『もっと超越した所へ。』 女性が考える男の役割

日本映画

原作・脚本は劇団・月刊「根本宗子」主宰の根本宗子。本作は舞台版の『もっと超越した所へ。』を映画化したものとのこと。

監督は『あさはんのゆげ』などの山岸聖太

物語

それなりに幸せな日々を送っていた4組のカップルに訪れた、別れの危機……。ただ一緒にいたいだけなのに、今度の恋愛も失敗なのか? それぞれの“本音”と“過去の秘密”が明らかになる時、物語は予想外の方向へと疾走していく!

(公式サイトより抜粋)

4組のカップル

もともとは舞台劇だったものを映画化した作品で、4組のカップルの話が並行して描かれていく。舞台劇の時はどんなふうにやっていたのだろうかと、舞台の世界を知らない者としては単純に思うのだが、映画はまったく関係のない4組のカップルの話として進行していく。

・恋愛間違えがちデザイナー(前田敦子)×ヒモストリーマー(菊池風磨

・彼氏に染まるギャル(伊藤万理華)×ノリで生きるフリーター(オカモトレイジ

・シングルマザー風俗嬢(黒川芽以)×常連の落ちぶれた俳優(三浦貴大

・子役上がりタレント(趣里)×あざと可愛いボンボン(千葉雄大

(C)2022「もっと超越した所へ。」製作委員会

男側は揃いも揃ってダメ男となっていて、それぞれのカップルに問題がある。菊池風磨は働いてないし、変に相手を拘束しがちだ。オカモトレイジは能天気過ぎるが人は良さそう。しかし、同棲相手の妊娠にビビり過ぎて、相手の病気のことよりも自分のことしか頭にない。三浦貴大は風俗嬢が気に入っているのに、尊大な態度で彼女のことを何も知らないバカ扱いしている。千葉雄大はオカマで男性しか愛せないにも関わらず、寂しいのか話を聞いてくれる女の子も欲しくてトラブルになる。

ただ、男たちはダメだとしても、カップルとしてはそれなりに楽しくやっているという感じでもある。特にギャルとフリーターのカップルなんかを見ていると、見ているこっちが気恥ずかしくなってくるくらいにバカで、それでもふたりはそれが楽しいわけで、他人に害はないわけだから勝手にすればいいということになる。

ちなみに『もっと超越した所へ。』は4つのカップルを並行に描くとは言っても、時間の流れは別になっているところがちょっとおもしろい。風俗嬢と客の俳優はずっと同じ日の出来事(つまりはプレー中のあれこれ)が描かれるけれど、ギャルとフリーターのカップルのところではもっと長い時間が経過していたりもする。最終的にはホワイトデーの日にたどり着くことになるのだが、本作はあちこちで時間を操作することになり、それがキモになっている。

(C)2022「もっと超越した所へ。」製作委員会

同じことの繰り返し

本作は中盤で時間を遡ることになる。すると映画は2年前の出来事を描くことになるのだが、カップルはそれぞれ相手を変えている。これはもちろん「たまたま」ということなのだが、4組は相手をシャッフルしたような形になっているのだ。

それでも4組の過ごす場所は2年前も変わっていない。しかし前田敦子の家にいるのは千葉雄大になり、風俗嬢黒川芽以の部屋にいるのはフリーター男に変化している。そんなふうに2年前は別の相手と過ごしていて、それを解消して「現在」の関係に収まったということだ。

この過去の様子を見ていくとわかってくるのは、4組とも相手は変わっても、抱えている問題は変わっていないということだろう。フリーター男は黒川芽以との間に子供ができてテンパってるし、菊池風磨は2年前から拘束しがちなヒモだ。

ただ、その関係は「現在」の関係から比べると、より一層問題がある。だからこそそれぞれ関係を解消したわけで、一応はみんな「現在」の方が多少は成長したとも言える。そんなわけで2年前の4組のカップルはそれぞれ別れることになり、話は「現在」のホワイトデーのところへと戻ってくる。

※ 以下、ネタバレもあり!

(C)2022「もっと超越した所へ。」製作委員会

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これで終わり?

とはいえ、「現在」の4組のカップルも抱えている問題は同じなわけで、結局、女性陣が別れを決断することになる。ダメ男たちは女たちに罵倒され、「泣いてないで出ていけ」と言われ、すごすごと出ていくことになる。みんな2年前と同じことを繰り返すことになるのだ。

そして、前田敦子はおもむろに冒頭と同じくお米を買いにスーパーへと向かう。本作の冒頭では、それぞれの食事に関わることが描かれる。前田敦子の場合は食事前の買い物風景で、お米が重くてスーパーのビニール袋が破れて困ってしまう。趣里は玄米的なものを入れて、ヘルシーなご飯を炊いている。伊藤万理華はパックのご飯を納豆でかきこみ、黒川芽以はプレールームで持ってきたおにぎりを頬張る。そんなわけで最後にまた前田敦子は再びスーパーへと向かうわけで、冒頭と同じところへ戻ってくるわけだ。

この時点で映画は何となく終わりそうな雰囲気を醸し出していたし、実際に偽のエンドロールが始まったりもするのだが、そこから本作は巻き返しを図ることになる。この偽のエンドロールの時点で終わっていたとしたら、結局2年前と同じことの繰り返しでしかないわけだし、この妙なタイトルに惹かれて劇場に足を運んだ者としては「全然超越してないんじゃないか」と思ってもいたのだが、その残念な印象から一気に奇跡的な挽回を果たしてみせることになるのだ。

(C)2022「もっと超越した所へ。」製作委員会

お米を運ぶという仕事

私は特に予告編などはまったく見ずに劇場に行ったから、偽エンドロール後の展開にビックリした。とにかくこの映画は色々な壁をぶち破っている。演劇界には「第四の壁」という概念があるけれど、この映画はほかの壁をぶち破っていくのだ。

「超越」という言葉は、単純に「ずばぬけていること」という意味合いで使われることもあるけれど、哲学的な使い方では「世界の外側に出ること」を意味することもある。本作の4組のカップルはそれぞれが独自の世界を構成し、独自の時間を生きていたわけだけれど、偽エンドロール後にはその世界の外側へと飛び出していく。

群像劇などではたとえば『ショート・カッツ』とか『マグノリア』みたいに、並列で無関係に描かれているエピソードを無理やりに結びつける荒業があったりするが、本作はもっと強引でルールを無視したやりたい放題をしている。無関係だった女たちはそれぞれの世界を飛び出し、なぜか4人で今後を相談し合ったりもすることになるし、今までの世界を超越したそこは何でもアリのお祭り騒ぎになり、実際に踊る阿呆や獅子舞まで登場するバカげたシーンになっている。

最終的には4人の女性たちはダメ男との別れを選ぶよりも、妥協して一緒にいることを選ぶことになる。その選択を「超越した所」などと言っているのは、そうでも言わないと自分を納得させることができないからだろう。その決断の理由(これは言い訳とも言えるわけだが)もおもしろい。

男たちはクズで、それは多分あまり変わらないかもしれないけれど、お米を運ぶには役に立つというのだ。まず第一に食べなくては生きていけない。そのためにはお米は必需品。そして、重いお米を運ぶには女性の腕力ではちょっとキツい時もあるわけで、そんな時にはダメ男でさえも役に立つ。そんなふうに最低限の役割を男たちに見付けてあげることで、一緒にいることにそれなりの正当性を生み出すのだ。

これは「多くを望まなければ」という台詞もあるように、期待値を下げることで自分を納得させるありがちな心の動きとも言えるわけだが、そこに至る過程の描き方はぶっ飛んでいる(まさに超越している)。

本作は偽のエンドロールの時点で観客に一度「映画が終わった」と認識させ、評価を下げさせている。観客としては何の超越もなしに騙されたと感じたかもしれない。しかし、そんな観客の声が届いたかのように前田敦子は「えっ、終わり?」と騒ぎ出し、そこから一気に突き抜けていく。たどり着いたところはそんなに“高み”ではなくとも(というのも結局冒頭と同じところへ戻ってきたわけだし)、一度評価を下げていたからこそ、ラストの印象としては高揚感があるのだ。これは女性陣が男に対する期待値を一度下げることで気分が変わることと同じだったのだろう。意外に計算高い映画だったのかもしれない。

総じて女たちが男を吊るし上げる場面がとてもいいのだが、中でも前田敦子のまくし立て方は威勢が良くて、相手の菊池風磨はほとんど何も言うことができない。趣里『生きてるだけで、愛。』が印象に残っているのだが、最近観た『初情事まであと1時間』や本作でもコメディエンヌっぽい雰囲気になっていてそれもいい。三浦貴大は役作りなのか体重を増していて妙に貫録がついていたし、伊藤万理華『サマーフィルムにのって』の時とは別人のようになっていたり、役者陣の健闘も目立つ映画だったんじゃないだろうか。

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