『ドライブ・マイ・カー』 声の持つ力

日本映画

原作は村上春樹の短編小説「ドライブ・マイ・カー」(『女のいない男たち』所収)。

監督は『寝ても覚めても』などの濱口竜介

カンヌ国際映画祭コンペティション部門で脚本賞を受賞した作品。

物語

舞台俳優であり演出家の家福かふくは、愛する妻のおとと満ち足りた日々を送っていた。しかし、音は秘密を残して突然この世からいなくなってしまう――。2年後、広島での演劇祭に愛車で向かった家福は、ある過去をもつ寡黙な専属ドライバーのみさきと出会う。さらに、かつて音から紹介された俳優・高槻の姿をオーディションで見つけるが…。

喪失感と“打ち明けられることのなかった秘密”に苛まれてきた家福。みさきと過ごし、お互いの過去を明かすなかで、家福はそれまで目を背けてきたあることに気づかされていく。

(公式サイトより抜粋)

全体の構成について

本作は村上春樹の短編小説「ドライブ・マイ・カー」を原作としているが、それに加えてその短編が収録されている短編集『女のいない男たち』から、「シェエラザード」「木野」という2つの短編の要素も加えて脚色されているとのこと。大枠としては「ドライブ・マイ・カー」を借りているのだが、それを独自の解釈で映画化したと言えるのかもしれない。

タイトルが出る前に十分な時間をかけ、家福(西島秀俊)とその妻・音(霧島れいか)のエピソードが描かれる。幸せな結婚生活を送っているふたりだが、音は実は浮気をしている。家福は偶然その現場を見てしまうことになる。しかし、家福は音との関係が壊れるのを恐れ、それを見て見ぬフリをすることに。

ところがその後、音から「今晩帰ったら少し話せる?」と笑顔で切り出され、家福は音との話し合いを恐れて夜遅くに帰宅すると、音はくも膜下出血で倒れている。そして、音は二度と意識を取り戻すこともなく亡くなってしまう。

それから2年が経ったところからが本筋となる。家福は広島の国際演劇祭で『ワーニャ伯父さん』の公演を行うことになる。その演劇祭では出演者の交通事故を避けるために専属のドライバーを用意していて、そこで家福はみさき(三浦透子)という無口で愛想のない女性ドライバーと会うことになる。また、そこには音の浮気相手でもあった高槻(岡田将生)が絡んでくることになる。

これが大まかな流れだが、本作ではそこに二つの虚構をうまく絡めてくる。ひとつは音が語る「前世がヤツメウナギの女の子」の物語であり、もうひとつが演劇祭で演じられる『ワーニャ伯父さん』ということになる。

(C)2021「ドライブ・マイ・カー」製作委員会

家福が抱えているもの

『ワーニャ伯父さん』は原作にもちょっとだけ描かれているのだが、映画ではそれをかなり拡大し、オーディションや稽古風景も含めて詳しく取り上げられることになる。『ワーニャ伯父さん』が詳細に取り上げられるのは、監督である濱口竜介の演技論を開陳するためだろう(これについてはあとで触れる)。

『ワーニャ伯父さん』はそのテーマが家福が抱えているものと密接している。登場人物のソーニャに向けて語られる「真実を知ることは恐ろしい」という意味の台詞があったと思う(この引用は不正確だが、手元にあった『ワーニャ伯父さん』の文庫本には「本当のことというものは、いいにしろ悪いにしろ、とにかくどっちつかずでいるより、少しは気が安まるもの。」という台詞となっている)。

この言葉は妻と向き合うことを避けていた家福に突き刺さることになるだろう。『ワーニャ伯父さん』では、辛い現実を知ることになったソーニャとワーニャ伯父さんが「それでも生きていきましょう」と語り合うところで終わる。それが映画『ドライブ・マイ・カー』でもラストに据えられているのは、家福も妻の死を受け入れて生きていかなければならないからだろう。

もうひとつの「前世がヤツメウナギの女の子」は、音が語った物語だ。音は脚本家だったのだが、その書き方は独特だ。音は家福とのセックスの後、なかば狐憑きのような状態で物語を語り出す。音はそのことを自分では覚えていないから、それを聞いた家福が、翌朝、音に語り直すことになる。そんなふうにして音の脚本は誕生するのだ。

そして「前世がヤツメウナギの女の子」の物語は、音の無意識の告白のようにも聞こえる。浮気をしていた妻からの罪の告白だ。家福はそんな告白を恐れたのか、途中まで聞いていた物語を聞いてなかったことにしてしまう。しかし、その続きは高槻によって語られることになる。これは高槻が音とセックスしていたことを告白したようなものだが、家福にとってはそれ以上に妻と向き合うことを避けていたということを思い知らされる結果になるのだ。

(C)2021「ドライブ・マイ・カー」製作委員会

みさきが抱えているもの

本作でみさきが果たす役割は、家福の抱えた罪悪感を共有することだろう。家福は音と向き合うことを避けたため、くも膜下出血で倒れた音を助けることができなかった。このことは音を自分が殺したかのような罪の意識を家福に感じさせている。

同じようにみさきはかつて地滑りで家が崩壊した時に、母親を助けられなかったと感じている。みさきもまた、母親を殺してしまったと感じているのだ。それでもふたりは生きていかなければならないわけで、本作の最後でソーニャの台詞として語られる「それでも生きていきましょう」という台詞は、家福とみさきに言われているようにも聞こえてくることになるわけだ。

ラストではみさきは韓国出身の演劇プロデューサー(ジン・デヨン)と一緒に韓国に渡ったと思しき姿が描かれる。そのみさきの頬からは地滑りの時にできた傷が消えている。母を殺したという罪悪感を乗り越えて前向きに生きているということが示されるのだ。

(C)2021「ドライブ・マイ・カー」製作委員会

原作の演技論

そんなわけで本作は村上春樹の原作を換骨奪胎した作品となっている。上記の様々の要素が綿密に絡み合っていて、静かな映画にも関わらず3時間の長丁場をダレることなく見せてしまう。カンヌの脚本賞受賞も納得という出来だったと思う。

そして、本作が原作から離れて独自性を見せるのは、劇中で詳細に繰り広げられることになる演技論の部分だろう。濱口監督が力を入れているのもそこだったようにも感じられる。もともと原作の「ドライブ・マイ・カー」にも演技論が出てくるのだが、これは村上春樹の演技論であり、映画で開陳されるのは家福=濱口監督の演技論ということになるのだろう。

ここで原作「ドライブ・マイ・カー」について触れておくと、原作の家福は高槻に悪意というか怒りを感じている(映画ではそのあたりが曖昧と言えるかもしれない)。家福が高槻に近づいたのは、自分の中に抱えた怒りを収めるために高槻を懲らしめようとしていたからだ。しかし、それは結局回避されることになる。家福の抱えていた怒りが雲散霧消してしまったからだ。

それがなぜなのかという部分は仄めかされるだけなのだが、そこに演技というものが関わってくる(原作の家福は舞台演出家ではなく役者)。ここでは村上春樹の文章を引用しておく。

少し眠ろうと家福は思った。ひとしきり深く眠って、目覚める。十分が十五分、そんなものだ。そしてまた舞台に立って演技をする。照明を浴び、決められた台詞を口にする。拍手を受け、幕が下りる。いったん自己を離れ、また自己に戻る。しかし戻ったところは正確には前と同じ場所ではない。

家福は役者として、別の人物に成りきる仕事をする。そして役が終われば、また自分に戻ることができる。しかしその戻ってきた自分というものは、役を演じる前の自分とはちょっとだけ変わっている。これがこの短編で示される村上春樹による演技論ということになる(ここで演技論の形で言われているものが何かほかのものを感じさせるような気もするのだが、それはこの映画とは関係のないことなのでここでは触れずにおく)。

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濱口メソッド

それに対して、映画では濱口監督による独自の演技論が展開されることになる(濱口メソッドなどと言われることもあるらしい)。本作の舞台『ワーニャ伯父さん』では多言語演劇という様式の演劇が行われる。役者陣は日本人もいれば韓国人もいるし、台湾人やフィリピン人もいるし、さらに手話を用いる役者もいる。それぞれが自分の言葉で台詞を語ることになるのだ。

これにどんな意図があるのか家福=濱口は語ることがない。とにかくひたすら読み合わせをさせる。しかもそれには感情は不要ということになっていて、できるだけ棒読みにすることが望ましいとされる。

なぜそんなやり方をするのか。それは後になって次第にわかってくることになる。すべてが日本語の舞台だとしたら、役者同士は自分が何を語っているかは当然理解している。しかしそれだと自分の台詞だけを覚えることになり、相手の台詞まで覚えることはない。そうなると相手の台詞は単なるきっかけに過ぎなくなる。

ところが多言語演劇だと事情が変わってくる。自分が知らない言葉で相手が語りかけてくるわけで、最初は自分が台詞を語るタイミングを間違えたりしてしまう。それを避けるためには、さらにもっと脚本を読み込むことが必要となる。相手の言語も学び、それを覚えることも必要になる。そんなふうに脚本を精査することで、もっと理解が深まる。本作で展開される濱口監督の演技論ということになるだろうか(もちろん私が理解した限りのという意味だが)。

ここでも濱口監督の言葉を引用しておく。

今回もそうですが、撮影前のホン読み(脚本の読み合わせ)は繰り返し重点的におこないます。すると、言葉で容易に伝達することができ、さらに反復練習を重ねていくとかえってそのために奪われていってしまうものがあると感じるんです。決められた通りにやっているという感覚が大事なものを損なわせてしまう。とすると、そこに簡単には通じ合えないというリスクがあった方がその場で起っているものがきちんと見えるようになるし、それは演技にも役立つと考えていました。

多言語を使用するリスクがかえって脚本の理解につながるということなのだろう。本作の役者陣は、撮影で家福の演技論と同様のホン読みをやったようだ。映画の中で展開された演技論と同じ方法で本作は撮られているということなのだ。そうした方法論で稽古を続けることで、劇中でも家福が役者陣に対して表明したように「何かが起きた」と感じられる瞬間がやってくる。

「何かが起きた」瞬間

本作においてわれわれ観客がそんなふうに感じるシーンは確かに存在する。それが高槻が「前世がヤツメウナギの女の子」の物語を語り、さらに自分が感じていることを家福に向けて語るシーンなのではないだろうか。

高槻は自分をコントロールすることすらできないダメな人間と言えるかもしれない。音だけではなく舞台の共演者にも手を出し、家福にも小言を言われるような人物だ。しかしここで高槻が家福に向って語る言葉には何某なにがしかの真実があると感じさせる。

音は浮気をしていた。もしかすると音はそれについて家福に聞いてもらいたがっていたのかもしれない。そんなふうに語る高槻は、その浮気相手であるわけで、高槻はそんな言葉を言う資格はないのかもしれないわけだが、それでも高槻はこんなふうに続ける。

でもどれだけ理解し合っているはずの相手であれ、どれだけ愛し合っている相手であれ、他人の心をそっくり覗き込むなんて、それはできない相談です。そんなことを求めても自分がせつなくなるだけです。しかしそれが自分自身の心であれば、努力さえすれば、努力しただけしっかり覗き込むことができるはずです。ですから結局のところ僕らがやらなくちゃならないのは、自分の心と上手に正直に折り合いをつけていくことじゃないでしょうか。本当に他人を見たいと望むなら、自分自身をまっすぐ見つめるしかないんです。僕はそう思います。

この言葉は村上春樹の原作にもあるものだ。本作でそれがより説得力を増しているのは、演じている岡田将生が素晴らしかったからだろう。このシークエンスは長回しで撮られているのだが、次第に目にはうっすらと涙がにじむようでもあり、ここでは「何かが起きた」と感じさせる瞬間があったのだ。

この後、高槻はある出来事のために舞台から退場していくことになる。そのことが家福を『ワーニャ伯父さん』という舞台に向き合わせることになる。そもそも家福が主役のワーニャとして高槻を選んだのは、自分がチェーホフの脚本を演じることが辛かったからだ。先にも触れたけれど、『ワーニャ伯父さん』という舞台は、辛い真実を知ることになる物語と言えるからだ。

家福は妻と向き合うことができなかった。家福はみさきと彼女の実家がある北海道まで旅をすることで、そのことを改めて感じることになる。それでも音はすでに亡くなってしまっているわけで、今さら彼女に向き合うことはできない。しかし家福は『ワーニャ伯父さん』に向き合うことが、「かつて妻と向き合うことができなかった」という後悔を払拭することになると感じているのだ。だから最後にワーニャを演じきった家福の姿は、音の死を乗り越えて生きていくことを示した大団円として映ることになるのだ。

(C)2021「ドライブ・マイ・カー」製作委員会

声の持つ力

ただ、疑問を感じる部分もある。この疑問はそれだけこの映画がチャレンジングなものを含んでいるということでもある。

本作で演じられる『ワーニャ伯父さん』は多言語演劇となっていて、日本語のほかにも韓国語やその他の言語も交じり合う。そんな多言語によってコミュニケーションが成立するというのも独特だが、さらには本作では手話まで含まれている。

家福は演劇祭の準備として、『ワーニャ伯父さん』の台詞を録音したカセットテープをみさきが運転する車の中で延々と聞き続けている。その台詞を吹き込んでいるのは、亡くなった音だ。本作では亡くなった音の声が延々と響いているわけだ。そのことが家福に音と向き合わなかったことを次第に思い出させることにもなる。つまりはここで家福に迫ってくるのは、音が遺していた声の力ということだろう。亡くなった人の声が聞こえてくるというのは、それだけで何かしらの力があるのだろうと思う。

しかし本作ではさらに声の力と同列なものとして手話も加わっている。声の力だけではなくて、そこに手話という言語にもそんな力があると見込んでいるのだ。しかし観客がそれを感じられたかどうかは疑問も感じた。これはもちろん手話というものを否定しているわけではないわけだが、それ以上に声の力というものが大きいのではないかと感じたということだ。

手話の台詞を理解するためには字幕を介するほかない。では、文字を読むことになるからダメなのかというとそんなことはない。というのも、外国語の台詞を字幕で理解するということは、外国映画を頻繁に観る映画ファンならほとんど違和感なく受け入れているし、外国語の台詞でもその良し悪しなどを感じ取れているように思えるからだ。

それはその言葉の意味はわからなくても、役者が語る台詞の音色は感じ取っていて、そこからより多くの情報を得ているからなのかもしれない。原作においては名前のなかった家福の妻に“音”という名前を付けたのは、脚本も担当している濱口監督なのだから当然それは理解しているわけで、本作はそれより先を見据えているということなのかもしれないのだけれど……。

最後に疑問を呈することにはなってしまったけれど、本作が驚嘆すべき瞬間を含んだ映画であることも間違いない。長丁場でちょっと躊躇してしまう人がいるかもしれないけれど、それはあまりにもったいない気もする(ちなみに私は二度劇場で観てしまった)。

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