『まなみ100%』 「意味がない」ことの意味

日本映画

原案・監督は『満月の夜には思い出して』川北ゆめき

脚本は『れいこいるか』などのいまおかしんじ

主演は『うみべの女の子』青木柚と、『アルプススタンドのはしの方』中村守里

物語

自分勝手で少し変わり者の“ボク”は、高校で同じ器械体操部に所属していた平凡そのものの女の子・まなみのことがずっと好きだった。高校時代、大学時代、現在までの10年間で多くの出会いと別れを経験しても、まなみに対するボクの思いは変わらず、その理由もわからない。やがて、まなみが結婚することになり……。

『映画.com』より抜粋)

一途な10年間?

予告編からすると、10年間一途にまなみちゃんを想い続けた“ボク”というイメージだったのだが、それは最初から崩されることになる。このボク(青木柚)は何ともチャラい奴なのだ。そんな男が「なぜ10年も?」という感じもするわけだが、本作はまなみちゃん(中村守里)が結婚する日から始まり、一気にボクとまなみちゃんとの高校時代の出会いの場面まで遡る。

時代は2010年で、そこから先は悪く言えば、何の工夫もなく時の流れに従ってボクが体験した出来事が描かれていくのだ。

体操部でのまなみちゃんとの出会いから始まり、ボクと熊野(下川恭平)と町(藤枝喜輝)は仲良し3人組を結成することに。そこには体操部のマドンナである瀬尾先輩(伊藤万理華)もいる。チャラいボクには高校時代から彼女のカンナ(菊地姫奈)がいたし、その後も大学の映画研究会でのクロケイ(宮崎優)とも楽しくやっていたし、今では唯(新谷姫加)という彼女がいる。そんなふうに月日が流れ、まなみちゃんとは疎遠になっても、ボクはどこかで彼女のことが気になっているのだ。

(C)「まなみ100%」フィルムパートナーズ

意図的な愚直さ?

本作は川北ゆめき監督が原案を出していて、主人公のボクは恐らく監督自身ということになるのだろう。最初にその中心にいるのはまなみちゃんだが、高校卒業後は彼女とは離ればなれになり疎遠になっていく。そんな中で脈絡ない感じで瀬尾先輩の死が描かれたりもする。

こうしたエピソードの羅列は、単に川北監督が実際に体験したことだからなのだろう。奇妙に感じたのは、こんなふうに自分の半生を辿るだけという何とも愚直な方法を選んでいるところだ。脚本は『れいこいるか』なども評価され実績のあるいまおかしんじが担当していて、もっと何かしらの方法があったんじゃないかとも思えなくもなかったからだ。

しかしながら川北監督の前作『満月の夜には思い出して』(U-NEXTにて配信中)を観てみると、『まなみ100%』とはだいぶ印象が異なる。『満月の夜』はもっと気取ったスタイルになっているし、編集のテンポもいい。技巧的にも凝っているように感じられ、もしかしたら本作のこの愚直さは意図的なものだったのかもしれないとも思えたのだ。

『満月の夜』は、「何かに夢中になって打ち込んでいる人」と、そんな珍しい人に憧れつつもそれを否定してしまう「普通の人」がいる。川北監督はチャラい奴ではあるけれど、どちらと言えば前者なのだろう(20代でシネコンでも公開される作品を作ってしまうのだから)。何かに打ち込み、そのことに疑問を感じることもなく突き進める人は滅多にいない。『満月の夜』は群像劇だけれど、普通の人の視点があるからこそ観客にも共感できる話になっていたと思う。

それに対して本作のボクは、ほとんど川北監督そのものなわけで、ボクのチャラさを見ているとそれに共感できる人はごく少数だろうし、かえって反感を覚える人も多いかもしれない。それでもやはり川北監督は「何かに夢中になって打ち込んでいる人」なのだろうし、だからこそ自分を偽ることもできなかったということだろうか。

(C)「まなみ100%」フィルムパートナーズ

猿語を使う現実的な人

ボクが10年もの間想い続けたまなみちゃんはどんな女性なのか。映画サイトなどに載っている「あらすじ」を誰が書いたのかはわからないけれど、まなみちゃんはどの記事でも“平凡そのものの女の子”とされている。

実際のまなみちゃんは平凡とは思えないけれど、夢見がちな「何かに夢中になって打ち込んでいる人」の側からすれば、まなみちゃんは現実的な人だとは言えるのかもしれない。

ボクがまなみちゃんに惹かれたのは、彼女のノリの良さだったのかもしれない。そもそもメールアドレスを交換した時に「猿語でメールしてね」などと言い出したのはまなみちゃんであり、悪ふざけをやって一緒に楽しめる女の子だったからなのだろう。

とはいえそれは、チャラいボクに合わせていてくれただけで、まなみちゃんはボクがさらに一歩踏み込もうとするとさりげなくかわしていくことになる。

ボクは最初のデートの時から「結婚しよう」などと言い出すものだから、ボクの中では本気なのかもしれないけれど、それがまなみちゃんには冗談に聞こえてしまう。そうすると決定的にフラれることもないけれど、それ以上近づくこともできないことになってしまうのだ。

(C)「まなみ100%」フィルムパートナーズ

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それに意味はあるの?

前作の『満月の夜』には、執拗に繰り返される問いかけがある。それは「意味があるか否か」ということだ。そして、その問いは本作にも引き継がれているように感じる。

『まなみ100%』では、高校生のボクが受験に関係ない勉強を疎かにすることに対し、体操部の顧問でもある先生(オラキオ)は「無用の用」という言葉で説教することになる。ボクが受験に関係ない勉強を「意味がない」と捉えるのに対し、先生は実は役に立たないように見えることこそが重要であると諭すことになるわけだ。

さらに本作では、ボクの映画研究会時代の仲間は「映画は意味がないから好き」といった趣旨のことを語っていた。これに対してボクはツッコミを入れることもなく、スルーしてしまうことになるわけだけれど、この言葉は本作のことを示しているのかもしれない。

というのも、ボクは10年の間まなみちゃんに求婚したり、まかり間違ってベッド・インしたりもするけれど、結局は何をすることもなく、まなみちゃんは別の誰かと結婚することになってしまうからだ。そのことからすればボクの10年はまったく「意味がない」とも言えることになる。つまりは本作はまったく「意味がない」映画ということにもなるのかもしれない。

(C)「まなみ100%」フィルムパートナーズ

「意味がない」ことの意味

では、川北監督は本作を無意味な映画と考えているのかと言えばそんなことはないだろう。本作は川北監督の自伝のようなものだし(まだ人生を振り返るほどの年齢ではないのだけれど)、まなみちゃんとのことにケジメをつけるために必要とされた作品ということだろう。そして、それだけではなく亡くなった瀬尾先輩に対する弔いの映画でもある。そんな映画が無意味なわけはないわけで、当然ながら川北監督にとっては有意義であり価値のある作品ということになる。

それでは映研メンバーの「意味がない」というのはどういう意味だったのか。彼は無意味な映画が好きだと言っていたのだろうか? 私にはここでの「映画は意味がない」ということの意味は、つまるところは人生は意味がない」ということと同じことで、だからこそ映画が好きだと言っているように聞こえた。

(C)「まなみ100%」フィルムパートナーズ

もちろん人は自分の人生を有意義なものと思いたいし、そんなふうに解釈しようとするだろう。ところが瀬尾先輩はそんな想いも虚しく呆気なく病気で死んでしまう。彼女は体操部のマドンナであり、クラスの多くの男子から告白されつつもフッてしまった人気者だった。そんな彼女には輝かしい未来があるはずだと誰もが信じていたのかもしれないけれど、彼女は運悪く病気になってしまう。

ここで私は“運悪く”という言葉を使ったけれど、これは私の勝手な解釈であり、彼女の病気にはどんな意味というものも存在しないのだろう。

たとえば瀬尾先輩のことを映画にするとしたら、若くして亡くなってしまった悲劇の主人公などという陳腐な物語ができるのかもしれない。しかし、実際の彼女の人生はそんな安易な意味というものにまとめられてしまうようなものではないだろう。

ボクとまなみちゃんとの関係もそんな安易な意味に還元されてしまうようなものではないはずだ。川北監督としてはそんなふうに感じていたのだろうか。だから凝った構成と捏ねくり回した編集で安易な意味を産み出してしまうよりも、まなみちゃんとボクの10年は「こんなふうだった」とありのままに投げ出すことがすべてという判断になり、それが本作の愚直とも言える方法論になったということなのかもしれない。

ストレートにまなみちゃんへの想いをぶつけた本作は、当然ながら川北監督の自己満足という側面は強い。それでも若手の女優陣がそれぞれとても魅力的に映っているところに作品としての価値=意味があるのだろう(それは前作『満月の夜』にも言える)。そして、女優を美しく撮ろうという監督の熱意が感じられる映画でもあったと思う。

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