『悪は存在しない』 主人公は自然そのもの?

日本映画

監督・脚本は『ドライブ・マイ・カー』などの濱口竜介

音楽は『ドライブ・マイ・カー』でも音楽を担当していた石橋英子

ヴェネチア国際映画祭では銀獅子賞(審査員大賞)を受賞した。

物語

長野県、水挽町みずびきちょう。自然が豊かな高原に位置し、東京からも近く、移住者は増加傾向でごく緩やかに発展している。代々そこで暮らす巧(大美賀均)とその娘・花(西川玲)の暮らしは、水を汲み、薪を割るような、自然に囲まれた慎ましいものだ。しかしある日、彼らの住む近くにグランピング場を作る計画が持ち上がる。コロナ禍のあおりを受けた芸能事務所が政府からの補助金を得て計画したものだったが、森の環境や町の水源を汚しかねないずさんな計画に町内は動揺し、その余波は巧たちの生活にも及んでいく。

(公式サイトより抜粋)

音楽のための映像

そもそもこの企画は、『ドライブ・マイ・カー』でも音楽を担当していた石橋英子が、自分のライブパフォーマンス用の映像を作ってほしいと濱口竜介に依頼したところから始ったらしい。試行錯誤の結果、最終的には「従来の制作手法でまずはひとつの映画を完成させ、そこから依頼されたライブパフォーマンス用映像を生み出す」ことになったとのこと。そうして出来上がった長編映画が『悪は存在しない』であり、もう一つが石橋英子のライブ用のサイレント映像『GIFT』ということになる。

そんなふうに出来上がった『悪は存在しない』という作品が、『GIFT』を生み出すために出来上がった単なる副産物なのかどうかは、『GIFT』を観ていないからわからないけれど、そもそものきっかけは石橋英子の音楽に合わせるためということがあったわけで、彼女の音楽からインスピレーションを得て、「音楽のための映像」として出発したということになる。

冒頭、森の映像が続く。カメラは真上を向いていて、木々の向こうには空が映し出されたまま、カメラは移動していく。この長回しのシーンに、石橋英子の音楽が重ねられていく。そこで繰り返される印象的な旋律は美しい調和といったものを感じさせるけれど、本作ではそれが突然断ち切られる時が来る。

邪魔したのは花(西川玲)という少女が雪の残る森を歩いていく足音であり、さらに花の父親である巧(大美賀均)が使うチェーンソーのけたたましい音ということになる。それによって美しい旋律はかき消されることになってしまう。本作は意外なラストを迎えることになるわけだけれど、最初からそれは予告されていたということだったのかもしれない。

©2023 NEOPA / Fictive

主人公は自然そのもの?

取っ掛かりを聞くと何となく実験的な作品を思わせなくもない。確かに最初の長回しなんかを見ていると、そうしたイメージもあるのだが、実際にはまったく退屈することもなく引き込まれ、いつの間にかに登場人物の会話に笑いすら漏れることになるという不思議な魅力に満ちた映画だった。

濱口監督が石橋英子の音楽から思い浮べたものが自然だったようで、『悪は存在しない』は自然そのものが主人公とすら言えるのかもしれない。舞台となっているのは長野県の水挽町という場所だが、水挽町というのは架空の場所で、実際は長野県の富士見町や原村を中心とした諏訪地方で撮影されているとのこと。

冒頭の森の空を映したカメラの動きも印象的だったけれど、森の中を歩いていく巧の姿を横移動で追っていく中で、いつの間にか時間が経過しているといったシーンなどもあり、森の自然を映しているだけでもそこには何らかの驚きがあり飽きさせることがないのだ。

巧が学童保育に娘の花を迎えに行った場面では、子供たちが「だるまさんが転んだ」に興じていて、時が止まったかのようなシュールな瞬間があった。それからカメラがちょっと不自然な動きをした後で、車の後ろに遠ざかっていく風景を捉えるという場面も意外性があった。

というのは、この場面では巧は前を向いて車を運転しているわけで、車から遠ざかっていく風景を見ている人はいないはずなのだが、なぜかそんな撮り方になっているからだ。これについて濱口監督は“自然の目線”という言い方もしているようで、ここでも本作の主人公が自然そのものであるということを示しているのかもしれないのだが、それはともかくとしても単に撮り方だけを見ていてもどこか引き込まれるものがある作品になっているのだ。

ヴェネチア国際映画祭の銀獅子賞とか聞くと、何やら高尚で芸術的なものを感じさせるし、もちろんそういう側面もあるけれど、それだけではなく単純に楽しめる作品にもなっていたと思う。最近はそんなふうにおもしろがれる作品は滅多にないような気もして、やはり稀有な作品になっていたんじゃないだろうか。

©2023 NEOPA / Fictive

自然とのバランス

巧は町の便利屋と称していたけれど、実際は何をやっているのかよくわからない。近くのうどん屋さん用の水を汲んで運ぶ仕事をしていたり、薪割りに精を出したりしている。地域の自然と一体となって生きている姿が丹念に捉えられていくことになるのだ。

物語が動き出すのは、水挽町にグランピング施設を建設する計画が持ち上がってきたあたりから。水挽町は特段の観光地というわけではないらしい。別荘としてそこに家を持つ人も多いようだが、商売をやっている人が多いわけではなく、観光客を集めたいと望んでいる人はあまりいない。そんな土地によそ者が突然やってくることは、自分たちの静かな生活が乱されることになる可能性があるわけで、多くの住人はその計画に疑問を抱きつつ説明会に参加している。

だから説明会では住民からの懸念が百出し、建設計画の発起人である高橋(小坂竜士)と黛(渋谷采郁)はこてんぱんにされることになる。住民からすれば、都会の会社が田舎をダシにして儲けようとしているようにしか見えないということだろう。

ここでは都会と田舎の対立を感じさせるし、明確に二人に対して敵意を抱いている住民もいる。そんな中で巧は「バランスが大事」だと語ることになる。その土地はもともと戦後になってから彼らの祖先に分け与えられたものであり、みんながよそ者なのだという。それでも今そこに住む人たちは、うまくバランスをとって自然と接してきたということなのだろう。それに対して都会の会社がやっていることはどうなのか。バランスを崩すことになりはしないのか。そんな疑念が示されるのだ。

©2023 NEOPA / Fictive

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自然の営みとは?

田舎と都会。自然を壊すかもしれない都会の会社は、田舎の住人からすれば“悪”のように見えなくもない。しかしながら、その後の展開はそんな単純ではないこと示すことになる。

説明会にやってきた高橋と黛は、結局は会社の意向を伝えるための代理人でしかない。二人は特に田舎に害をもたらしたいわけでもないし、積極的にグランピング施設を作りたいという意欲を持っているわけでもない。それでも二人がそうせざるを得ないのは、それが二人の仕事であり、生きていくために必要だからということになる。

そして、会社がそんな計画を必要としているのも、会社が生き延びるためということになる。その会社は芸能事務所らしく、本来の仕事とは別のことに手を出していることになる。コロナ禍において本来の仕事の業績が悪化し、生き延びるために希望を見出したのが行政が出す補助金で、グランピング施設の計画はその補助金を得るために必要な手段だったということになる。都会の会社がやっていることも、いわゆる生き残り戦略ということになる。

本作のタイトルは「悪は存在しない」というものだ。このタイトルに関して、濱口監督は自然のことを例に挙げている。自然は時に猛威を振るうことになったりもするけれど、それに対して人間は“悪”と感じることはないだろうというのだ。自然の営みというものはそういうものであり、悪でもなければ善とも言えないようなものだからだ。

最初は田舎に害をもたらすためにやってきたように見えた高橋と黛だが、二人は会社と田舎の住民たちとの間で板挟みにされる損な役回りであることもわかってくる。そして、観客としては、二人が再び長野に向かう際の微笑ましいやり取りに和まされることになり、二人のやっていることも生き延びるために必要に迫られているだけのものと感じることになるだろう。そこにはやはり悪というものは存在しないとも言えるというわけだ。

©2023 NEOPA / Fictive

意外なラスト

ところがラストは意外な展開を迎える。自然というものは、ただそこにあるだけだ。人間も生まれたから生きているだけ。鹿のような動物も同様ということになる。その意味で言えば、人間も動物も変わりないし、それらは自然の一部ということになる。

自然の営みに悪はない。鹿は手負いの状態だと稀に人間を襲うこともあるけれど、これは例外的なものである。鹿も生き延びなければならないというだけで、それは人間が生きようと欲することと何も変わらない。ラストの巧の行動もそうした自然の営みとして理解するべきものということなのだろう。巧に悪意があったわけではないけれど、そうした出来事も起こり得るということになる。

ラストが唐突なものに見えたのは、巧自身が自分の行動を理解していなかったからかもしれない。巧は最初から正直に自分の気持ちを話している。鹿の通り道になっている危なっかしい場所に、都会の人は来たがるのだろうか。そんな疑問を吐露したのは、建設計画に水を差すためではなく、巧が本当にそう感じたからということになる。

巧はそのほかにもグランピング施設によって鹿の通り道が奪われることになったら、「鹿はどこに行くのだろうか」ともつぶやいている。これも単純にわからないと感じたからということになる。巧は都会の人たちが考えることも、鹿の行動もわからないのだ。そして、多分、自分がやってしまったこともよく理解していないのだ。

高橋と黛だって似たようなものだ。高橋は芸能人のマネージャーのようなことをしていて、そこからなし崩し的に今の仕事に就くことになり、さらにはグランピング施設の管理人になりたいとまで言い出す。黛は介護の仕事から、やけくそ気味にまったく関係ない今の仕事に飛び込んだらしい。人は自分のやることをあまり理解していないということなのだろう(これは本能的に行動しているということだろうか)。与えられた状況によっては、人は自分でも予期せぬことを仕出かしてしまうことになるということなのだ。

映画は円環を閉じるように、最初の場面へと戻ってくることになる。そうすると最初のシーンもまた別の意味を帯びることになる。本作はそもそも石橋英子の音楽のための映像ということからスタートしたわけで、聴く映画といった趣きもあるだろう。濱口監督は音楽を繰り返し何度も聴くように、本作も何度も繰り返し観て欲しいと言っている。確かに、本作は終わった後にもう一度最初から観てみたくなるような余韻を残して終わることになるし、一度では汲み取れない“何か”を孕んでいるような気もするのだ。

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