監督・脚本は『夏をゆく人々』などのアリーチェ・ロルヴァケル。
主演は『チャレンジャーズ』などのジョシュ・オコナー。
原題は「La chimera」で、劇中では「幻想」と訳されている。
物語
80年代、イタリア・トスカーナ地方の田舎町。考古学愛好家のイギリス人・アーサー(ジョシュ・オコナー)は、紀元前に繁栄した古代エトルリア人の墓をなぜか発見できる特殊能力を持っている。墓泥棒の仲間たちと掘り出した埋葬品を売りさばいては日銭を稼ぐ日々。
そんなアーサーにはもうひとつ探しているものがある。それは行方知れずの恋人・ベニアミーナだ。ベニアミーナの母フローラ(イザベラ・ロッセリーニ)もアーサーが彼女を見つけてくれることを期待している。しかし彼女の失踪には何やら事情があるようだ…。
ある日、稀少な価値を持つ美しい女神像を発見したことで、闇のアート市場をも巻き込んだ騒動に発展していく…。
(公式サイトより抜粋)
アーサーの特殊能力
公式サイトの記載によれば、「ローマの地下は掘れば遺跡」と言われるほど過去の世界と密接らしい。アリーチェ・ロルヴァケル監督の半自伝的作品だとされる『夏をゆく人々』でも、遺跡の話が登場していた。
イタリア・トスカーナ地方では古代エトルリアの遺跡がよく発掘されるらしく、ローマ時代よりももっと古い時代の副葬品が見つかるようだ。そんなイタリアではかつてはトンバローリと呼ばれる墓荒らしが横行していたらしい。『墓泥棒と失われた女神』の舞台となるのも、トンバローリが活躍(?)していた1980年代ということになる。
主人公アーサー(ジョシュ・オコナー)には特殊な能力がある。ダウンジングで地下に埋まっているものを探すことができるのだ。掘れば遺跡が見つかるとされるイタリアとはいえ、手当たり次第に掘っていては埒が明かないわけで、アーサーの能力は重宝されることになる。彼は仲間の墓泥棒一味たちと古代エトルリア時代の埋葬品を発掘し、闇の市場で売りさばいているのだ。
ただ、墓泥棒一味とアーサーの関係には微妙なものがある。墓泥棒一味の狙いは当然ながら金ということになるけれど、アーサーはあまり金に執着がなさそうだ。家は掘立小屋みたいなものだし、いつも薄汚れた格好をしているのだ。
実は、彼にはもう一つ捜しているものがある。それが恋人のベニアミーナ(イーレ・ヤラ・ヴィアネッロ)だ。アーサーはベニアミーナの母親フローラ(イザベラ・ロッセリーニ)とも未だにいい関係を保っている。フローラはアーサーのことを唯一の友達と語るほど信頼しているのだ。そして、ふたりは行方が知れないベニアミーナのことを待っているのだ。
フェリーニ的?
賑やかでコミカルでとても楽しい作品だったと思う。フェリーニ的な祝祭の雰囲気が感じられたし、様々な映画的手法を見せてくれる作品になっていて、そこが感動的でもあった(この点に関しては後半で触れる)。
アーサーは「生」と「死」の間を行き来するような存在で、それは「現実の世界」と「夢の世界」とも重なってくる。本作はそれを複数のフィルムの差異で見せていく。
本作では35ミリと16ミリとスーパー16ミリという3つのフィルムが使用されているらしい。その細かな違いまではよくわからないけれど、大きく分ければ「現実の世界」は35ミリフィルムで撮られていて、「夢の世界(あるいは死の世界)」はやや横幅が狭い16ミリフィルムで撮られている。そして、それらの境界が曖昧になっていく場面もあったように思う。
フェリーニ的だというのは、公現祭の始まり方がいかにもそんな雰囲気だったと思う。アーサーの後方でトラクターに乗った墓泥棒一味たちが踊り騒ぐ様子を微妙なスローで捉えていた場面だ。ちなみに本作は時折昔のチャップリン映画みたいに早回しになったりすることもあり、そんな部分がコミカルな印象を与えることになる。
さらにフェリーニっぽいのは、墓泥棒一味にカメラを向ける女性として登場するメロディ(ルー・ロワ=ルコリネ)がちょっとばかり豊満だったところにも感じられるし、後半にクレーンで吊るされることになる彫像は『甘い生活』でヘリに吊るされたキリスト像を思わせなくもないのだ。
そんなわけで本作は物語からすると結構とっ散らかった印象もあるのだけれど、様々な手法とか映画的記憶からすると楽しめる作品になっていたんじゃないだろうか。
過去をどう扱うべきか?
アリーチェ・ロルヴァケルの前作『幸福なラザロ』は、「搾取する側」と「搾取される側」が描かれることになった。本作はそうした構図を受け継いでいる部分もある。
アーサーはイタリアでは外国人ということになる。彼はイギリス人だからだ。そして、アーサーの特殊能力に寄生しているのが墓泥棒一味ということになる。彼らはアーサーを“先生”などとおだててうまく利用している。つまりは搾取しているのだ。
それからフローラの屋敷の家政婦とも言えるイタリア(カロル・ドゥアルテ)という女性もアーサーと似たような立場なのだろう。イタリアを演じているカロル・ドゥアルテはブラジル出身の女優で、イタリアも外国人という設定なのかもしれない。そんなイタリアはフローラから歌の稽古ためという名目で小間使いとして扱われているのだ。
アーサーもイタリアも外国人であり、イタリア人からは搾取される立場にあるということになる。ただ、イタリアの場合はうまく立ち回っている部分もある。フローラが車椅子であまり動けないことをいいことに、自分の子供たちを勝手に屋敷に居候させているからだ。
この「搾取する側」と「搾取される側」という構図は、イタリア人と外国人という関係だけには留まらない。「過去の時代」と「現代」の関係にも当てはまる。アリーチェ・ロルヴァケルは「過去をどう扱うべきか」ということをテーマに据えているからだ。
アーサーと墓泥棒一味は古代エトルリアの遺跡を勝手に発掘し、闇商人のスパルタコ(アルバ・ロルヴァケル)に売りさばくことで稼いでいる。海沿いの場所で大発見をした時には、墓泥棒一味は「俺たちを待っていてくれた」などと都合のいい解釈をしているのだが、それは正しいのかということになる。過去の遺産を現代人の勝手な都合で利用してもいいのかということだ。
アーサーはエトルリアの遺跡を「多くの人々の目を喜ばせるもの」という言い方をするけれど、それを否定するのがイタリアだ。彼女は遺跡に埋められている副葬品は亡くなった人の「魂のためのもの」だと指摘するのだ。「過去をどう扱うべきか」というテーマからすれば、このイタリアの言葉はアリーチェ・ロルヴァケル自身の考えを代弁したものなのかもしれない。アーサーはイタリアの指摘に心を動かされることになり、墓泥棒一味から距離を取ることになる。
その一方でイタリアはフローラの屋敷から追い出された後は、仲間の女性たちと一緒に荒れ果てた駅を占拠している。古代の遺跡を勝手に荒らすのはマズいけれど、誰も使用していない廃駅なら有効に活用すべきということなのだろう。もともとみんなのものであった公共施設と、鎮魂のための宗教施設とは別物で、扱い方も変わってくるということなのかもしれない。
「地下の世界」への移行
本作におけるアーサーとベニアミーナのエピソードは、ギリシア神話の「オルフェウスとエウリュディケ」に基づいている。オルフェウスが冥界までエウリュディケを迎えに行くという有名な神話だが、本作のアーサーは「生の世界」と「死の世界」を行き来しており、個人的にとても見事だと思えたのは、この「地上の世界」から「地下の世界」への移行の場面だ。
それを論じる前に触れておきたいのが、マジック・リアリズムなど呼ばれることもあるアリーチェ・ロルヴァケルの手法だ。この言葉を誰が言い出したのかはわからないし、それが適切なのかもわからないけれど、とにかくマジカルな部分はあるのかもしれない。
その顕著な表現が『夏をゆく人々』のラストで、カメラがパンしていくといつの間にかに長い時間が経過しているというシーンだったんじゃないかと思う(前作『幸福なラザロ』でも、一瞬にして時が経過するというシーンがある)。
本作ではそれを変形したような形で、「この世の世界」から「あの世の世界」への移行を描いているのだ。それがアーサーが天地逆さまになる場面だ(劇場プレゼントはアーサーがタロットの“吊るされた男”として描かれているポストカードだった)。最初はその意味するものがよくわからなかったのだが、同じことが何度か繰り返され、そのシーンの意味が明確になる。
アーサーはダウンジングで地下の遺跡を見つけることになる。そのシーンではカメラはアーサーの視点となり、それが横に回転する(パン)のではなく、縦方向に回転することになる。するとカメラはいつの間にかに天地が逆さまになったアーサーを映すことになるのだ。
本作の世界では、「地上の世界」と「地下の世界」は、「上の世界」と「下の世界」として重なって存在しているのではないのだ。地面という表層を中心軸として、背中合わせのような形でひっくり返って存在しているということなのだろう。だから「地上」と「地下」では天地が逆転するというわけだ。本作はそれをカメラの縦方向への回転の後の、逆さまになったアーサーの姿でうまく提示してみせているのだ。
劇中でアーサーが天地逆さまの姿で登場する時、それはアーサーが地下の遺跡を見つけた瞬間であり、つまりはアーサーは「地上の世界」から「地下の世界」へと移行しているのだ。すでに何度かそうした「地下の世界」への移行を示していたからこそ、最後に遺跡が見つかる場面では、カメラは回転すらせずに水溜まりのアーサーの姿を映すだけになる。
それでもそこに映っているのは逆さ富士と同じく、逆さになったアーサーなわけで、その瞬間にアーサーは「地下の世界」に移行していたということになる。ラストのアーサーとベニアミーナの邂逅も感動的だったけれど、個人的にはその前段の「地上」から「地下」への移行の場面が映画的な感動に満ちていたように思えたのだ。
二重のラスト?
アーサーが「生」と「死」の間を行き来しているというのは、冒頭の列車のシーンに表現されている。ここでアーサーは3人の女性、車掌、売り子の男とやり取りをすることになる。この連中は後半にも再び顔を出すことになる。そして、後半の場面から推測するに、この連中は「死の世界」の住人たちだったということになる。アーサーは夢の中でもベニアミーナの姿を追いかけているけれど、現実世界でも亡霊を見ていたということになる。
それでもアーサーはこの亡霊たちをハッキリと拒否することになる。このことは亡くなってしまったベニアミーナのことを捜してはいるけれど、やはり「死の世界」に対する恐怖があったということだったのだろうか。
アーサーは夢の中ではベニアミーナに魅せられているけれど、その一方で現実世界ではイタリアに惹かれている。そんな意味では、本作のラストは二重の終わり方になっているように思えた。
アーサーがイタリアと一緒に廃駅のコミュニティに残り、「生の世界」に留まることだってできたはずだ。ところがアーサーはまだ夢の世界にいるイタリアを残して遺跡探しに赴き、そのことが彼を「死の世界」へと導くことになる。そこでアーサーはベニアミーナと久しぶりの抱擁を交わすことになるのだ。
ラストは人によって解釈は様々なような気もするけれど、私には「生(地上)の世界」と「死(地下)の世界」、そのどちらも並列に描かれていて、どちらにも変わりはないと示しているように感じられた。
アリーチェ・ロルヴァケルの作品は、これまで『夏をゆく人々』も『幸福なラザロ』も、どちらともそれぞれ「年間ベスト10」に選ぶほど気に入っている。そして、『墓泥棒と失われた女神』もその期待を裏切らない作品だったと思うし、多分、今年の「年間ベスト10」に入れることになりそうだ。
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