監督は『ヒート』などのマイケル・マン。
主演は『ハウス・オブ・グッチ』などのアダム・ドライバー。
物語
1957年、夏。イタリアの自動車メーカー、フェラーリの創始者エンツォ・フェラーリは激動の渦中にいた。業績不振で会社経営は危機に瀕し、1年前の息子ディーノの死により妻ラウラとの夫婦関係は破綻。その一方で、愛するパートナー、リナ・ラルディとの間に生まれた息子ピエロを認知することは叶わない。再起を誓ったエンツォは、イタリア全土1000マイルを走るロードレース“ミッレミリア”にすべてを賭けて挑む——。
(公式サイトより抜粋)
エンタメではなく伝記?
監督のマイケル・マンにとっては念願の作品ということになるらしい。私自身は車にもモータースポーツにも興味がないので、フェラーリという車のすごさもよくわからないけれど、好きな人には堪らないものがあるのだろう。そして、マイケル・マンもそうしたフェラーリ・ファンの一人ということなのだろう。
マイケル・マンは1991年に原作でもあるエンツォ・フェラーリの伝記本が出版された時から映画化を目指してきたらしい。その企画は結局頓挫してしまったようだが、そうした関係があったからか『フォードvsフェラーリ』の製作総指揮にも関わっている。その『フォードvsフェラーリ』はスポコン的エンターテインメント作品だったのに対し、『フェラーリ』はエンツォ・フェラーリの伝記的事実を追うことになる。
そんな意味では、モータースポーツ好きの人でエンタメ作品を求めていた人にとっては今ひとつだったのかもしれないけれど、特段フェラーリに思い入れもない映画ファンとしては、意外な女たちの闘いを見た気がしてなかなか楽しかった。代表作『ヒート』のようにマイケル・マンの作品は男臭いイメージだったのだが、本作はペネロペ・クルスがとてもよかったのだ。
本作は伝記映画とは言うけれど、1957年のわずか3カ月くらいを描いたものになっている。主人公のエンツォ(アダム・ドライバー)にとっては、その3カ月に様々な厄介事が一気に降りかかってきたということになる。これは伝記的事実とは異なるところもあるのかもしれないけれど、本作の見どころはエンツォがそんな厄介事をどう乗り切るのかということになる。
仕事と家庭の窮地
エンツォは奥さんのラウラ(ペネロペ・クルス)を共同経営者として、1947年にフェラーリという会社を作る。それから10年後の1957年、フェラーリ社はかなりヤバい状況にある。経営を維持するためには資金を援助してくれる人が必要だし、車を売るためには“ミッレミリア”というロードレースで優勝するほかない。そんな状況に追い込まれているのだ。
同じ頃、エンツォは私生活でも問題を抱えている。奥さんのラウラとの関係は完全に破綻していたのだ。ラウラは挨拶代わりにエンツォのすぐそばで銃をぶっ放すほどイカれている。これだけだって異常事態だが、その家ではそれが普通なのか、同居しているエンツォの母親もそれほど驚く様子を見せるわけではない。そして、エンツォ自身も「今日は殺さないでくれた」とボヤくほど、その関係性は切迫した状態なのだ。
二人がそんな関係になってしまったのには訳がある。ディーノという二人の息子が若くして亡くなってしまったからだ。ディーノは病気で亡くなったようで、そのことにエンツォに非はないはずだが、ラウラはそれを夫のせいだと感じているのだ。息子の死が二人を引き裂く形になってしまったというわけだ。
とはいえ、エンツォには長年の愛人リナ(シャイリーン・ウッドリー)もいるわけで、夫婦仲の問題は息子の死だけがきっかけではなかったようでもある。エンツォは戦争中にリナと知り合い、二人の間にはピエロという息子もいる。エンツォはピエロのことをかわいがっているけれど、ラウラの手前もあり認知することはできないでいたのだ。
そんな状況の中で、リナとピエロの存在がラウラにバレてしまうことになる。ラウラのご機嫌を損ねれば、フェラーリ社の経営も傾くことになるし、それまでだって銃をぶっ放していたラウラが一体どんなことを仕出かすかということになる。そんなわけで、1957年のエンツォは仕事でも私生活でもどちらも窮地に追い込まれていたのだ。
男のロマン
エンツォは仕事に関しては自分のやるべきことが見えていたのかもしれない。といっても、彼にとっての仕事というのは、好きなことをやることでしかないのだろう。エンツォは「ジャガーは売るために走る」けれど、わたしは違うと語る。「走るために売る」というのだ。
エンツォにとっては走ることが第一であり、今でもレーサー時代の興奮というものを忘れていない。だから自分のチームのドライバーには「命懸けで走れ」と発破をかけることになる。これはもちろん“ミッレミリア”で勝利するためであり、それはフェラーリ社の存続に関わることでもある。しかし、エンツォが強調しているのは、そこではない。走ること自体、レース自体が重要で、その興奮を得るためには命懸けでやらなければならないと言っているのだ。エンツォはそれを“恐るべき喜び”と語る。要は、彼は今でも男のロマンという自分の夢を追い求めているのだ。
エンツォ曰く、「優れたものは美しい」わけで、速く走れる車はそれだけで美しいということになる。そんな男のロマンを追求しているからこそ、フェラーリは多くのファンを獲得することになったということなのかもしれない。エンツォが多くの人から「コメンダトーレ(社長、騎士団長)」と親しみを込めて呼ばれているのも、そうした敬意の表れなのだろう。
ただ、本作はレースそのもので観客の興味を惹きたいわけでもなさそうだ。赤いフェラーリが公道を疾走していく場面は爽快だけれど、その一方でライバルであるマセラティの車も赤だから、素人にはライバルと争っているのかどうかがよくわからないのだ。これは“ミッレミリア”では国別に車の色が決まっていたからで、イタリア車は赤という史実に基づいているものらしい。わかりやすさよりも、事実が大切ということなのだろう。
それから本作で一番インパクトがあるのが事故シーンとも言える。劇中では序盤に練習中のクラッシュでドライバーが空に放り出されて死ぬことになるし、ラストではそれ以上のグロい事故シーンが描かれることになる。レースの興奮よりも、そうした事故シーンをインパクトあるものにしているのは、エンツォが追い求めていた男のロマンの危なっかしさを示していたようにも感じられた。
女たちの闘い?
エンツォは仕事には一家言を持つ男だったと言えるわけだが、その一方で私生活は女たちに振り回されてばかりだ。エンツォはラウラに対しては常に無力だし、リナからピエロの堅信式での苗字をどうするかと問われても、自分では何も決められないのだ。結局、エンツォは走ること以外はダメな男だったのだろう。
本作の半分はレースの描写に費やされることになるわけだが、残った半分はエンツォの周囲にいる女たちの闘いとなっているとも言える。それでもほかの女性たちを圧倒しているのがラウラということになる。ラウラを演じたペネロペ・クルスは、回想シーンの中でちょっとだけいつもの美しい笑顔を見せてくれるけれど、それ以外は暗く沈んだ表情ばかりだ。
ラウラは同居しているエンツォの母親も圧倒している。エンツォの母親だってなかなか口の悪い女性で、戦争で長男を亡くしたことについて語った時には「エンツォが死ぬべきだった」など言ってみせる強者なのだが、狂気のラウラには触れないほうがいいと感じているようでもある。
そんなラウラが愛人であるリナの家を発見した時には一体どんな惨劇が起きるのかと思ったのだが、意外にもラウラは冷静に状況を把握していたらしい。そして、最終的に勝ちを収めたのはラウラだったように思えた。
本作のラストでは、フェラーリは“ミッレミリア”のレースで1位を獲得することになる。しかしながら、同時に観客を巻き込む大事故を引き起こしてしまう。この事故では子供5人を含む9人が亡くなったとのこと。レースを楽しみにしていた子供たちまで巻き込む大事故という惨劇で、“ミッレミリア”というレースはこの年が最後の開催となったとのこと。これだけの事故を引き起こしたとなれば当然だろう。
本作ではこのレース結果や事故の被害が、フェラーリという会社に対してどんな影響を与えたのかということに関しては明らかにすることはない。それでも未だにフェラーリという名前が大きなブランドとなっているところを見ると、そうしたトラブルも最終的には乗り切ったということなのだろう。
そして、最終的にそれを采配したのもラウラだったのだ。エンツォはほとんど何もできず、ラウラは自分の願いを実現し、フェラーリ社のことも救ったということなのだろう。そんなわけで狂気のペネロペ・クルスを前にすると男もタジタジというのが本作なのだ。
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