『PLAN 75』 “見たくないもの”を見せる

日本映画

脚本・監督は早川千絵。本作が長編映画デビュー作となる。

本作は、オムニバス映画『十年 Ten Years Japan』の中の一編を再構成して出来上がったもの。

カンヌ国際映画祭ではカメラドール特別表彰を受けたとのこと。

物語

夫と死別してひとりで慎ましく暮らす、角谷ミチ(倍賞千恵子)は78歳。ある日、高齢を理由にホテルの客室清掃の仕事を突然解雇される。住む場所をも失いそうになった彼女は<プラン75>の申請を検討し始める。一方、市役所の<プラン75>の申請窓口で働くヒロム、死を選んだお年寄りに“その日”が来る直前までサポートするコールセンタースタッフの瑶子(河合優実)は、このシステムの存在に強い疑問を抱いていく。また、フィリピンから単身来日した介護職のマリア(ステファニー・アリアン)は幼い娘の手術費用を稼ぐため、より高給の<プラン75>関連施設に転職。利用者の遺品処理など、複雑な思いを抱えて作業に勤しむ日々を送る。
果たして、<プラン75>に翻弄される人々が最後に見出した答えとは―――。

(公式サイトより抜粋)

短編から長編へ

本作の原型は、2018年の『十年 Ten Years Japan』というオムニバス映画の中の一編だ。私はたまたまこの作品を観ていたのだが、オムニバス5編の中で一番印象に残ったのが「PLAN75」だった。

何より設定が秀逸だった。75歳になると国が安楽死を推奨し、役に立たない(とされる)高齢者を死へと追いやっていく。これがあまり絵空事に思えなかったのは、高齢化社会という問題が自分にとってもそれなりに切実なものと感じられたからなのだろう。短編だけに、その制度を利用することになる高齢者の具体的な事情を描くまではいかなかったわけだけれど、問題提起としてはとてもよく出来ていたのだ。

今回はそんな短編を長編映画とすることになったわけで、早川千絵監督はその意気込みをこんなふうに語っている。「『十年 Ten Years Japan』内の短編では問題提起をするだけに留まっていましたが、長編ではその先に見出す希望を描きたいと思いました」。早川監督が言うところの“希望”とはどういうことだろうか?

(C)2022「PLAN75」製作委員会 / Urban Factory / Fusee

選択する側と推奨する側

『PLAN 75』は群像劇であり、かつての短編では描けなかった個々の事情が丁寧に描かれることになる。主人公と言えるミチ(倍賞千恵子)は二度結婚しているが、子供はおらず一人暮らしだ。ミチはホテルの客室清掃の仕事をしている。同僚には同世代も多く、牧稲子(大方斐紗子)には孫もいるのだが、子供との折り合いが悪いのか付き合いはないらしい。

この牧が職場で倒れたことが、ミチなどの高齢者が解雇されるきっかけとなっている。ミチは仕事を失うと家も追い出されることになり、さらに職場を離れたことで友人とも疎遠になり、孤独で不安な日々を過ごすことになる。

そして、仲の良かった牧は自宅で孤独死してしまう。ミチはそれを発見し、腐敗した匂いを嗅ぐ。次の仕事も住む場所も見つからないという状況もさることながら、それでも頑張って踏み止まったとしても、孤独死して腐ってしまうのだとしたら……。牧の死を目撃したことは、ミチがプラン75を選択することになる大きな要因となっているだろう。

一方でプラン75を推奨する立場のヒロム(磯村勇斗)。普段は事務的に作業を進めているけれど、その対象が自分の親しい者となるとちょっと事情が変わってくる。プラン75というのは国が推し進める政策ではあるけれど、結局は「姥捨て」だからだ。他人事ならば細かい事情は知らないから深く感情移入することもないけれど、叔父さん(串田和美)が姥捨ての対象となるとやはり心が痛むということだろう。それからヒロムは叔父さんのことを気にかけることになる。

(C)2022「PLAN75」製作委員会 / Urban Factory / Fusee

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“環境管理型権力”とは?

ヒロムの仕事はプラン75の推進だ。その一環として、公園でホームレス支援のために食事を配給したりもする。また、それと同時に、公園のベンチに手すりを付けることを業者と相談したりもしている。これは公園のベンチで夜を明かすことができないようにしているのだ。そして、ご丁寧にもプラン75は住民票がなくても利用可能なサービスになっている。つまりは公園でホームレス生活をするよりも、プラン75を選びましょうということだ。もちろん積極的に安楽死をお薦めするわけではないけれど、暗にそういう方向へと導いて行こうとするのだ。

こうした権力のあり方を“環境管理型権力”などと呼ぶことがある。この例として常に挙げられるのがマクドナルドだ。マクドナルドの椅子は固くて長時間座っているとキツくなってくるし、夏なんかは凍えるほどの冷房で外に出たくなってくる。

店員から追い出されるわけではないけれど、マクドナルドの環境が自然と客に長居をさせないように導き、回転率を上げるようになっているというわけだ。本作のプラン75という政策もそうした権力を意識しているのだろう。プラン75にコールセンターが開設されている意図も、一度プラン75に申し込んだ高齢者を不安にさせず、粛々と安楽死へと向わせることにあるのだ。

冒頭で描かれるのは、社会の負担となっている高齢者を邪魔と感じた若者が起こした事件だ。しかも、その若者はそれを何かしらの正義とまで感じている。このことは現実に起きた相模原障害者施設殺傷事件を想起させるだろう。

劇中ではそんな事件が多発しているとされ、それが後押しとなり、プラン75という法案は国会で成立する。世間的にも高齢者は肩身が狭くなり、孫のためにならそれも致し方ないといった空気すら醸成されていく。知らず知らずに外堀は埋められて、残った選択肢はプラン75しかないということになる。本当はそれを選ぶように導かれているのに、高齢者はそれに気づかないということなのだろう。あるいは気づいていても、抵抗することはできないということだろうか。

(C)2022「PLAN75」製作委員会 / Urban Factory / Fusee

“見たくないもの”を見せる

冒頭、長い間、ぼやけたままの映像が続く。そこにようやく焦点が合う人物が登場すると、その若者は銃のようなものを持ち、身体は返り血にまみれている。そうして若者がその場を離れると、高齢者施設が彼によって滅茶苦茶に荒らされていることが急に明らかになる。

この冒頭は、本作が、われわれ観客が見たくはないもの、実際には起きているけれど目を逸らしているもの、そうしたものに焦点を当てるということを宣言しているのだ。

劇場の観客に高齢者が多かったのは、こうした題材に対する当事者意識というものが、高齢者のほうが圧倒的に強いからだろう。高齢者にとっては、ここで描かれたような「見たくない現実」も、目を背けていられないほど切実なものとなっているのだろう。

かつての短編の時は、安楽死を行う場所はカーテンの向こう側にあると示されるだけで終わっていた。長編となった本作は、そのカーテンの向こう側の様子が描かれることになる。そこで働いているのはマリア(ステファニー・アリアン)のように立場が弱い外国人労働者だったりする。マリアは母国に置いてきた娘のために金が必要となり、その安楽死のための施設で働くことになったのだ。

マリアたち係員は遺品を整理することになる。死んだ人には物は必要ないからだ。そこで行われていることは、アウシュビッツでナチスがユダヤ人の遺品を整理している様子にも見える。そして、遺体は産廃業者に引き渡されることも示されることになる。

プラン75を選択した人の安楽死そのものは凄惨なものではない。清潔なベッドで眠るようにして息を引き取ることになる。しかしながら、それは「姥捨て」というよりも、人間を物のように扱い、最終的にはゴミとして処理しようとしていることにつながっていく。そんなふうに本作は、われわれが普段はあまり“見たくないもの”を突き付けてくるような作品になっているのだ。

(C)2022「PLAN75」製作委員会 / Urban Factory / Fusee

“希望”はあったのか?

われわれが直面している現実と、映画の中で描かれていることは、多分あまり違いはないだろう。それだけ高齢化社会ということは大きな問題を孕んでいる。本作はカンヌで賞を受賞したということもあり、世間的にも注目を浴びたようだ。短編の時はほとんど話題になっていなかったことを考えると、長編としての本作が公開されたことには意義があるのだろう。

しかし、早川監督が語っていたように、問題提起以上のものを提示できたのか否かという点では疑問を感じなくもない。本作で丁寧に描かれた現実に対し、登場人物は何をしたのかというと、ほとんど無力だからだ。

ヒロムは産廃業者に叔父さんが遺体が引き渡されることを避けようとするが、途中で警察に止められ、目的を遂げることは出来ない。コールセンターで働いていた瑤子(河合優実)は、プライベートでもミチと親しくなるものの、プラン75の利用を止めることは出来ない。瑤子がしたことと言えば、ただ、カメラに(というか観客に)視線を向けるだけに留まるのだ。この視線がわれわれに対しての警告を示しているのかもしれないけれど、それがどれだけの人に伝わったのだろうか。

そして、ミチはどうなったのかと言えば、なぜか生き残ってしまう。ラストは、施設を抜け出したミチが、あまりにも美しい夕陽を見ているところで終わる。ミチは追い詰められてプラン75を選んだはずだ。それにも関わらず、そうしたアレコレをすべて忘れたかのように、ミチは生きているということを実感している。厳しい現実を捨て去っても、「生を全肯定したい」というのが早川監督が語っていた“希望”ということになる。

これがかつての短編でも提示され、さらに今回改めて問題提起されたことに対する答えだということになると、なかなかすんなりとは受け入れがたいような気持ちにもなる。無条件での生の全肯定は、監督の“願い”であったとしても、本作を観た人に“希望”与えるようなものになっているとは思えないからだ。かと言って、自分が対案を出せるのかといえばそんなこともないわけで、それだけこの問題が簡単ではないということを示すことにはなっているのだけれど……。

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