーム、アートについて語りあい、次第に惹かれ合っていくふたり。
しかし、フリアンはある秘密を抱えていた。それは火事から子どもを救ったあの日から、まるで肺に吸い込んでしまった煙のように彼の中で静かに渦巻いている“ある感情”。やがてそれが思いもよらぬマンティコア[怪物]を作り出してしまう…。

(公式サイトより抜粋)

マンティコアとは?

カルロス・ベルムト監督のデビュー作『マジカル・ガール』は、日本のアニメに憧れる女の子が登場する作品で、その発端からは想像もつかないところへと転がっていく奇妙な物語だった。

カルロス・ベルムトは日本贔屓びいきらしく、『マンティコア 怪物』でも日本ネタがあちこちに顔を出すことになる。寿司のテイクアウトも出てくるし、主人公は「伊藤潤二の新作漫画を買いに行く」なんてことも言ってみたりするのだ。ただ、『マンティコア 怪物』はかなり厄介な題材を扱っていて、恐らく多くの人はあまり愉快な気持ちにはなれない作品とは言えるかもしれない。

タイトルとなっている「マンティコア」とは、「人間のような頭、ライオンまたは虎のような胴、ヤマアラシの羽に似た有毒な棘の尾もしくはサソリの尾を持つ怪物」であり、神話上の生き物ということになる。

これは主人公が幼い頃に「虎になりたい」と思っていたということが関わっている。もちろん人は虎になれるわけがないわけで、これは実現不可能な願望ということになる。ところがそんな主人公は自分でも願ったわけでもないにも関わらず、ある種の怪物になってしまっていたというのが本作が描く物語ということになる。

©Aqui y Alli Films, Bteam Prods, Magnetica Cine, 34T Cinema y Punto Nemo AIE

フリアンの抱いた恐怖

フリアン(ナチョ・サンチェス)はアパートの向かいの部屋の少年クリスチャン(アルバロ・サンス・ロドリゲス)を助けた後、夜になってパニックの発作を起こすことになる。この時点ではなぜなのかはよくわからないのだが、フリアンは何らかのストレスや恐怖を感じていたということになるのだろう。

その後のフリアンの態度はちょっと不思議で、なぜか自分が助けたクリスチャンとの接触を避けようとしているようにも見えてくる。フリアンがクリスチャンを助けた時は、とても親しげに彼と接していたにも関わらず、その後なぜ急な変化が生じたのだろうか?

実は劇中ではすぐにその謎は解けることになる。簡単に言ってしまえば、フリアンはペドフィリアということになるのだろう。火事の中からクリスチャンを助けるという予想外の出来事によって、普段は避けていた性的な欲望が目を覚ましてしまったのだ。

ただ、この時点ではフリアンは何もしていない。なるべくクリスチャンのことを避けるようにして、その許されない欲望を鎮めようとしていただけなのだ。

※ 以下、ネタバレもあり!

©Aqui y Alli Films, Bteam Prods, Magnetica Cine, 34T Cinema y Punto Nemo AIE

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救いの神?

フリアンは意図してクリスチャンのことを避けていたにも関わらず、たまたま行った近所のレストランで、彼とその母親を目撃してしまう。そこでまた隠そうとしていた欲望が蘇ってくる。フリアンは自分のゲームデザイナーとしての技術を使い、VR空間の中にクリスチャンのことを生み出すことになる。

『マンティコア 怪物』では、フリアンが生み出したグロテスクなモンスターの姿は映し出されることになるのだが、彼がひそかに生み出したクリスチャンの姿に関しては一切描かれることはない。フリアンはVR空間の中で幻のクリスチャンと何かしらの秘め事を楽しんだのかもしれないのだが、そのおぞましい行為については秘されていて、観客は想像するほかないということになる。

このあたりは『マジカル・ガール』とも共通している。『マジカル・ガール』でも、あやしげな黒蜥蜴の部屋の中でどんなことが行われることになったのかは観客の想像に委ねられていたのだった。

フリアンは自分のやっていることが褒められたことではないことは理解している。だからこそ意識してクリスチャンを避けようとするし、わざわざ引っ越しをすることになったのも、自分に歯止めをかけるためだろう。

ところがそこに救いの神のような女性が現れることになる。クリスチャンにも似たボーイッシュな女の子ディアナ(ゾーイ・ステイン)だ。フリアンはディアナと親しくなると、VRの中のクリスチャンを削除することになる。これはそんなものが見つかったらマズいということでもあるけれど、ディアナがクリスチャンの代わりになってほしいという願いでもあったのだろう。そうすればもしかすると自分の人生を破滅させることもなく生きていけるかもしれない。フリアンとしては、そんな気持ちだったのだろう。

©Aqui y Alli Films, Bteam Prods, Magnetica Cine, 34T Cinema y Punto Nemo AIE

共感はできないけれど

フリアンに対して観客の誰も共感を示すことはできないだろう。もしかしたらこっそりと共感を抱いたとしても、それに共感を示すことは自分も同類だと認めることになるわけだから、誰もそんなことはしないだろう。フリアンが抱えているペドフィリアというものは、そんな類いの厄介な“何か”ということになる。

こんなキャラクターは滅多にいないけれど、私が思い出したのは漫画『ヒメアノ~ル』に登場する森田というキャラクターのことだ。この森田というキャラはサイコキラーということになる。人を殺すことに性的な興奮を抱いてしまうような異常者だ。ところが『ヒメアノ~ル』は、その森田を同情的に描いていくことになるのだ。

『ヒメアノ~ル』を読んだ時には、作者はこんなことを描いてしまって大丈夫なのだろうかとも心配になったのだが、普段は異常者として切り捨てられるはずのサイコキラーの苦悩を描いてしまうのだ。

ただ、『ヒメアノ~ル』の森田は一線を越えて、殺人という行為を実際にやってしまっているけれど、『マンティコア 怪物』のフリアンの場合はその手前で踏み止まっている。虚構であるVR上では何らかの代替行為をしていたのだろうし、現実世界ではクリスチャンの代わりにディアナを愛そうと試みることになる。それらすべてが一線を越えないためのフリアンの努力ということになる。

ペドフィリアというものは、決してその欲望が満たされることはない(満たされた時には、それは破滅になる)。本作ではフリアンが何とかしてその欲望をうまくやり過ごそうとしていく過程を描くことになるのだが、それはうまくいかない。ディアナはクリスチャンの代わりだったわけだが、そのディアナとの性交渉も運命のいたずらなのか何度も邪魔されることになる。そして、最終的にはフリアンがゲーム会社の設備を使って私的な楽しみをしていたことがバレ、ディアナとの関係も壊れることになってしまう。

会社の言い分としては、会社の設備を私的に利用したことが問題となっている。ただ、実際はフリアンのペドフィリア自体が倫理的な問題とされたということなのだろう。このことでフリアンは倫理的にアウトな人との烙印を押されることになり、さらに追い詰められることになってしまう。その結果がフリアンを現実世界でのおぞましい行為へと導いていくことになる。

©Aqui y Alli Films, Bteam Prods, Magnetica Cine, 34T Cinema y Punto Nemo AIE

どう対処すれば?

多様性というものをテーマにした『正欲』では、どんなことを考えるのも自由だとされていた。ただ、これには条件があって、「他人に迷惑をかけない限りにおいて」ということになる。フリアンがVR上でやったことは誰かの迷惑になるのだろうか(代役として選ばれたディアナにとっては迷惑だったとしても)。本作ではフリアンはその厄介な欲望と闘うことになるけれど、周囲がさらに彼のことを追い込んでしまったようにも見えるのだ。

劇中ではゲームは有害だと何度も非難されたりしている。暴力的なゲームによって、人が現実でもそれに影響される可能性があると考える人がいるということだろう。これについての正否はともかくとして、フリアンが抱えたような厄介な欲望を虚構の中でうまく飼い慣らすべきだったのだろうか? だとしても、そうしたゲームが存在すること自体がまた問題になるのだろうけれど……。

ラストでフリアンは本当の怪物になってしまう。フリアンがクリスチャンに対して迫っていく場面は、かなりの長回しで捉えられるおぞましい時間だ。このシーンのフリアンは目が完全にイッてしまっている。

フリアンを演じているナチョ・サンチェスは普段からかなりギョロ目なのだが、この場面のフリアンは一切瞬きすらせずに何かに憑りつかれたようになっていて、それが何とも不気味だった(ディアナ役のゾーイ・ステインがとてもあっさりした顔立ちなので、余計に差が際立っている)。

強引に異常者の悲哀とまとめてしまうこともできるのかもしれないけれど、最後のディアナの行動は何だかよくわからず(一種の代替行為ではあるけれど)、そのわからなさが後を引く感じの映画でもあった。

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