『シン・エヴァンゲリオン劇場版:|| 』 騙された甲斐があったというもの

日本映画

『新世紀エヴァンゲリオン』というテレビシリーズから始まったアニメの新劇場版の第四弾であり最後の作品。

総監督は『シン・ゴジラ』『式日』などの庵野秀明

私にとっての…

ついに完結

1995年に始まったテレビシリーズ『新世紀エヴァンゲリオン』は、その第25話と第26話を作り直す形になった旧劇場版と呼ばれる『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 シト新生』『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に』で一度は終わったはずだった。

しかし、それが新たに新劇場版として製作されることになり、『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序』が2007年に、『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』:が2009年に、前作『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』が2012年に公開されてきた。それから9年ぶりとなる今年ようやく最終作となる『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』が公開されることになった。

先日、NHKの「プロフェッショナル 仕事の流儀」という番組では、総監督の庵野秀明を4年に渡って密着したドキュメンタリーが放送された。そこでのエヴァンゲリオンというアニメの紹介としては、「歴史を変えた」作品とされていた。それほどブームになった作品だということだろう。私は普段はアニメを丹念に追うほどではないのだが、エヴァンゲリオンだけは後からブームに乗っかった形ではあるけれど、夢中になって見たと思っている。

当時はエヴァ解説本や謎解き本がいくつも出版されていた。「人類補完計画」「セカンドインパクト」「ガフの部屋」などいわくありげで謎めいた言葉や設定が魅力的だったからだろう。いくつかの用語はユダヤ教から採られていたりもして、どこか由緒正しく深い何かがありそうに思わせるところがあったのだ。私もそんなところに魅了された一人だった。

※ 以下、ネタバレもあり!

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哲学か衒学か

たとえばテレビシリーズの冒頭の歌にも描かれている「セフィーロートの樹」は、その後旧劇場版のラストでサードインパクトを起こすための儀式の設計図のような役割を果たしていたが、これもユダヤ教神秘主義(カバラ)の考えに基づいたものである。

「セフィーロートの樹」に関しては、仏教や老荘思想や中世哲学などの共時的構造化を企図する井筒俊彦『意識と本質』においても取り上げられているもので、カバラにおける重要な図ということになるだろう。

「セフィーロートの樹」は何を表しているのかを、かなり大雑把に記してみるとすると、存在の根源的エネルギー(神)から、われわれが生きている経験的世界がいかにして生み出されるかということを示したモデルなのだろうと思う。ユダヤ教神秘主義が長年に渡って考えてきたものがあの図の中に込められているのだ。

これをエヴァの「人類補完計画」との関わりで語れば、存在の根源から流出して個々にバラバラになってしまったわれわれは寂しくて堪らないことになり、それを補完するためにそれを最初の状態に戻そうとするのがゼーレの「人類補完計画」ということになるのかもしれない。

ただ、そうした壮大な話も、今回の『シン』のラストに至ってすべて放棄された感はある。『シン』においてはゲンドウがマイナス宇宙へ飛び、人の認識が及ばないという設定になっていくからだ(ゲンドウは脳を吹き飛ばされても関係なく、人ではなくなったらしい)。これは『コンタクト』において人が認識できない宇宙人を、父親の姿として描いたのと同じようなものだろう。

そこからの展開は精神世界を描写したものとなっていて、かつてのテレビシリーズの最後がシンジの内面だけに特化した展開をしたのと一緒で、外部の世界を描くことは断念されることになってしまう。精神世界の話だから、ゲンドウとシンジの闘いはエヴァ同士のセットの中での争いとして描かれたりもする。ここに至るとこれまでの由緒正しげな設定は単なる装飾でしかなかったことが明らかとされたような気がして、騙された感もあった。

そもそも庵野秀明自身はどこかで、エヴァは哲学的だとか言われたりするけれど衒学的なんだと語っているのだとか。だからユダヤ教から持ってきた用語などの装飾があまり意味がなかったとしてもそれは当然のことだったのかもしれない。それを深遠なものとして勘違いしていたほうが浅はかだったのだろう。

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それでも啓蒙的?

とはいえエヴァに出会えたことで色々と発見があったことも確かだとも思う。たとえばD.H.ロレンス『黙示録論』を読むきっかけとなったのもエヴァだった。当時雑誌で「『黙示録論』の中にエヴァンゲリオンのすべてが書かれている」などと書かれていたのを読んだからだ。『黙示録論』はその翻訳者であり、評論家でもあった福田恆存が「私に思想というものがあるならば、それはこの本によって形造られた」と語っている本で、そこにはこんなことが書かれている。

「民主主義国の人間は結合と抵抗とに拠って、いいかえれば《愛情》の結合力と個人的《自由》の抵抗力によって生きているのである。愛情にまったく身を委ねきるならば、底の底ままで絞りとられ、ついには個人の死を招来する。本来、個人はなんとしても己れの立場を堅持していかねばならないものだからだ。さもなければ《自由》も、独自性も失ってしまうであろう。かくして、我々の時代はみずからなした証明に驚愕呆然たるものがあったが、とにかく吾々は知ったのだ、個人はついに愛することができぬという事実を。個人は愛することができない。これを現代の公理とするがいい。」

ここでの「個人は愛することができない」というのは、エヴァの中で「ATフィールド」と呼ばれる心の壁を指しているようにも思えるし、さらにこの先は「人間が最も激しく冀求するものは、その生ける完全性であり、生ける連帯性」であると続くのだ。この連帯性というのは「人類補完計画」のそれと容易に結びつくだろう。

もしかすると衒学的なエヴァに惹かれた私のような人たちは、外側を飾り立てたものに騙された類いなのかもしれないけれど、それでもエヴァは何かしら啓蒙的な部分もあったようにも感じられる。

ロボットアニメというジャンルのフリをしつつ、中身は庵野秀明という人の心の問題を取り扱っていて、それを隠しつつ壮大な物語に見せかけるために衒学的な知識を詰め込んでいる。それがエヴァなのかもしれないのだが、それでもその見せかけの知識からでも学ぶことはあったということかもしれないとも思えたのだ。

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人類補完計画とは?

何度でもやり直すこと

先日の「プロフェッショナル 仕事の流儀」によれば、庵野秀明はテレビシリーズが予定が追い付かなくなって不本意な形で終了した時、自殺を考えたのだとか。第25話と第26話ではエヴァと使徒との闘いを放り出してシンジの心理描写を延々と見せていく。この展開は、良くも悪くも話題になった。それに納得がいかなかったファンのネット上での罵詈雑言が、庵野を追い詰めることになったようだ。

それでも自殺を乗り越え旧劇場版を完成させたわけだが、シンジがアスカに「気持ち悪い」と拒絶されるラストは悪意を感じなくもなかった。それは庵野を追い詰めたファンに向けられていたのかもしれない。それでも同時にファンのことを気にかけているようでもあって、「アニメという虚構に耽溺するのではなく現実に帰れ」という説教も旧劇場版には込められていた。庵野のファンに対する感情は、そんな複雑なものがあるのかもしれない。

そして今回の『シン』の終わり方は、ある意味ではファンに迎合したもののようにも最初は感じられたのだが、二度目の鑑賞をした後ちょっと印象が変わった。エヴァという物語をきちんと終わらせるためには、どうしても『シン』が必要だったのかもしれないと感じるようになったのだ。

エヴァは「繰り返しの物語」だと庵野秀明は語っている。実際にテレビシリーズと旧劇場版と今回の新劇場版と続き、観客は何度もエヴァの物語を見ることになる。テレビシリーズを見直して改めて感じたのは、シンジが何度も逃げ出して、何度も戻ってくるという繰り返しの部分だ。テレビと旧と新で、同じことを何度も繰り返すわけだから、見ているほうも混乱してくる。『シン』の「:|| 」という記号は「繰り返し」を意味する記号なのであり、まさにエヴァは「繰り返しの物語」なのだ。

シンジは何度も失敗して、何度もやり直す。『Q』の最後でやったことも結局は失敗に終わり、極度の鬱状態に陥るものの、『シン』では復活してまたやり直すことになる。何度でも失敗するが、何度でもやり直せるのだ。

今回の『シン』の世界と、テレビシリーズや旧劇場版ではいくつか設定が異なる部分がある。アスカが“惣流”ではなく“式波”という苗字に変わっていたり、マリという新キャラが登場したりもする。

つまりはテレビシリーズや旧劇場版とは別の世界(パラレルワールド)ということなのだが、『シン』においてはマイナス宇宙に入って以降は、メタ・フィクション的に展開していく。どういう意味かと言えば、テレビシリーズと旧劇場版の結末を踏まえた形で描かれているように見えるのだ。それはテレビシリーズ全26話のタイトルと旧劇場版のタイトルが劇中に描かれるところでも明らかだろう。

『シン』の世界と、テレビシリーズ・旧劇場版の世界が、パラレルワールドのままだったとすれば、『シン』のラストも無数にある世界のひとつの終わりにしかならないわけで、「新・新劇場版」だって作れることになってしまう。そうではなくて、シンジは今の世界をエヴァのない世界に「書き換える」と宣言する。これまでのテレビシリーズや旧劇場版の失敗を踏まえた上で、それを新たな形に書き換えるということを意図しているのだ。

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寂しいわれわれの心の補完

それからエヴァの物語が寂しい心の補完が目的だったとするならば、旧劇場版のラストは過酷な現実を突き付けることにはなったとしても、それぞれの心の補完は果たされてはいなかったわけで、それに決着をつけるためにもやはり『シン』は必要だったのだろう。

『シン』ではラストはシンジとゲンドウという親子の話に収束していく。壮大な話が普遍的な親子の和解の話になっていくのだ。ゲンドウの「人類補完計画」の中心は、結局のところ亡き妻ユイと再会するということであり、そのために人類すべてを巻き込むというエゴはシンジによって否定されることになるのだ。

しかし、そんなふうに否定されたゲンドウの心も補完されることになる。というのはゲンドウはシンジの中に生きている“ユイの何か”を認めることになるからだ。そしてアスカとカヲルとレイの3人もそれぞれに心を補完されることになるだろう。ゼーレやゲンドウが考えていた「人類補完計画」とは異なるものだが、別の形で心の補完がなされたということなのだ。

また、シンジはゲンドウにも「大人になったな」と認められることになる。今までは「逃げちゃダメだ」と言いつつも、逃げてはまた戻るということを繰り返してきたシンジが、最後にしっかりと成長した姿を見せて終わることになるのだ。

さらに加えておけば『シン』の前半で第三村における牧歌的とも言えるコミュニティの風景を時間をかけて描写していたのは、帰るべき現実の姿を見せるためだろう。このパートでは命令を遂行することだけを考えていたアヤナミレイ(仮称)が、人間らしい生活を学んでいくことになる。「おはよう」「ありがとう」といったコミュニケーションの基本を習い、レイも観客も人との触れ合いに接し、その良さを感じることになるだろう。

こんなふうに帰るべき現実が明らかでなければ、旧劇場版の「現実に帰れ」というメッセージも空虚なものになるわけで、その部分でも旧劇場版のメッセージを補完するものが『シン』には込められているのだ(『シン』のラストではアニメの中に実写のような現実世界が描かれ、シンジとマリはそこへと飛び出していくことになる)。

そんなわけで一部で騙された感は残るものの、騙され甲斐があるラストを見せてくれたとも思えるようになった。それでも同時に寂しい感じもして、シンジがあんなふうに立派になったにも関わらず、相変わらず虚構の世界に耽溺してばかりの自分のことは持て余しているわけで、その辺では置いてけぼり感もなくはない。とは言うものの、やはり四半世紀もの長い間楽しませてもらったわけで、最後はこんなふうに言うほかないだろう。ありがとう、すべてのエヴァンゲリオン。

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