『ロストケア』 もどかしさ、再び

日本映画

原作は葉真中顕の小説『ロスト・ケア』

脚本・監督は『そして、バトンは渡された』などの前田哲

脚本には『ストロベリーナイト』などの龍居由佳里も名前を連ねている。

物語

早朝の民家で老人と訪問介護センターの所長の死体が発見された。捜査線上に浮かんだのは、センターで働く斯波宗典松山ケンイチ。だが、彼は介護家族に慕われる献身的な介護士だった。検事の大友秀美長澤まさみは、斯波が勤めるその訪問介護センターが世話している老人の死亡率が異常に高く、彼が働き始めてからの自宅での死者が40人を超えることを突き止めた。
真実を明らかにするため、斯波と対峙する大友。すると斯波は、自分がしたことは『殺人』ではなく、『救い』だと主張した。その告白に戸惑う大友。彼は何故多くの老人を殺めたのか? そして彼が言う『救い』の真意とは何なのか?
被害者の家族を調査するうちに、社会的なサポートでは賄いきれない、介護家族の厳しい現実を知る大友。そして彼女は、法の正義のもと斯波の信念と向き合っていく。

(公式サイトより抜粋)

殺人犯・斯波vs.検事・大友

冒頭では、訪問介護センターの仕事で甲斐甲斐しく働く斯波(松山ケンイチ)の姿が描かれる。彼は利用者からの信頼も厚く、新人の足立(加藤菜津)からは憧れの存在とまで言われるような理想的な介護士だ。しかし、そんな斯波が実はその立場を利用して老人たちを殺していたというのが本作の真相だ。

原作小説は叙述トリックを使ったミステリーという側面もあるようだ。ただ、映画ではそれは難しいわけで、意外とあっさりと犯人は判明することになる。というのも、映画『ロストケア』が意図したのは、42人を殺した殺人犯である斯波と、それを裁く側である検事の大友(長澤まさみ)、この二人の論争をじっくりと描くことだったからだろう。

斯波は逮捕されるとすぐに容疑を認めることになる。しかし彼は殺したのではなく、42人を救ったのだと語る。彼がやったことは殺人ではなく介護であり、喪失の介護、ロストケアだと語るのだ。

(C)2023「ロストケア」製作委員会

社会に穴が開いている?

取り調べが始まると、大友は斯波に殺人の動機を問いかけることになるが、斯波はそれに落ち着き払って対応する。そして、なぜ殺したことが救いとなるかについて理路整然と語っていくことになる。

斯波が訪問介護センターで殺したのは41人だ。しかし彼は42人を救ったと告白する。その最初の1人が彼の父親の正作(柄本明)だ。斯波は正作に男手ひとつで育てられたらしい。その正作が脳梗塞で半身の機能が麻痺し、さらに認知症も併発するようになると、その介護は壮絶を極め、いつの間にかに斯波の頭は白髪だらけになっていく。斯波が最初に介護することになったのも父親である正作であり、最初に殺したのも正作だったのだ。

ではなぜ大切な父親に手をかけねばならなかったのか。斯波はそれを「この社会には穴が開いている」と表現する。正作は認知症もあり、目を離すことができないような状況にあった。だから斯波は仕事を辞めて正作の介護に励む。そうなると収入は正作の年金だけになり、斯波家はしばらくして困窮状態に陥る。

しかし行政は彼らを救うことはない。斯波は恥を忍んで生活保護の申請をしたものの、個々の事情などを勘案する気もない行政は、それを簡単に却下し彼らを追い詰めたのだ。その結果、正作は自ら死を望み、斯波はその要望に応えることになったというわけだ。

これに対して大友は反論するのだが、斯波は大友が安全地帯にいると非難する。日本の社会には穴が開いていて、そこに落ちた者はなかなか抜け出せない。安全地帯にいる者は自己責任論を振りかざし、穴の底を這い回る者たちをさらに追い詰めることになる。

大友にも認知症気味の母親(藤田弓子)がいる。しかしその母親は、身体が不自由になると自ら高級老人ホームに入居し、大友はほとんどそこに母親を任せきりでも何の問題はない。しかし、そんなことが可能になったのは大友がわずか一握りのエリートだからだろう。大友自身もそのことを理解しているから、どうしても斯波の言葉が説得力を持ってしまうことになる。検事の大友は殺人犯である斯波を糾弾するはずが、逆に大友のほうが斯波の言葉に追い詰められていくのだ。

(C)2023「ロストケア」製作委員会

過酷な介護の現場から

斯波の論理を聞きながら、現実世界で起きた相模原障害者施設殺傷事件のことを想起した人も多いんじゃないだろうか。私は予告編を観た段階で、本作が相模原障害者施設殺傷事件をモデルにしたフィクションだろうと勝手に推測していた。しかし、これは単なる私の勘違いだ。

原作本が出版されたのは2013年であり、相模原障害者施設殺傷事件が起きたのはその3年後の2016年だからだ。この事件の犯人は知的障害者施設の元職員でありながら、入所者の多くを殺害した。そして、その動機に関しては、知的障害者の親が疲れ切った顔をしていたからだと語ることになる。さらには国の負担を減らすためにも、意思疎通を取れない人間は安楽死させるべきだなどと主張したのだった。

『ロストケア』の原作は事件の前に書かれているわけで、相模原障害者施設殺傷事件とは無関係だ。それでも原作者は介護現場の厳しい現実を知っていて、斯波のような考えを持つ人がいてもおかしくないと感じていたのだろう。そしてそれが事件を予知したかのような形になったということになる。

とはいえ、相模原障害者施設殺傷事件の犯人と、本作の斯波には大きな違いもある。相模原障害者施設殺傷事件の犯人は、医師から大麻精神病などが疑われていた。つまりはとち狂った人間が血迷ったことをほざいているとして済ますこともできなくはなかったわけだが、それに対して斯波は至極真っ当なのだ。それだけにかえって厄介ということになる。

斯波は父親の正作を毒殺したのだが、それはたまたま露見せずに済む。それによって斯波は自分に何らかの使命が与えられたと感じる。聖書にはイエス・キリストの言葉として、「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」という黄金律と呼ばれるものがある。それに則れば、介護で苦しんでいる人がいたとすれば、その介護から解放するために斯波がすべきことは殺人だということになるわけだ。

※ 以下、色々ネタバレあり!

(C)2023「ロストケア」製作委員会

スポンサーリンク

 

揺るがない殺人犯

本作は斯波と大友の一騎討ちになるわけだが、どうにも大友は分が悪い。極端に言えば、大友は斯波に言い負かされるためのキャラクターとも言え、本作は積極的に斯波の主張を擁護しているとも感じられるのだ。

斯波のやったことは紛れもなく殺人であり、これは当然ながら許されるものではない。通常、誰しもがそう考えるだろう。しかしながら本作では意図的なのか斯波に対する反論が弱いのだ。

一応、裁判の中では戸田菜穂が演じる梅田に「人殺し」と叫ばせてはいるし、遺影を持って傍聴席にいる人々の姿を映してもいる。それでも、それ以上に斯波のやったことが救いと感じられてしまう人のほうが丁寧に描かれている。

坂井真紀が演じる羽村は、子育てと認知症の母親の介護でギリギリの状態にいた。だから斯波のやったことが救いだったと正直に告白している。その後、羽村は娘と一緒に再婚することになり、次の人生を歩むことになる。ここでは実際に斯波の殺人が救いになっているのだ。

それに対して梅田の叫びはいかにも唐突だったし、梅田自身もかなり追い込まれていたにも関わらず、斯波を非難する言葉を叫ぶことになる理由はなぜかスルーされているのだ。

さらにはあろうことか、斯波を糾弾するはずの大友自身が斯波に共感しているようでもある。大友は裁判が終わった後にわざわざ斯波に面会に行き、自身の父親を見殺しにしていたことを告白する。映画の冒頭で孤独死していたのは、実は大友の父親だったのだ。これを斯波の殺人と同列に扱えるものとは思えないのだが、なぜか大友はそれを斯波の行為と重ねることになる。

大友に寄り添って考えれば、大友が父親を見捨てて腐らせたのに対し、斯波は父親を殺したとはいえきちんと葬ることになったわけで、どちらが父親のためになったのかと考えると大友は斯波に反論できないということになるのかもしれない。そんなわけで本作の論争においては、斯波は最後まで揺るがされることがなく、屈服したのは大友のほうということになるのだ。

(C)2023「ロストケア」製作委員会

「見たくないもの」を見て

本作は斯波のしたことに同情的だ。それによって何を訴えようとしているのだろうか。斯波は殺人犯だが、それに対してすらも「さもありなん」と同情してしまうような過酷さが介護の現場にはあるということなのだろう。

劇中では大友が部下の椎名(鈴鹿央士)に対して、「見えるものと見えないものがあるんじゃなくて、見たいものと見たくないものがあるだけなのかもね」と漏らしている。大友のような安全地帯にいる人は「見たくないもの」を見ないで済ますことができる。けれども社会の穴に落ちるような人たちは「見たくないもの」を直視さぜるを得ない。

「見たくないもの」を直視した場合どうすればいいか。斯波の考えは極端で、「この世には罪悪感に蓋をしてでも、人を殺すべき時がある」というところまで進んでしまう。昨今は様々な考えを多様性という名の下に認める傾向にあるけれど、斯波の極端な考えまでを許容できるのだろうか。さすがにそこまで斯波を擁護するつもりはないのだろうが、社会に開いている穴を塞ぐ程度には介護問題を改善していかなければならないということではあるのだろう。それでも殺人犯を擁護する本作に対しては、ちょっと複雑な気持ちも抱くことになった。

ちなみに昨年公開された『PLAN75』も、本作と同様に「見たくないもの」を直視しようという作品だった。『PLAN75』では、国が高齢者問題に積極的に介入することになり、高齢者を安楽死させる法案を可決することになる。こちらの解決策もグロテスクなものであり、現実的にはあまり役に立ちそうなものとはなっていない。

『ロストケア』も『PLAN75』も「見たくないもの」を直視しようという点では共通しているし、問題提起として十分に機能している。しかしその先をどうするかという点にまでは到達していない(それは現実世界が検討すべきことということなのかもしれないけれど)。

『PLAN75』では最後に唐突に希望が描かれ、個人的にはそれがしっくり来なかったのだが、一方の『ロストケア』では相模原障害者施設殺傷事件ともよく似た斯波の主張に押し切られたような感じもして、これまた違和感が残った。

どちらにしたって一朝一夕に解決するような簡単な問題ではないわけだけれど、自分だって穴に落ちる側にいるわけだからこれはまさに他人事ひとごとではない。「どうすりゃいいの?」というもどかしさを感じざるを得ないのだ。

コメント

タイトルとURLをコピーしました