監督・脚本は『アンチヴァイラル』などのブランドン・クローネンバーグ。
主演は『ノースマン 導かれし復讐者』などのアレクサンダー・スカルスガルド。共演には『X エックス』などのミア・ゴス。
物語
高級リゾート地として知られる孤島を訪れたスランプ中の作家ジェームズは、裕福な資産家の娘である妻のエムとともに、ここでバカンスを楽しみながら新たな作品のインスピレーションを得ようと考えていた。
ある日、彼の小説の大ファンだという女性ガビに話しかけられたジェームズは、彼女とその夫に誘われ一緒に食事をすることに。
意気投合した彼らは、観光客は行かないようにと警告されていた敷地外へとドライブに出かける。
それが悪夢の始まりになるとは知らずに……。
(公式サイトより抜粋)
罪はクローンが身代わりに
高級リゾート地である孤島は、ホテル近くの一部の敷地だけがフェンスで囲われている。その敷地内では安全が保たれているが、そこ以外は貧しい人も多く物騒な場所らしい。
主人公のジェームズ(アレクサンダー・スカルスガルド)はガビ(ミア・ゴス)という女性に誘われ、囲われた敷地の外に出てしまうことになる。そして、そこで誤って地元の農民を轢き殺してしまうのだ。しかも、その孤島では人を殺した者は、有無を言わせず死刑にされることになるらしい。
ジェームズも孤島の掟に従い死刑となることが決まったわけだが、実は金持ちには抜け道が用意されている。大金を払いクローンを作成し、それを身代わりとすれば、本人は死刑を逃れられることになっているのだ。
この独自の設定はおもしろい。そんなわけでジェームズは自分のクローンを作成することになる。このクローンはジェームズと同じ肉体を持っている上に、記憶などもすべて受け継がれているらしい。だからそれはオリジナルとまったく差はないと言える。そんなクローンが処刑されることになるわけだ。
しかも、この死刑にはオリジナルもなぜか立ち会わなければならないことになっている。ジェームズは被害者である農民の息子によって、クローンのジェームズが殺される様子を目撃することになるのだ。
書けない作家ジェームズ
ジェームズは作家だが、処女作を書いて以来全然書けずにいるらしい。リゾート地にやってきたのは次の作品のインスピレーションを求めてということになる。彼には資産家の娘のエム(クレオパトラ・コールマン)という奥さんがいる。エムが裕福だから、収入がないジェームズもそんな高級リゾート地に滞在できるのだ。
そんなジェームズを悪夢のような出来事へと導くことになるのが、ガビという女性だ。正直、彼女のやっていることはよく意味がわからないとも言える。ガビはジェームズのファンだと言って彼に近づき、彼を危険な出来事へと巻き込んでいく。そんな意味ではファム・ファタール的な女性なのだが、それでいて最終的にはジェームズのためになることをしているようにも見える。
ジェームズがその孤島にやってきたのは、インスピレーションを得るためだった。そして、ジェームズは自分そのものが殺されるのを目撃することになる。これ以上、刺激的な出来事はないかもしれない。そこに導いたのはガビであり、それによって次の作品が生まれたとするならば、ガビはジェームズにとってのミューズということになるのかもしれない。
ところが不思議なことにジェームズはその出来事を書こうとすることもない。ジェームズは劇中で一度も原稿用紙に向かうことも、PCの前に座ることもないのだ。せっかく奇妙で恐ろしい体験をしたのに、彼は一切それを書くつもりもないのか、ガビたちと一緒に飲んだくれることになるのだ。
※ 以下、ネタバレもあり!
設定はおもしろいのだが……
最初にも「設定はおもしろい」と言ったけれど、ブランドン・クローネンバーグという監督の作品は、『アンチヴァイラル』も『ポゼッサー』も設定はおもしろかった。ところがどちらもそこから先はあまりピンと来なかった。そういう点は『インフィニティ・プール』という作品も共通しているかもしれない。
自分が殺される瞬間を見てしまう。そんな設定はなかなかない。その意味では、設定は秀逸なのにも関わらず、そこから先でその設定が活かされているようにも見えないのだ。
ちなみにブランドンの父親であるデヴィッド・クローネンバーグは『戦慄の絆』という作品で、クローンのような双子の話をやっている。この双子は顔はまったく同じだけれど、性格は違うという設定になっていた。それでも自分と同じような存在がいるということは、その片割れに対しても多大な影響を与えることになっていた。
それに対して『インフィニティ・プール』の場合、自分と同じ肉体を持ち、自分と同じ記憶を保持しているクローンがいるにも関わらず、オリジナルがクローンに対して抱く感情はごくあっさりとしたものになっているように感じられた。自分が殺される瞬間を目にしているわけで、もっと衝撃を受けても良さそうなものなのに、誰もそのことに対して驚いていないかのように見えるのだ。
というのは、ガビたちのグループは、孤島におけるクローン技術を知り、それをハメを外すためのいい機会として利用している。島の工芸品らしき不気味な仮面を被って暴れ回ったり、通常ならば違法行為とされることを平気でやっているのだ。
孤島では金さえあれば、死刑すら回避できる。そうなれば何でもやりたい放題ということなのだ。好き勝手に悪事を働いても、クローンを身代わりとして差し出すことですべてはご破算になる。ガビたちは孤島でストレスを解消し、後は日常に戻って金を稼ぎ、再び夏が来れば孤島でハメを外すことになるのだろう。せっかくの「クローンの死刑」というネタがあるにも関わらず、こういう展開は突っ込みが浅いような気もした。
願望充足映画?
ただ、ジェームズはガビたちとはちょっと受け止め方が異なるようでもあった。多分、ガビたちは再び次の夏に孤島に戻ってきて、同じことを繰り返すことになるのかもしれないけれど、ジェームズの場合は日常に戻ることすら諦めてしまったように見える。
ジェームズは書けない作家として、自分の才能に疑問を感じていた。最初のクローンが殺された時、彼はちょっとだけ笑みを浮かべてもいた。もしかするとクローンの死刑は、ジェームズにとっては自殺願望を満たすような出来事だったのかもしれない。
ガビが読んだジェームズの処女作の批評には、ジェームズが「自分の才能のなさに気づいている」などというものもあったわけで、彼は自己破壊願望があったのかもしれない。それが最終的に自分のクローンを素手で滅茶苦茶に破壊するというラストに結びつくことになる。
このジェームズの姿には、どこかで監督のブランドン・クローネンバーグの姿が重なってくるようでもある。というのは、彼はボディ・ホラーの第一人者などども評価される特異な父親と比べられることになるわけで、自分の才能というものに対して疑問を抱くような機会は誰よりも多いだろうと推測されるからだ。
ジェームズは本作で自己破壊願望を満たすことになったし、ガビの存在もジェームズを翻弄しているようでありつつも、彼に大きなインスピレーションを与えていたし、最後は母性を感じさせるようにジェームズを抱きとめることになる。その意味では、ガミは彼にとって都合のいい女性とも言えるわけで、本作はジェームズ=ブランドンの願望充足映画ということだったのかもしれない。
ジェームズは自分のことをすでに破壊してしまったわけで、この後一体何をすべきだろうか? ラストでひとり孤島に佇むジェームズの姿はそんな絶望感があった。
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