『影裏』 光の多いところ、強い影がある

日本映画

原作は沼田真佑の芥川賞受賞の同名短編小説。

監督は『るろうに剣心』シリーズなどの大友啓史

昨年2月に劇場公開され既にソフト化されている作品だが、Netflixで新作として登場していたので……。

物語

今野秋一(綾野剛)は、会社の転勤をきっかけに移り住んだ岩手・盛岡で、同じ年の同僚、日浅典博(松田龍平)と出会う。慣れない地でただ一人、日浅に心を許していく今野。二人で酒を酌み交わし、二人で釣りをし、たわいもないことで笑う…まるで遅れてやってきたかのような成熟した青春の日々に、今野は言いようのない心地よさを感じていた。

夜釣りに出かけたある晩、些細なことで雰囲気が悪くなった二人。流木の焚火に照らされた日浅は、「知った気になるなよ。人を見る時はな、その裏側、影の一番濃い所を見るんだよ」と今野を見つめたまま言う。突然の態度の変化に戸惑う今野は、朝まで飲もうと言う日浅の誘いを断り帰宅。しかしそれが、今野が日浅と会った最後の日となるのだった―。

(公式サイトより一部抜粋)

失踪した男/今野の秘密

もともと気まぐれで考えていることが見えない日浅は、相談もなく会社を辞めたと思ったら、ふらりとまた現れて近況を報告してみたりするつかみどころのない人間だ。そんな日浅が死んだかもしれない。東日本大震災の際に津波にさらわれたかも……。今野は会社の同僚である西山(筒井真理子)からそんな話を聞かされ、少なからず動揺する。

首都圏から転勤してきた今野にとっては知り合いのいない盛岡の中では、唯一とも言える友人だったからだ。日浅が一升瓶を持って家に現れ、その後には釣り仲間となる。祭りの喧噪を練り歩いたり、喫茶店でジャズに耳を傾けたり、ふたりで過ごした時間は大切な想い出となっているのだ。だから今野は日浅の行方を追い、親と掛け合って捜索願いを出そうとしてみたりすることになる。

今野の日浅に対する想いが単なる友人以上のものであることは、作品冒頭の今野の描写からも何となく感じられる。今野を演じる綾野剛は半裸の姿でなまめかしく登場し、カメラはその肢体を明るい日の光の中で捉える。なめまわすような描写は観る側にも何かあやしいものを感じさせることになるだろう。そしてそれは中盤で今野が日浅にキスを迫るところでハッキリとする。

キスは日浅に拒絶されることになるわけだが、今野にとっては日浅が単なる友人ではないというのは、今野が同性愛者であるという意味だ。だからこそ今野は日浅を捜し出そうと躍起になるのだ。

(C)2020「影裏」製作委員会

大きなものの崩壊

原作はいわゆる純文学というジャンルということもあり、ミステリーのように日浅が失踪した理由などが明確に示されることもない。ただ、おぼろげに仄めかされていることもある。

日浅の兄(安田顕)が語ることには、日浅は母の死に際して「何かとてつもなく大きなものが崩壊したのを目の当たりにしたような」不思議な顔をしていたとされる。そのことが未だに尾を引いているのか、日浅は「大きなものの崩壊」というものに惹かれているようでもある。

山火事の焼け跡をわざわざ見物に出掛けてみたり、森の中では倒れた大木をコケが覆っているのを見て「屍の上に立っている」と感慨深そうに語る。ザクロの実が人間の味がするというエピソードもそこにつながっているかもしれない。

今野はそんな日浅の姿を見ていたからこそ不安に駆られる。東日本大震災の津波という事態を間近に体験することになり、日浅はそれから目を離すことができずにいたんじゃないか。今野は胸騒ぎを覚え、そんな日浅の姿を夢に見ることになる。

結局、日浅の行方を捜してわかったことは、今野が日浅の真の姿を見てなかったことなのかもしれない。日浅は父親(國村隼)から勘当されていたのだが、それは大学の学費や東京で暮らすための仕送りを自分の懐に入れていたことが判明したからだ。さらには日浅は同僚の西山から借金をしていたり、ほかにも詐欺めいたことをしており、しかもその被害者の一人は今野自身だったことも判明する。

とはいえ、それらがすべてを捨て去って失踪するほどの罪とは今野には思えないようで、それでも日浅が姿を現さないのはやはり何かあったんじゃないかという不安になるのだ。

(C)2020「影裏」製作委員会

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影の一番濃い所

日浅は今野のことをどう見ていたのか。

「人を見る時はな、その裏側、影の一番濃い所を見るんだよ」という言葉を日浅は今野に投げかけるわけだが、だとすれば日浅は今野の影の部分を見ていたということになるのだろう。

今野の影の部分というのは、彼が同性愛者であるということなのかもしれない。それはほかの人には秘密にしていたことだったからだ。同性愛者がその性的指向を公表することを「カミングアウト」と言うが、その逆に公表しないことを「クローゼット」と言うらしい。そしてそれは「「偽って暮らしている」「不幸な人生」という皮肉の意味」で使われることが多いのだとか(Wikipediaより)。

今野が盛岡に来たのは、それまでの人間関係を断つためでもあった。今野は元カレである副島和哉(中村倫也)とも別れ、盛岡で新たな生き方を模索していたのだろう。

その副島は今野と別れた後に、性別転換手術を受け女性となり、新しい姿となって今野と再会することになる。ふたりの間にどんな経緯があったのかはわからないが、そうしたものを捨てるために今野は盛岡にやってきたということになるのだ。

同性愛者はマイノリティの立場にあり、それを隠して生きてきたとすれば、何かと不自由なことも多いだろう。今野のアパートには自尊心が強くて他人には口うるさいおばあさんがいて、回覧板のルールに関してうるさい小言を言ってくる。今野はそれが苦手で彼女のことを避けるのだが、そういった真っ当に生きてきた人からのルールの押し付けは、マイノリティとして生きていく上で不自由を感じる一番のところなんじゃないだろうか。

今野の窮屈さを日浅は何となく感じていたのかもしれない。そんな影の部分が日浅が今野に興味を抱かせることになった要因かもしれない。一方、禁煙の貼り紙など気にも止めない、自由で物怖じしない日浅の態度は、今野にとって羨望に近いものがあったのかもしれない。今野がそんな性格だったならば、同性愛者であることを隠すことなく生きていくことだって可能になったかもしれないからだ。

(C)2020「影裏」製作委員会

光の多いところ、強い影がある

余白の多い作品で、何かが起きそうな予感には満ちているのだが、実際には何も起きないとも言える。その意味では曖昧模糊としていると感じる人もいるのかもしれないが、観る人が勝手に想像を膨らませられる作品とも言える。私の解釈は今野が同性愛者であるという点を過剰に意識している点があるのかもしれない(原作ではその点は仄めかされるだけらしい)。

今野は光が当たったところだけしか見ていないと日浅に批判されることになるが、それは誰にでも当てはまるだろう。他人に影の部分を曝け出したい人は少ないだろうから。それでも本作は光の部分と影の部分の両方に視線を送り、カメラはその明暗を強調する(撮影は芹澤明子)。

今野と日浅が釣りに興じるシーンでは日の光が川面に反射し木々の緑が鮮やかだが、その一方で日浅が津波の起きる前に凝視している海の色はどす黒いほどで、そのコントラストは著しいものがあった。光と影、明と暗、生と死、正と負、エロスとタナトス。人間が生きていく上ではそうした両極端のもののどちらにも目を向けなければならないのかもしれない。

大友啓史監督は『るろうに剣心』のようなエンターテインメント作品のイメージしかなかったし、『ミュージアム』『秘密 THE TOP SECRET』もあまりインパクトがあったとは言えなかったので、意外な拾い物だったという気もする。

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