原作は『ソラニン』などの浅野いにおによる同名漫画。
監督・脚本は『リュウグウノツカイ』などのウエダアツシ。
物語
海辺の田舎町に暮らす中学二年生の小梅(石川瑠華)は、憧れの三崎先輩(倉悠貴)に手酷いフラれ方をして自棄になり、同級生の磯辺(青木柚)を誘って衝動的に初体験を済ませる。なぜその相手が自分だったのかと問う磯辺に、「一年の時あたしに告ったじゃん」と、ことも無げに言い放つ小梅。気持ちはまだ変わっていないとあらためて告白する磯辺だったが、小梅にその気はなかった。
しかし、その後も二人は体の関係を繰り返す。ただの友達には戻れない、恋人同士でもない。曖昧で奇妙なつき合いを続けるうちに、はじめは興味本位で「ただの気分転換」だったはずのセックスも、いつしかお互いにとって日々の生活の一部になっていった。
(公式サイトより抜粋)
自暴自棄のふたり
「手酷いフラれ方」というのは、小梅(石川瑠華)はどうやら自分では彼女になれると思っていたにも関わらず、三崎先輩(倉悠貴)としては彼女は単なる遊びの相手で、最初のデートでいきなりチ〇コをくわえさせられたということだったらしい。それがトラウマとなったのか、小梅はかえってヤケを起こして初体験を済ましてしまおうと目論んだのだ。
そして、その相手として思い出したのが、中学一年の時に告白してきた磯辺(青木柚)のことだった。磯辺はきっかけとしては釈然としないものを感じても、そのうちそんな関係が本物になればという願いとともに小梅の要望を受け入れることに……。
小梅がフラれてヤケになったのと一緒で、実は磯辺もヤケになっている。ただ、磯辺のほうはもっと深刻な背景があることが次第にわかってくる。磯辺が海のある田舎に引っ越してきたのは、彼の兄がいじめを受けていたからだ。しかし、わざわざ田舎に引っ越したにも関わらず、その兄は粗野なヤンキーたちからいじめを受け、磯辺の誕生日に自殺してしまう。磯辺にとってはそれが呪いのように感じられているのだ。
小梅と磯辺のふたりはそれぞれ抱えているものが違う。ただ、ヤケになっているという点では一致している。セックス三昧は自暴自棄の行動の表れみたいなものなわけで、ふたりの交わりはどこか痛々しいところがあるのだ。
変化する関係性
小梅にとっては磯辺はセックスという気分転換の道具でしかなく、一方の磯辺からすれば小梅のような日々を楽しく生きていける人間は羨望の対象でもあり、腹立たしい存在でもある。磯辺は生きているだけで苦しくて、兄の呪いによって自ら破滅しようとしているからだ。
ふたりはそれぞれが自分のことで精一杯で相手のことを考える余裕はない。だから繰り返されるセックスに快楽はあったとしても、どこかで満たされない部分が残る。そして、その関係性は変わっていくことになる。
磯辺がセックスに飽きたと言い出すころには、小梅はなぜか磯辺のことが気になっている。磯辺が海辺で拾ったSDに保存されていた見ず知らずの「うみべの女の子」の画像に勝手に嫉妬していたからなのかもしれないのだが、最初とは立場が逆転したような形になっていくのだ。
※ 以下、ネタバレもあり!
セックスとキスの違い?
愛のあるセックスは幻想だと磯辺は語る。それでもキスは愛の証のように感じていたのだろうか。セックスは数限りなくしたにも関わらず、ふたりは一度もキスはせずに終わる。キスをする機会は度々あったのに、ふたりの気持ちはすれ違うのだ。
最初は、セックスはしても「付き合うわけじゃないから」という理由で小梅がキスを拒むことになり、最後は逆に磯辺が拒む。最後のキスは、「キスしてくれたらすべて忘れるから」と小梅が迫ったものだ。磯辺は内心では小梅に忘れて欲しくなかったのかもしれない。磯辺が自暴自棄になるきっかけは兄の自殺にあり、彼がある事件を起こすことになるのも、兄のことを忘れていなかったからだ。磯辺は小梅に自分のことを覚えておいて欲しかったのかもしれないのだ。
『うみべの女の子』は、磯辺がある事件を起こして退場することになり、小梅は高校生になって新しい彼氏ができたことがラストで示される。磯辺が予期していたように、小梅は磯辺とのことなどなかったかのように、新しい彼氏との関係を一から始めることになるわけだが、小梅はあまりその関係に大きな期待を抱いていないようにも見える。
小梅にとって磯辺とのことは過去の失敗のエピソードということになるのかもしれない。同じように若気の至りの失敗を描いた『愛のように感じた』という作品では、エリザ・ヒットマン監督は若者がそんなふうに失敗から学んでいくことを「幻滅のプロセス」と呼んでいた。本作の小梅も磯辺とのことで、少しは希望を抱いたものの結局幻滅し、次の恋愛では期待値を下げて多くを求めなくなったということなのだろう。
そもそも本作の冒頭で小梅の独白で語られていたのも、「ある期待」についてだった。小梅の住む田舎には小さな浜辺があり、小梅はそこを歩くのが好きだった。それでも「大抵期待したものは見つからない」と語られていたのだ。
原作漫画へのリスペクト
映画のラストは小梅がなぜか「うみ‼」と叫んで終わるというちょっと首を傾げるような終わり方だった。気になって漫画を読んでみたのだが、映画はほとんど原作に忠実に映画化されたものだとわかる。
劇中で流れるはっぴいえんどの「風をあつめて」の使われ方もまったく漫画とそっくり同じだ。何も足さないし何も引かない。そんな感じすらするほどだった。実際には漫画版ではセックス描写が結構えげつない部分があるから、映画ではそこは割り引かれている。しかし、それ以外はほとんど漫画を忠実に映像化しているのだ。
ラストも「うみ‼」という台詞や、その構図までまったく原作のままなのだが、原作ではその前に小梅が「見つけた」と漏らしていることがわかる(映画でもあったのかもしれないが)。小梅がようやく見つけたものが海だったということなのかもしれない。ランボーのあの有名な詩のことを念頭に置いた言葉だったんだろうか? 小梅が冒頭で語っていたように、その浜辺では期待したものは何も見つからないけれど、海だけは見つかったということだったのかもしれない。
『猿楽町で会いましょう』での好演が記憶に新しい石川瑠華は、本作でも際どいシーンに挑戦している(ぐちゃぐちゃな泣き顔がかわいい)。青木柚は中二病を自覚しているイタい少年らしい危なっかしい目つきをしていた。さらに脇役だけれど、中田青渚は『街の上で』とは違ったコメディエンヌとして登場していい味を出している。
「うみべの女の子」というタイトルは、主人公・小梅のことではなく彼女を嫉妬させることになる拾ったSDの中の幻の女の子のこと。実はワンシーンだけ劇中にも顔を出すことになるのだが、どんよりとした曇り空が多いの映画の中で、雨上がりの場面に一瞬だけ現われる高崎かなみは光輝いて見えて役得だったかも。
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