『mellow メロウ』 片想い至上主義を推し進めると

日本映画

『愛がなんだ』『アイネクライネナハトムジーク』などの今泉力哉監督の最新作。

タイトルの「mellow」は劇中に登場する花屋の名前で、「熟している、芳醇な」といった意味。

片想い祭り

公式ホームページに掲げられた今泉力哉監督のコメントから引用すれば「片想い祭り」となってしまった作品。『mellow メロウ』はオリジナル脚本で、ほとんど縛りもなく自由に書いたものだという。それだけに今泉監督のエッセンスが凝縮されたような作品となっていたように思う。

世の中ではたとえば政治の腐敗が問題となったり、環境汚染が危惧されたりと、注目すべきトピックはそれなりにありそうなものだけれど、本作ではそうした余計なアレコレを排除して、登場人物たちはただ純粋に片想いに耽ることになる。

(C)2020「mellow」製作委員会

本作の舞台となる場所がどこなのかは特定されることはない。エンドクレジットでは栃木県小山市のフィルム・コミッションの記載があったことからすると、撮影されたのはそこなのかもしれないのだが、どこにでもある架空の街を舞台にしているようにも見えた。本作のラストでは飛んでいく飛行機の姿が示されるのだが、栃木県には空港はないからだ。

劇中に登場するのは街で一番オシャレな花屋「mellow」と、それとはアンバランスな寂れたラーメン屋ばかり。あとは中学校の校舎も出てくるのだが、屋上と体育館のシーンがあるだけで抽象的な舞台設定にも見えてくる。

そんなふうに舞台設定も余計なものをそぎ落としているように、本作はテーマとしても片想い以外の余計な要素を排除している。『サッドティー』のように物語に笑えるオチをつけることもなく、『退屈な日々にさようならを』のように変なトラブルに巻き込まれて右往左往してみたりもせず、『知らない、ふたり』のように探偵ごっこをしてみたりもしない。ほとんど脱線することなく、ただ純粋に片想いばかりが綴られていく。そんな意味で今泉監督のエッセンスが凝縮しているように感じられたのだ。

片想い至上主義

冒頭にmellowに花を買いにやってくる陽子(松木エレナ)は、バスケ部の先輩・宏美(志田彩良)に片想いし、その宏美は実はmellowの店主・夏目誠一(田中圭)のことを好いている。その誠一は顧客の女性・青木(ともさかりえ)から夫同席のもとで告白されトラブルになったりもする。そして、誠一自身は毎日のように通っているラーメン屋の木帆(岡崎紗絵)が気になっているようにも見える。

本作ではそれぞれがその想いを相手に告げることになるわけだが、それは相手に受け入れられることはない。「ありがとう。でも、ごめんなさい。」という言葉が決まり文句のように繰り返されることになるのだが、そこに悲壮感はまったくない。『愛がなんだ』のレビューでも書いていたのだが、今泉作品では片想いは決して悪いことではなく素晴らしいものとされているからだ。

私が観ることのできた今泉オリジナル脚本作品のなかで、最もそれが強調されていたのは『パンとバスと度目のハツコイ』だったように思う。そのなかにはこんな台詞がある。

「好きだった人のことを、付き合わないで嫌いになれる?」

好きになった人に幻滅するためには、その人をより深く知るまでは不可能だということだ。逆に言えば、永遠に片想いでいることこそが、その好きな人を愛し続けることができる唯一の方法だということになる。徹底した「片想い至上主義」と言えるだろう。

(C)2020「mellow」製作委員会

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もうひとつの命題

本作でさらに付け加わっている命題としては、「片想いは必ず相手に告げられなければならない」ということだろう。想いを秘めていることは許されないのだ。

本作で宏美に想いを伝えた陽子は、「ごめんなさい」されるもののそれをきっかけに宏美と仲良くなる。そして、それをこっそり覗き見していた別の少女も、陽子の告白に後押しされる形で宏美に想いを告白することになり(これもまた「ごめんなさい」されるのだが)、3人は仲良しグループを結成することになる。

誠一が木帆に対し、ラーメン店を辞めるのを周知すべきだとアドバイスするのも、この命題に忠実だからだろう。「いつの間にかひっそり居なくなるなんて寂しがる人がいるかも」という推測は、ラーメン店の閉店に関するものだが、同時に秘められた片想いに関する指摘にもなっているからだ。そのアドバイスを受けた木帆は、ラーメン店の閉店を周知することになるし、その後に手紙で誠一へ想いを告白することになる。

(C)2020「mellow」製作委員会

ふたつの命題は矛盾なく成立する?

「片想いこそが永遠のもの」という命題と、「片想いは必ず相手に告げられなければならない」という命題。このふたつの命題は通常なかなか同時に成り立たないかもしれない。想いを秘めていることは禁じられているし、実際に告白してしまうと関係性を壊してしまって近くに居られなくなってしまう場合もある。さらにはもしかすると両想いが成就して、好きだった人を嫌いになってしまうかもしれないからだ。

本作ではこのふたつの命題を矛盾なく成り立たせるために、告白は必ず断られるようになっており、「ごめんなさい」の言い訳が各自きちんと用意されているのだ。

陽子が告白した宏美には別の好きな人(誠一)がいるし、その宏美から告白された誠一としてもさすがに中学生を受け入れるわけにもいかない(淫行条例とか諸々に引っかかるだろう)。さらに夫同伴での告白も、誠一としては驚くばかりで、夫の手前断るほかない。

そして、木帆の想いを知った誠一が、ラストシーンで木帆に花束を持って会いに行くところで映画は終わる。木帆の父親の想いを理解し、木帆が夢を追って留学するも知っている誠一としては、彼女を引き留めることはしなかったんじゃないだろうか。

『パンとバスと度目のハツコイ』の時に示した「片想い至上主義」を、さらに忠実に推し進めたのが本作だとすれば、そうならざるを得ないからだ。この今泉作品のエッセンスを純粋培養したような作品を観て感銘を受けた人は、なかなか成立しそうにないこの難しい片想いに憧れを抱くことになりそうだ。

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