原作はA・M・シャインの同名小説だが、日本語訳はないようだ。
脚本・監督は『オールド』などのM・ナイト・シャマランの娘であるイシャナ・ナイト・シャマラン。
M・ナイト・シャマランは製作に関わっている。
物語
28歳の孤独なアーティストのミナは、鳥籠に入った鳥を指定の場所へ届けに行く途中で、地図にない不気味な森に迷い込む。スマホやラジオが突然壊れ、車も動かなくなったため助けを求めようと車外に出るが、乗ってきた車が消えてしまう。森の中にこつ然と現れたガラス張りの部屋に避難したミナは、そこにいた60代のマデリンと20代のキアラ、19歳のダニエルと出会う。彼らは毎晩訪れる“何か”に監視されているという。
(『映画.com』より抜粋)
森の部屋の3つのルール
M・ナイト・シャマランの娘さんであるイシャナ・ナイト・シャマランのデビュー作とのこと。父シャマランの出世作『シックス・センス』はオチがあまりにも決まっていたため、それ以降のシャマランは同じようなオチを求められることになってしまった。その父親と同じ道を往くことになった娘さんイシャナも、同じような期待を背負うことになってしまっているのかもしれない。
設定がいかにもシャマランっぽい。主人公ミナ(ダコタ・ファニング)は森の中に迷い込んでしまうのだが、この森というのも単なる森ではない。地図に載っていないというし、富士山麓の青木ヶ原樹海のように真っ直ぐ進むことすら困難で、森を抜け出そうとすると迷ってしまうような不思議な場所となっているのだ。
ミナは森の奥深くに進んでいき、見知らぬ老婆に助けられ、こつ然と現れたガラス張りの部屋へと逃げ込むことになる。そこには20代の女性キアラ(ジョージナ・キャンベル)と、19歳のまだ幼さを感じさせる若者ダニエル(オリバー・フィネガン)がいる。ミナを助けた老婆はマデリン(オルウェン・フエレ)と名乗ることになる。
ミナはそのガラス張りの部屋で、ほかの3人と共に外に向って整列させられることになる。部屋の外は真っ暗で、ガラスはほとんど鏡の役割を果たし、内部から外を窺うことはできない。一方で外からその部屋の内部は丸見えだ。煌々と照らされた部屋の中は外部に晒されているのだ。というのも、その部屋は何者かによって監視されているからだ。
この部屋にはルールがある。「“監視者”に背を向けてはいけない」、「決してドアを開けてはいけない」、「常に光の中にいろ」という3つだ。ミナは突然そんな部屋に囚われる生活を強いられることになる。その森の中では昼間は普通に外を歩くことができるのだが、日が沈むと部屋の中に戻らなければ命はないという。そして、部屋を監視する者たちとは一体何者なのか?
シャマラン印を継承?
M・ナイト・シャマランの作品には独自のものがあって、“シャマラン印”みたいな一種のブランドとして機能している側面がある。イシャナ監督としてはそのブランドを受け継ぐつもりなのか、似たようなジャンルに挑戦している点で父親の背中を追っているように見えなくもない。
本作は設定がなかなかおもしろい。ガラス張りの部屋は一体何なのか? 内部からは外はまったく見えず、外部からはすべてが見えていることになる。このビジュアルは演劇の舞台のように見える。
観客席となる森の中に潜む監視者たちは暗闇の中に隠れ、スポットライトを浴びる形になった人間たちは常に見られる存在となる。
「見る」、「見られる」という関係が一体何のメタファーなのかといったことも思わせ、謎の提出の仕方は悪くない。とはいえ、その謎を解き明かして方法があまり鮮やかではなかったような気がした。
オチの見せ方について
父シャマランの『シックス・センス』では、主人公の精神科医が患者の少年からこんな指摘をされている。「先生は話があまり上手じゃないよね、山場を作らないとね」、というのだ。この指摘は『ザ・ウォッチャーズ』にそのまま当てはまるような気がする。
謎を解き明かすやり方にも色々とあって、『シックス・センス』の場合はその山場が最後に用意されていて、それがものの見事に決まったために高い評価をされることになったということだろう。
それに対して『ザ・ウォッチャーズ』は、謎を解き明かすやり方でうまく山場を作れていなかったんじゃないだろうか。
『ザ・ウォッチャーズ』には色々なネタが用意されている。監視者とされる森に住む何者かの正体は妖精ということになる。そして、それは“チェンジリング(取り替え子)”とも呼ばれていて、人間に擬態する能力を持つのだという。
“取り替え子”というのは、ヨーロッパに広く伝わる伝承だ。妖精などが人間の子供を連れ去り、代わりに自分の子供を残しておく場合があり、その子供のことを“取り替え子”と呼ぶ。
トロールと呼ばれる妖精を描いた『ボーダー 二つの世界』という映画でも、“取り替え子”の伝承についても触れられていた。“取り替え子”が怖いのは、自分の子供だと思っていたものが実は別の“何か”になっているというところだろう。
これは“取り替え子”ではなくてもいいわけで、たとえば“ボディ・スナッチ”のように外側は人間だけれど中身が入れ替っていた場合でも同じということになる。本作のオチの見せ方としては、実は中身が別のものになっていたというところに焦点を合わせればよかったんじゃないかと思うのだが、本作はそういう見せ方にはなっていないのだ。
多分、父シャマランはいくらネタがおもしろくても、その見せ方をうまくやらなければ成功しないということがわかっていたからこそ、『シックス・センス』でも「山場を作らないとね」などという台詞を用意していたんじゃないだろうか。
※ 以下、ネタバレもあり!
鏡に映る自分の姿
妖精は人間に擬態することができる。本作ではその能力を利用しようとする教授が現れる。そのための施設が森の中に作られたガラス張り部屋であり、妖精は人間に擬態するために人間を観察する必要があり、だから監視者となっていたというわけだ。
部屋の中で鏡に向かうミナたちは、そこに映る自分の姿と向き合うことになる。このシーンは何だか不気味なものがある。鏡に映るそれが、自分のコピーのようにも見えてくるからだろう。そして、擬態というのは鏡を介さずに自分のコピーめいたものができるということである。
だから本作の山場となるべき場面は、森を何とか脱出したミナが双子にも見えるルーシー(ダコタ・ファニングの二役)と向き合う場面だったんじゃないだろうか。ところがなぜか本作ではこの場面を深掘りしようとはしていないように見える。
本作についての考察をしている人の中には、ミナも“ハーフリング”と呼ばれる妖精と人間の合いの子なのではないかという説を展開している人もいる。実は部屋にいた人の中で一番の古株だったマデリンはハーフリングだと明らかになる(ハーフリングは妖精よりも擬態能力が高いらしい)。妖精の擬態能力を利用しようとした教授は、亡くなった自分の妻マデリンを蘇らせようとし、その結果、ハーフリングがマデリンに成り済ましていたということになる。
本作はもちろんこのオチでひと区切りは付いているわけだが、ほかに仄めかされていることもある。ミナには、カツラを被って別人に成り済ますような習慣があることが冒頭近くで示されていた。わざわざこんなエピソードを入れているのも、ミナもハーフリングであることを示している可能性があるのだ。
ただ、本作はそれをオチとして示すわけではなく、何となく含みを持たせるだけに留まっている。ミナ自身が自分の正体に気づくというオチにすればもっと決まったような気がするのだが、なぜかそれはやっていないのだ。
一応はすべての謎は解決されたような気もするし、それなりにまとまってはいるのだけれど、『シックス・センス』のようなオチの鮮やかさには欠け、ラストは単なる謎の説明に終始していたような気がする。実は本作には続編があるなどということも噂されているために、続編のネタとして秘密を残しておきたかったということもあるのかもしれないけれど……。
コメント