『さがす』 探しものは見つかるのか?

日本映画

『岬の兄妹』片山慎三監督の第二作。

前作『岬の兄妹』は自主製作の形だったから、片山監督にとっては本作が商業デビュー作となる。

消えた父親

冒頭、楓(伊東蒼)が必死に走ってくる。彼女は万引きして拘束された父親・原田智(佐藤二朗)を迎えにきたのだ。楓は「うちの父はちょっと抜けてるところがあるから」などと弁解し何とか許してもらうことになるのだが、その後に父親は奇妙なことを言い出す。「お父ちゃんな、指名手配中の連続殺人犯見たんや。捕まえたら300万もらえるで」と。楓はそんな冗談は相手にしなかったのだが、次の朝、父親の姿はない。父親は突然失踪してしまったのだ。

後日、父親からは「さがさないでください」とメールがあるものの、そういうわけにもいかず楓は父親をさがすことになる。急に楓に言い寄ってきた同級生(石井正太朗)をボディーガード代わりにして。「事件性がないから」と繰り返す警察は全然あてにできず、日雇い現場をさがしてみると、そこにはなぜか父親の名前で働いている男がいて、それは連続殺人犯の男・山内(清水尋也)にそっくりなのだった。

(C)2022「さがす」製作委員会

どこへ向かっているのか

主役だと思っていた佐藤二朗演じる原田智が突然失踪し、それがなぜか連続殺人犯の男とつながる。一体どこへ向かおうとしているのかわからない展開なのだが、これも計算の内だったのだろうか。ある時点でそれらがつながり、本作が何を描こうとしているのかが突然明らかになる。これはちょっとした驚きだった。そのための伏線とも言うべき前段が、楓の探偵ごっこということになるのだろう。

そして、本作は二段階に分けて過去に遡る。3ケ月前と13ケ月前だ。3ケ月前の視点は連続殺人犯のものであり、13ケ月前になるとようやく原田智の姿が現れることになる。一体なぜ彼は失踪してしまったのか?

※ 以下、ネタバレもあり! 結末にも触れているので要注意!!

(C)2022「さがす」製作委員会

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いくつかの事件から

『さがす』では、日本で起きたいくつかの事件からヒントを得ている部分があると思われる。

“名無し”と呼ばれる連続殺人犯の男・山内は、ネットで自殺志願者を募り、一緒に自殺することを仄めかしておいて、実際には同意なく相手を殺している。そして金を奪い、遺体はクーラーボックスの中に隠す。これは「座間9人殺害事件」の手口とそっくりだ。また、山内が白いソックスに性的興奮を覚えるという部分は「自殺サイト連続殺人事件」の犯人の性癖とよく似ている。さらにその山内が介護施設のような場所で働きながらも、身体が不自由な障害者のことを「死んだほうがマシ」だと考えているところは、「相模原障害者施設殺傷事件」の犯人の歪んだ考えと重なる部分がある。

山内のキャラクターはこんなふうにいくつかの事件の犯人像を混ぜ合わせて出来上がっている。「座間9人殺害事件」と「自殺サイト連続殺人事件」に関しては、山内の犯行の具体的な手口にその事件の影響が見られるからわかりやすいのだが、「相模原障害者施設殺傷事件」からの影響はちょっと見えづらいのかもしれない。

「相模原障害者施設殺傷事件」は、犯人が歪んだ優生思想を膨らませ、重度の障害者は生きる価値がないなどと考え、19人もの人を殺害した事件だ。脚本も担当している片山慎三監督が「相模原障害者施設殺傷事件」の犯人を意識していると思われるのは、智が山内に謝罪するという名目で小指をかみちぎろうとする突飛な行動に表れているように思える。この行動は、「相模原障害者施設殺傷事件」の犯人が裁判時に実際にやったことだからだ(そして犯人はその後に本当に指をかみちぎったらしい)。

(C)2022「さがす」製作委員会

危なっかしい題材

これらの事件との関連ということだけでも、本作が危なっかしい題材を扱っているということが理解できるのではないだろうか。とはいえ、片山監督は前作『岬の兄妹』においても、かなり際どい題材を扱っていたわけで、本作が上述したこれらの事件に影響されたというよりも、片山監督自身がそうした題材にもともと関心を抱いていたからでもあるのだろう。『さがす』では「死んだほうがマシ」と考えてしまうような状況が出てくることになるが、それは前作においてもすでに描かれていたことだったのだ。

『さがす』における原田智と山内の結びつきは、智の妻・公子(成嶋瞳子)のことが関わってくる。公子は筋萎縮性側索硬化症(ALS)で身体の自由がきかなくなってしまう。それ以来笑うことがなくなった公子は、「死んだほうがマシ」と考えるようになり、さらには「人間のうちに死にたい」と語るようになる。

劇中、公子は動かない身体で何とか自殺を図ろうとしたりもする。智はそれを見つつも、すぐに助けることはしない。唖然としたということもあるのだろうが、智自身も公子の「死んだほうがマシ」という言葉に同意してしまう瞬間もあったということでもある。そして、智は公子の首を絞めて殺そうともするのだが、それを果たせない。

ここに付け込むのが介護施設で働いていた山内だ。山内は智に対して、こんなふうに訴える。介護施設には2種類の人がいる。ひとつは「心から生きたいと思っている人」で、もうひとつは「周囲によって無理に生かされている人」だ。後者のような人にとっては、殺してあげることが救済になるのだと。そして、智は悩んだものの、ついには山内に公子の救済を依頼することになるのだ。

(C)2022「さがす」製作委員会

救済か殺人か

公子殺害だけで終わったとしたら、智がその後の事件に巻き込まれることはなかったのかもしれない。それでも智は金欲しさに山内の助手のような役割を引き受ける。それによって智は連続殺人犯の片棒を担いだ共犯者ということになってしまうのだ。それから逃れるために智は策を練ることになり、それが智の失踪へとつながることになる。

最終的に智は山内を殺し、自分は脅された被害者だというストーリーを作り上げ、何とか窮地を脱出することになるわけだが、問題なのは智自身が山内の考えに影響を受けてしまっているということだろう。「死んだほうがマシ」と考えている人を殺すことは救済なのだ。そんな歪んだ考えに惹かれてしまっているのだ。

実際には山内のその考えは、自分の欲望を満たすための建前に過ぎない。山内は白いソックスにしか欲情しないという異常性欲者であり、自殺を手助けするのも自分の欲望のためなのだ。しかしながら智はその部分は知らないために、建前の考えに共感している部分があるのだ。

終盤のどさくさの中で死んだと思っていた自殺志願者のムクドリ(森田望智)が蘇ってきた時、智はそれが公子にも見えている。そして、智は公子のように見えているムクドリを殺すことになる。これはムクドリが生きていたら智の計画がダメになってしまうという意味でもあるけれど、どこかで山内の歪んだ考えに智が同意しているということでもあるのだ。だからこそ、その後に山内がいなくなった後も、智は同じことして金を稼ごうするわけだ。

(C)2022「さがす」製作委員会

ラストのいくつかの解釈

ラストは公子や楓が再開を願っていた卓球場でのシーンだ。ここでは楓と智が卓球のラリーを続けるわけだが、そこにアフレコで録られた声が被さっている。このふたりの会話は心の中のものということなのだろう。そこで楓が父親・智に最後に言うのが「さよなら」という言葉だ。その後、ラリーは一度途絶え、外ではパトカーのサイレンが聞こえてくる。

その後に交わされるふたりの実際の会話では、「お父ちゃんが何者か知っている。何をしたのかも」と楓は語る。楓は失踪した父親をさがしているうちに、見つけたくなかった事実まで見つけてしまったということだ。

楓は父親が山内のことだけではなく、母親を殺したことも知ってしまったのだ。サイレンの音から推測すれば、そのことを警察に通報したという解釈もあるのだろう。しかし、ほかの解釈も可能だろう。

ふたりはその後ピンポン球を使わずにラリーをすることになる。このシーンはミケランジェロ・アントニオーニ監督の『欲望』のテニスのシーンと同じだろう。ふたりはピンポン球がないにも関わらず、あたかも球があるかのようにラリーを続けているのだ。

このシーンに関して、片山監督は『キネマ旬報』(2022年2月上旬号)のインタビューで「絆がなくなったことの暗喩」だと解説している。絆はなくなったけれど、ふたりはラリーを続けている。つまり、ふたりは絆はなくなったけれども、それがあるフリをして生きていくということではないのだろうか。個人的にはこちらの解釈のほうが納得がいくような気もする。

片山監督の前作『岬の兄妹』では、ゴミを漁るような貧困の中で、最終的な手段として兄は知的障害のある妹に売春をさせることになる。これは犯罪でもあり、一般的には許されないことだろう。しかし、ふたりのような境遇では「清く正しく美しく」生きることは不可能なのだ。だから汚い生き方を選択したとしても、責められることではなかったのだ。

『さがす』の楓は、尼さんにツバを吐きかけるような悪ガキだ。そんな楓が清廉潔白な生き方を父親に求めようとするだろうか。生きるために汚い手段を使ったとしても、それは許されると考えるのではないだろうか。だとすれば、楓は父親のやったことを断罪しようとはしないんじゃないだろうか。

父親・智は食べる時にニチャニチャと音を立て、楓に嫌がられていた。結局そのこともふたりの間のネタになってもいて、最後に「ラリーのフリ」が始まる前には、そのことでふたりの間には笑みがこぼれることになった。そんな汚くて嫌な部分も受け入れていくのがふたりの生き方なんじゃないだろうか。

とはいえ疑問も残る。なぜか本作には楓と公子が一緒に登場するシーンが一度もない。これがどういう意図なのかはちょっとわかりかねる。父親がひとりで介護に奮闘している際に、楓はどこで何をしていたのかまったく示されていないのは何かしらの裏設定でもあるのだろうか。そこは大いに疑問として残るのだ。

最後に「さがす」というタイトルに触れておけば、これは楓が父を「さがす」ということでもあるわけだが、同時にその父親・智は公子に対してどう接するべきだったのか、それを「さがす」という意味でもあるのだろう。

智の選択した行動が正しいとは思えない。それは確かだが、だとしたら公子の身体が一切動かなくなり、「人間とは言えない」と公子が感じたまま生きさせるべきだったのだろうか。それも正しいとは言えない気もするわけで、ここには正しい答えなど見つかりそうにないのだ。

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