『楽園』 犠牲によって救われたのは?

日本映画

原作は『悪人』『怒り』などの吉田修一の短編集『犯罪小説集』から。

監督・脚本は『64-ロクヨン-』『菊とギロチン』などの瀬々敬久

物語

田園風景が広がる村落で起きた少女失踪事件。12年前、村のY字路で少女・愛華の最後の姿を見ていた紡(杉咲花)は、「自分が一緒にいれば」という後悔の日々を過ごしている。そんな時、村の祭りの準備で豪士(綾野剛)と出会うのだが、祭りの日、再び少女が失踪する事件が起き、豪士は犯人と疑われることに……。

その1年後、近くの集落に住んでいた養蜂家の善次郎(佐藤浩市)は、ちょっとしたトラブルから村八分にされてしまう。

原作について

『楽園』は吉田修一の短編集『犯罪小説集』のうちの二本の短編を原作としている。『犯罪小説集』に収録されている五つの短編は、それぞれ実際に起きた事件をもとに書かれている。

「青田Y字路」「栃木小1女児殺害事件」「万屋善次郎」「山口連続殺人放火事件」から着想を得ている。どちらも閉鎖的な日本の村社会を舞台としていて、共通したテーマを扱っているために、この二編が選ばれたということだろう。

閉鎖的な村社会で

豪士は海外で生まれ、母親(黒沢あすか)と一緒に日本にやってきた。言葉が片言だからかあまりしゃべることもなく、地域社会に馴染んでいるとは言えない。いつも母親のリサイクル販売の仕事を手伝っているのだが、母親には男がいて豪士は一人で暮らしている。祭りに出店するために準備をしていると、地元のヤクザがいちゃもんをつけにくるなど、よそ者である豪士にとってその村は生きにくい場所だ。

一方、善次郎は一度は東京に出ていて、親の介護のために地元に戻ってきた出戻りだ。高齢者ばかりのその集落では、比較的若い善次郎は「養蜂で村おこしを」というアイディアを持っていることもあり、それに期待する者もいた。しかし保守的な村人たちのなかには変化を嫌う者もいるのか、役所との関わりで顔をつぶされたと感じた村の有力者は、善次郎を村八分にすることになる。

 ※ 以下、ネタバレもあり!

(C)2019「楽園」製作委員会

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盗人にも三分の理

『ジョーカー』という作品が犯罪を重ねるアーサーに対して同情的に描かれていたように、吉田修一の原作は犯罪者の側に寄り添って書かれている。

ここでの犯罪者というのは豪士であり、善次郎のことだ。善次郎は村八分にされた末に狂気に陥り、集落の者たちを惨殺する凶行に走る。豪士は愛華失踪事件に関わっているか否かは仄めかされるだけだが、よそ者として虐げられていた豪士が何かの拍子で事件を犯してしまった可能性は高い。

どちらにしても閉鎖的で排他的な村社会のなかで生きづらい立場にあった者が、どこかで暴発してしまったものとして、理解できなくもないと思わせるのだ。吉田修一原作の『悪人』の登場人物に悪人などいなかったように、「盗人にも三分の理」ということわざ通り、犯罪にもそれなりの理由を見出して同情してしまうわけだ。

楽園とは?

冒頭の田園風景では、雲間から光が射す様子が映されている。その風景だけを切り取れば「楽園」と見えないこともないのだが、実際にその村社会の実態を見てみれば到底「楽園」とは言い難い。

豪士が紡と交わした会話のなかでは「どこへ行っても同じ。どこにもないよ……」と語られていた。ここでは「何が」どこにもないのかが抜け落ちている。豪士が言おうとしていたのは「自分の居場所」だったのかもしれないのだが、「楽園」などどこにもないとすら言っているようにも聞こえる(母親は日本は「楽園」だと思っていたらしいのだが)。

村八分にされた善次郎はひとり屋敷にこもるようになり、亡くなった妻(石橋静河)と会話するように暮らしている。そして先祖が切り開いた土地を森に戻そうとするのだが、これは善次郎なりの「楽園」の創り方だったのかもしれない。ただ、村人たちはそんな勝手なことを許さないわけで、それがさらに善次郎を追い込み爆発を招くことになってしまう。

犠牲と救い

すべてが終わったあとに村に戻ってきた紡は、失踪した愛華の祖父・五郎(柄本明)と遭遇する。失踪事件ではなかなか犯人は見つからず、その事件を終わらすためにも誰かの犠牲が必要だった。五郎は豪士が犯人であることを望んでもいた(追い詰められた豪士は自殺するほかなかった)。そうでなければ村のなかで事件が終わることはなかったからだ。

多分、豪士は犯人である可能性が高い。ただ、犠牲となるのは真犯人である必要はなかったのかもしれない(現実に起きた「栃木小1女児殺害事件」では冤罪が疑われてもいる)。豪士の母親が彼によってみんなが救われたと語っていたのは、誰かが犠牲になることで村が丸く収まればいいというのが村社会のあり方だからだろう。善次郎が村八分に遭ったのも似たような心理から生じたことだと言える。

都会という場所

愛華を見殺しにしたように感じている紡は、村に居られなくて東京に働きに出る。希望を胸に抱いて都会へ出たわけではなく、田舎が息苦しいのだ。紡のあとを追ってきた広呂(村上虹郎)と出かけた東京の繁華街は何とも狭苦しい場所だった。

上を走る高架線の壁に囲まれた場所で、行き場所がない若者たちがたむろしている。田舎を追われて出てきた者たちが、その場限りの人間関係の気楽さのなかで憩うわけだが、そこも「楽園」というにはほど遠い場所のように見えた。やはりどこにも「楽園」などなさそうだった。

苦心のほどは窺えるのだが、つながりのない短編を結びつけたことがネックになっているようにも感じられ、紡と豪士の会話などかえって不自然な部分が多かったようにも……。1994年に『愛の新世界』で大胆なヘアヌードを披露していた片岡礼子が、久しぶりに本作でも体を張っているのだが、本筋にうまく絡んでこないように見えるのも、そうした不具合からだろうか。

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