『天空のからだ』 アリーチェ・ロルヴァケルのデビュー作

外国映画

監督・脚本は『墓泥棒と失われた女神』などのアリーチェ・ロルヴァケル

主演は『墓泥棒と失われた女神』のイーレ・ヤラ・ヴィアネッロ

原題は「Corpo Celeste」。

物語

13歳のマルタとその家族はスイスから10年ぶりに帰国し、南イタリアのレッジョ・カラブリアに再び住み始める。カトリックの儀式を受けるために、マルタは教会の日曜学校に通うが、その世界になかなかなじめないでいた。

(「イタリア映画祭2024」より抜粋)

あの監督のデビュー作

先日観た『墓泥棒と失われた女神』がとてもよかったので、アリーチェ・ロルヴァケル監督のデビュー作『天空のからだ』を観てみることにした。まったくノーマークだったのだが、実は「イタリア映画祭2024」というものが開催されていて、現在はオンラインでイタリアのレア作品なども観ることができる。とはいえ、今月の28日までということであと少ししかないのだが……。

追記:イタリア映画祭の開催は28日までだが、購入しておけば72時間後までは視聴できるというシステムらしいので、まだギリギリ間に合うかもしれない。

まもなく13歳を迎えるという大人になりかけの女の子マルタ(イーレ・ヤラ・ヴィアネッロ)が主人公だ。彼女はずっとスペインに住んでいたのだが、母親と姉と一緒にイタリアで暮らすことになったらしい。父親は出てこないし、母親が朝早くからパン屋で働いている姿から想像するに、離婚してイタリアに戻ってきたということなのかもしれない。

イタリアに帰ってきたばかりだからか、マルタの堅信式ということがひとつの大きな話題となっている。堅信式を迎えるにあたって、マルタは日曜教会に通って、キリスト教のことについて学ぶことになる。『天空のからだ』は、マルタから見た教会の姿が描かれることになるのだ。

マルタは微妙な年頃で、劇中で初潮を迎えることになる。姉貴のブラジャーを使ってイヤな顔をされたりもするけれど、母親には甘えているところもある。この姉貴がどうもマルタには厳しく当たる。マルタが母親にあまりに世話を焼かせるのが気に食わないらしい。それが要因なのかはわからないが、マルタには不安定なところもあり、自分で髪を切って周囲を驚かせたりすることになるのだが……。

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聖と俗

イタリアだからなのか、その土地柄なのか、教会との関係はかなり密接だ。マリオ司祭(サルヴァトーレ・カンタルーポ)はなぜか家賃を取り立てに来たりもするから、教会所有の家に住んでいるということなのかもしれない。司祭は住人であるマルタの母親に困ったことはないかなどと訊ねたりし、親切な人でもある。

しかしその一方で教会内部での出世が彼の一番の関心事で、地域の選挙活動に余念がない。神に仕える活動よりも現世利益のほうばかりになっているようで、言ってしまえばかなり俗っぽいのだ。

その教会の世話係であるサンタという女性は、「聖なる」という意味の名前を持つけれど、彼女もやはり俗っぽい。信仰への想いは強いのかもしれないけれど、同時にマリオ司祭の異動のことが気になって仕方ない。サンタはどうも司祭に好意を抱いている様子なのだ。

マルタはそんな教会の姿に接するうち、かえって教会に対する反発を覚えたのだろう。サンタは口では偉そうに教理のことを語ってみたりするけれど、暴力に訴えてマルタを従わせようとしたりもする。さらに酷いことには、サンタは教会の中で発見した子猫たちを内緒で始末させているのだ。裏でそんなことをしている様子をマルタは目撃してしまうのだ。

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キリスト教とイエス

マルタは教会そのものには幻滅したのかもしれないけれど、その一方でイエスのエピソードには何か感ずるものがあったのだろう。山の上のほうにある打ち捨てられた教会で出会った司祭は、マルタが気にしていた「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」という言葉の意味を教えてくれる。

彼によれば、それは「叫び」であるという。「神よ、なぜ我を見捨てたもうや」という意味だが、そこにはイエスの「怒り」があるのだという。イエスはあちこちを駆けずり回っている。病気を治してみたり、奇跡を起こしてみたりもする。ところが弟子たちはイエスのやっていることをまったく理解していないというのだ。

マルタは多分、このイエスの「怒り」に共感している(その共感は磔刑像の埃を落とすマルタの優しい手ざわりにも感じられる)。マルタには怒りたいことが色々あるからだろう。子猫を殺してしまう大人の欺瞞など、その最たるものということになる。教会に対しては幻滅したマルタだけれど、その一方でイエスの「怒り」には共感してもいる。このふたつは似ているけれど、まったく別物ということになるのだろう。

イエスに対する周囲の無理解。このことはアリーチェ・ロルヴァケルの第3作『幸福なラザロ』ともつながってくるだろう。ラザロは聖書に登場するラザロから採られている。ラザロは善人だ。彼は彼なりに善意をもって人と接している。それでも周囲はそれを理解しない。

最初に『幸福なラザロ』を観た時は、そのラストがうまく咀嚼できなかった。せっかくの奇跡で蘇ることになったラザロは、その善意を誤解され、呆気なく殺されてしまうことになるからだ。

もちろんラザロの善意を知り、彼を聖人と崇めるアントニアみたいな人もいるが、それはごく少数でほとんど誰からも理解されないわけだ。ラザロはそれに対して「怒り」を抱いてはいなかったと思うけれど、周囲に理解されずに死んでいったという点ではイエスと重なるところがあるのだ。

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タイトルの意味は?

『天空のからだ』の原題は「Corpo Celeste」で、邦題の通り「天空のからだ」を意味する。もっと一般的に言えば「天体」ということになる。

このタイトルにどんな意味が込められているのかはわからないけれど、もしかすると「キリストのからだ」のことがイメージされているのだろうか? キリスト教においては「キリストのからだ」という言い方をすることがあるらしく、それが意味するものは「教会」だ。

たとえば聖書には「教会はキリストのからだ」であると書かれているし、「あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。」ともある。

劇中の日曜教会では、サンタが子どもたちにクイズを出している。このクイズでは「教会の構成員は誰でしょう?」というものがあった。この解答は法王や司祭ではなくて、「神の民」のことだという。つまりは教会とはキリストのからだであり、それは信者たちそのもののことを示しているということになる。

本作にはマリオ司祭の田舎として、山の上の廃墟となった集落が登場する。場所としては天空の上にあるイメージでもある。そうすると、「天空のからだ」というのはこの教会のことのようにも思えてくる。そして、司祭とマルタはその打ち捨てられたような天空の教会からキリストの磔刑像を運ぶことになる。

ところがそれはトラブルによって海へと堕ちていくことになってしまう。マルタが最後にたどり着くのも海なのだが、これにはどんな意味が込められているのだろうか? 単純にアリーチェ・ロルヴァケル版の『大人は判ってくれない』として、マルタを最後は海へと向かわせたかったということなのかもしれないし、何かしらの意味が込められているのかもしれない。

マルタは劇中で母親に「海に行きたい」と懇願するが、忙しくて相手にされることはなかった。次にマルタが海に近づいた時は、行く手を遮るようにアンダーパスの中に暗い水溜まりが登場してマルタを阻むことになる。

ところがラストではマルタは堅信式を放り出して、その暗い水溜まりの向こう側に広がる海へと出ていくことになる。多分、マルタは形骸化したキリスト教の儀式よりも、自分なりの通過儀礼のほうを選んだということなのだろう。

そして、そこには教会が語る奇跡とは別の奇跡が待っていることになるのだが、これまたちょっと呆気にとられるような終わり方だった。どんな意味なのかを考えさせることになる終わり方はデビュー作でも共通していたわけで、それがわかっただけでも有意義だったと思う。

もっと早くイタリア映画祭のことを知っていれば、『墓泥棒と失われた女神』の前に『天空のからだ』も観ていたはずなのだが、知らなかったわけで致し方ない。とりあえずは28日まではオンラインで観ることが可能なので、アリーチェ・ロルヴァケルのファンには滅多にない機会ということになる。

本作でマルタを演じていた少女は、成長して『墓泥棒と失われた女神』の主人公の夢の中の女性であるベニアミーナとして顔を出し、大人になった姿を垣間見させてくれる。個人的にはもっと評価されてしかるべきと思える『墓泥棒と失われた女神』だが、それほど話題になっているわけでも評判がいいわけでもなさそうなのが、ちょっと残念……。

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