『人数の町』 自由あり平等あり快楽あり

日本映画

監督・脚本はCMなどを手掛けていた荒木伸二で、これが映画初監督作品。

木下グループ第1回新人監督賞で、準グランプリを獲得した脚本を映画化したもの。

物語

借金取りに追われていた蒼山(中村倫也)は、危ないところを黄色いツナギの男・ポール(山中聡)に助けられる。すでに居場所を失っていた蒼山は、その男が居場所として用意してくれた“ある町”へとやってくる。

そこはフェンスで囲われた町で、その中で暮らす分には衣食住は保証され、簡単な仕事をこなすだけで生きていける。しかも住民には自由と平等が与えられ、フリーセックスが推奨されている。蒼山はそんな町で生きていくことになるのだが……。

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外の世界から逃げてきた人たち

住民は町に入ると各自の部屋を与えられ、その町のルールについて書かれたバイブルを熟読するように言われる。そこには自由や平等についての独特な考えが記されている。

町の中では家族制度は否定され、子供がいたとしても、別の場所にある保育施設で育てられることになる。そしてセックスは推奨され、妊娠を避けるために、避妊具も常備されている。ごく簡単な労働さえすれば、食料も確保され、衣食住に関して心配する必要など一切ない世界なのだ。

蒼山は借金取りに追われていた人間だが、そのほかの住民も殺人を犯した者や、DVから逃れてきた者など、外の世界で生きていけなくなった者たちが集まっているのだ。彼らは外の世界では逃亡者かもしれないが、その町においては住民として歓迎され、楽に生きていくことができる。それにしてもなぜそんなことが可能なのか?

※ 以下、ネタバレもあり!

(C)2020「人数の町」製作委員会

町の仕組み

その町では、住民がする簡単な労働がどこかで利益を生むという構造になっている。住民は何かに関して賞賛のコメントを投稿したり、逆にディスることで食料を確保するのだが、これはネット世論を操作することが金を生んでいるということだろう。

また、時には町の外に出て活動することもあるのだが、これは選挙への投票という仕事になっている。誰かに成りすまして指定された候補者へ投票することで、町に金が入るという仕組みだ。民主主義は多数決の結果を重んじるわけで、数は力となる。その力を思うがままに動員できるとするならば、それが大金に化けるのだ。

劇中では失業者の数や、ネットカフェ難民の数、選挙の投票率などの数値が示される。これらの数は、統計上の数量であり、ここでは人間は個々の存在ではなく数量として把握される。その町では住民を飼い慣らすことによって、「人数」という力を保持し、それを特定のところへ動員することで町の経済を維持しているということになる。

町のバイブルには自由と平等という高邁な理想が掲げられ、しかも町には通貨すらない。ある種の理想の実現した社会のようにも見えるのだが、実際の町は資本主義と民主主義によって成り立つ外部の世界に寄生している違法な町なのだ。

(C)2020「人数の町」製作委員会

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ディストピアorユートピア

人数にんずうの町』公式HPなどで“ディストピア・ミステリー”と謳われている。ちなみにディストピアとは、ユートピア(理想郷)とは正反対の社会とされるものだ。

とはいえ、本作で描かれるその町の様子は、極めて整然としているし、安心・安全も保たれ、ほとんど楽園のようにすら見える。その証拠に、町の内部からそこを本気で抜け出そうとする者は出てこないし、町に対して抗議するような動きもない。となれば本作の町は一種のユートピアのようにも思える(その一方で違法な仕事に依存している点ではディストピアなのかも)。

蒼山がそこから逃げ出すきっかけは、町の外部からもたらされる。木村紅子(石橋静河)は外の世界から逃げてきたのではなく、DV被害者だった妹の緑(立花恵理)とその娘を探して町の住人になった変わり種で、蒼山はそんな紅子に惹かれていくことになるのだ。

本作で蒼山から紅子への「愛」が語られる場面はあまりに唐突で白々しいのだが、というのも町の中では「愛」が占める場所など必要とされてないからだろう。

(C)2020「人数の町」製作委員会

チューターとデュードの違い?

町は黄色いツナギのチューターに管理され、デュードと呼ばれる住民がそこで生きていく。社交場であるプールではフリーセックスが推奨されているわけだが、なぜかチューターにはそれが禁止されている。そして、デュードは互いをフェローと呼び合い、名前を持たない存在となっている一方で、チューターは個人名が記されたツナギを着ている。この違いは何なのだろうか?

ラストで蒼山はチューターになるわけだが、紅子は町の外にいて、蒼山はそこから町へ通っている(ように見える)。ほかのチューターに関して具体的な描写がないのであくまで推測だが、チューターは町の管理者でありながら、外部の世界に住んでいるのかもしれない。

町の中にはすべてがあるように見える。ただ、それでは飽き足らない者もいて、そうした人が求めるのが「愛」ということなのかもしれない。しかし町の中では「愛」は余計なものでしかなく、特定の人を独占しようとする意志は、町の理念からもかけ離れる。だから「愛」を選択する者は、町の内部のユートピアを捨て、それを管理するチューターになる。本作の設定はそんなふうになっているのかもしれない。

(C)2020「人数の町」製作委員会

失われた自由?

本作の冒頭でチューターのポールが語っていたのが「美しい景色」についてだ。蒼山はそれを感じることができないのだが、ラストでチューターとなった蒼山はその美しさを理解している。その景色が美しいのは「自由だから」と蒼山は語るわけだが、これは皮肉に満ちているだろう。

蒼山は一度町の外部へ出たものの、結局は生計を立てる才覚もなく、コンビニ強盗をする羽目に陥る。それによって蒼山は町へと戻ってくるわけで、外の世界に違法な手段で寄生している町に、さらに寄生しているのが蒼山ということになるからだ。

デュードは町に「人数」として搾取される被害者とも言えるかもしれないが、チューターは積極的に一種の詐欺に加担していることになる。蒼山が自由だと語るのは、デュードの立場で町の内部に留まっている限りにおいては自由だという意味にも感じられる。

「愛」を求めて外部に出ても、結局は町に依存する形、つまりは詐欺に加担することを選択した蒼山にとっては、自由はすでに失われているのだろう。だからこそ自由が美しく感じられるとも言えるわけだが……。

本作はオリジナル脚本で独自の世界をつくり出している点は評価すべきで、人を数として見る町という設定はユニークだし、自由や平等や愛に関する様々な寓意を読み込むことができるのかもしれない。ただ、作品そのものは世界観の説明に終始してしまい、観客の感情に訴えるところに欠ける。だからよくできていると感心はしたとしても、心を動かされることがない。その点で惜しい作品になってしまっているようにも感じられた。

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