『罪の声』 一方的な断罪

日本映画

原作は塩田武士の同名小説。

脚本は『逃げるは恥だが役に立つ』『MIU404』などの野木亜紀子

監督は『いま、会いにゆきます』などの土井裕泰

物語

35年前、日本中を巻き込んだ未解決事件「ギンガ萬堂事件」。子供が大好きなお菓子に青酸カリを混入させ企業を脅迫した犯人グループは、ほかにも社長の誘拐や身代金の要求など様々な事件を起こしていた。しかもマスコミを巻き込み、警察に対する挑戦状とも言える犯行声明を出し世間を騒がせ、忽然と姿を消してしまう。

京都でテーラーを営む曽根俊也(星野源)は、ある日、押し入れの奥から古いカセットテープを発見する。そこにはかつて「ギンガ萬堂事件」で使われた子供の声が録音されていて、それが俊也自身の声だったのを知り驚愕する。一方、新聞記者の阿久津英士(小栗旬)は未解決事件の取材として「ギンガ萬堂事件」について調べ始めていた。

事件の真相

当時のことを知っている人なら誰にでもわかるように、『罪の声』「グリコ・森永事件」をモチーフにしている。世間を大いに騒がせた大事件であり、“キツネ目の男”という犯人像が示されながらも、結局誰一人として逮捕されることもなく、2000年になってすべての事件が時効を迎えた。

本作は「グリコ・森永事件」の真相を推理してみせるフィクションだが、事件は実際にそんなふうに起こっていたのかもしれないと思わせるような説得力がある。過去の事件の謎を調べていくという性質上、物語は登場人物の台詞によって進んでいくことになるわけだが、その点で画としての魅力に欠ける部分があるかもしれないが、物語の展開として惹き込まれるものがある。

「グリコ・森永事件」では、犯人グループは一銭の金も受け取っていないにも関わらず、忽然と姿を消してしまった。その裏では犯人たちが株価操作で多額の利益を得ていたのではないかという推測も納得させるところがあるし、同時に身代金の受け取りも綿密に計画していたのには、内部で仲間割れがあったのではないかというのも肯けるものがあるからだ。

(C)2020 映画「罪の声」製作委員会

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フィクションの部分

そうした事件の真相からは離れることになるが、本作では実際に犯行に使われた子供の声が重要な要素となっている。犯行に使用された子供の声は3人。その子供たちはその後どんな人生を送ることになったのか。ここは原作者の想像力が生み出したものだろうが、それが本作の泣かせどころとなっている。

声を使われたひとりである曽根俊也は、自分が事件に関わっていたことをまったく知らずに平穏な日々を送っていたのだが、あとの二人は違う。犯人グループに交じっていた暴力団によって、父親を殺され母親と共に軟禁状態で生きて行かざるを得なくなるからだ。しかも姉の望(原菜乃華)は逃亡した際に、事故に遭って死んでしまう。生き残った弟・聡一郎(宇野祥平)はその後35年間も日陰者の人生を余儀なくされる。

実際の「グリコ・森永事件」でも、事件によって社会は様々な影響を受けたし、中には人生を狂わされた人もいたようだ。グリコの商品は包装が開封された場合元に戻せない形に変化したし、犯人を取り逃がしたとされた警察の中には、責任を取るような形で自殺してしまった者もいたのだ。

(C)2020 映画「罪の声」製作委員会

原作者の意図?

事件によって人生を狂わされた子供たちの姿は泣かせるのだが、犯人と阿久津が交わすことになる最後の会話が原作者が書きたかったことだったんじゃないかと感じた。

劇中の「ギンガ萬堂事件」は既に時効を迎えていて、それを調べても犯人を逮捕することもできない。それだけに新聞記者である阿久津は自分のやっていることに疑問を感じる。俊也には事件を掘り返しても、エンターテインメントとして消費されるだけになるんじゃないかと非難される。そうならないために阿久津がしたことが、犯人である俊也の叔父・達雄に会って難詰することなのだ。

この場面は原作者の「全共闘運動に対する疑問」から生まれたんじゃないかと推測する。ちなみに原作者の塩田武士『テロリストのパラソル』(著者:藤原伊織)という小説を読んで作家を志したのだとか。『テロリストのパラソル』の主人公も東大全共闘の闘士だったのだ。『罪の声』では、全共闘運動に参加していた達雄がその運動の余波のようにして、社会に対する鬱憤を晴らすかの如き「ギンガ萬堂事件」を起こす。ほかの犯人の動機は金銭だったかもしれないが、達雄の動機はそれとは異なるのだ。

全共闘運動のわからなさ

全共闘運動に関して簡単に説明することは難しいが、60年代の後半には世界的な規模で異議申し立ての運動が起きていたことは確かだろう。ベトナムに対する反戦運動や、フランスの五月革命、プラハの春などがそれに当たる。そうした世界的な流れのなかに全共闘運動もあったことになる。

当時はマルクス主義というものが信じられていて、それによって世界を変えることができると考える人もいた。だからこそ権力に対してバリケードを築いて抵抗したりという運動が起きていたわけだ。しかし、90年代に入りソ連が崩壊してしまってからは、そのこと自体が理解できないことになってしまったのかもしれない。

72年の連合赤軍事件のリンチ殺人もそうした運動のなれの果てで起きたことで、この事件も外部の者にとっては理解しがたい事件であったわけだが、全共闘運動そのものも当時をよく知らない人からすると理解できないことに映るのだ。

たとえばそんな世代間の断絶を感じさせる本として、『動物化する世界の中で』を挙げておきたい。この本は、全共闘世代の小説家・評論家である笠井潔と、団塊ジュニア世代(全共闘世代からすると子供くらいの年齢と言ってもいい)である批評家・東浩紀の往復書簡集となっている。

ここではそのやりとりの途中で対話が決裂したような形になる。年少の東は「笠井さんと僕のあいだの時代認識における根本的な差異が横たわっているように思われます」と吐露している。というのは笠井の側はすべてをかつての新左翼の言葉によって語ろうとし、当時を体験していない東としてはその言葉が的外れのものに感じられてしまうのだ。笠井がマルクス主義の呪縛に捕らわれているようにも感じられ、そうしたものから自由な立場にいる東としては笠井の語ることが理解しかねるのだ。

『罪の声』の原作者もそんな疑問を感じ、それを最後に全共闘世代の達雄にぶつけることにしたのではないだろうか。

なぜ俊也の声を

『罪の声』の中では、全共闘運動の話題が二度に渡って登場する。まずは達雄(川口覚宇崎竜童)が学生運動に傾倒していくきっかけとして。達雄の祖父は、全共闘運動の内ゲバに巻き込まれ殺されてしまう無関係の一般人という設定。しかし、ギンガの社員だった祖父は、全共闘運動の闘士と勘違いされたままになってしまう。ギンガ側は線香のひとつも上げに来なかったとされる。達雄はそのことでギンガという企業や社会全体に対して恨みを抱く。全共闘運動の闘士に対して恨みを抱くのではなく、自分も社会を変革しようという方向へと進むことになるのだ。

もうひとつが達雄の義理の妹にあたる真由美(阿部純子梶芽衣子)の話。真由美の父親は、落とし物を警察に届けたにも関わらず、警察側が中身をネコババしたことにより父親は犯人とされてしまう。それをきっかけに父親は仕事をクビになり、そのことが真由美を全共闘運動へと向わせることになる。

のちに真由美はお見合いで俊也の父である光雄と結婚することになるのだが、全共闘運動の時に一緒に活動したこともあった達雄が光雄の兄であることは知らないままだった。真由美は学生運動からは退き、光雄とテーラーを経営する平穏な生活を送っていたのだが、どこかに社会に対する恨みを燻らせていた。そのことが真由美が俊也にテープを吹き込ませる要因となるのだ。

(C)2020 映画「罪の声」製作委員会

一方的な断罪

達雄や犯人グループのやったことは犯罪だ。それに子供を巻き込んだことも重大な間違いだったのだろう。また、達雄はロンドンのかつての恋人に“fossil(化石)”と名付けられ、全共闘運動をしていた時代から抜け出せぬまま過ごしてきたことも確かなのだろう。だからそんな犯罪者の達雄が非難されるのは当然なのかもしれないのだが、本作のラストで阿久津によって達雄が一方的に否定されてしまう部分には居心地の悪いものを感じた。

阿久津は子供を巻き込んだことを間違いだと非難し、達雄のやったことすべてを否定する。それに対して達雄はほとんど何も言い返すこともできず、その後に新聞記事が出ると、どこかに逃亡してしまうことになる。

本作の感想を読み漁っていて見つけたものの中には、「本当に失礼な映画」と断じているものもあった。

この投稿者は全共闘運動の当事者だったのかもしれないし、それに対して何らか理解を示している人なのかもしれない。私自身は全共闘運動やその世代に対してよくわからないと感じつつも、わからないからこそ興味を持って本などを読んできたような気がする。だからその糾弾が真っ当ではありつつも、あまりに一方的なものにも感じた。

体験していない歴史的な出来事にはわからなさは当然あるかもしれないのだが、それが総括されることもなく単に否定されるものになってしまっていいのだろうか。記事を書くために過去を調べた阿久津は、真相と思われるものに辿り着き、その過程で犠牲になった子供たちにも出会う。その子供たちに対する同情の念は当然だが、一方でなぜ達雄がそんな運動へと足を踏み入れることになったのかという点にまでは踏み込まれていないのだ。その部分がやや食い足りない気もしたし、当時を知らない者が一方的に断罪するだけで終わってしまうのは、それまで惹き込まれるようにして見てきただけにちょっと残念な気もした。

最後に付け加えておけば、本作は脇役の顔ぶれが賑やかな作品だった。特に印象に残るのが不遇な人生を歩むことになる聡一郎を演じた宇野祥平で、時代遅れの分厚いレンズの眼鏡が長い間の底辺の生活を醸し出していた。また、その宇野祥平と『ぼっちゃん』で共演していた水澤紳吾が“キツネ目の男”を演じていて、出演シーンは少なくともインパクトを残していたと思う。

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