『ドライビング・バニー』 キャラクターか? テーマか?

外国映画

監督のゲイソン・サヴァットは、本作が長編デビューのニュージーランド在住の中国人とのこと。

原題は「The Justice of Bunny King」。

物語

ある事情から、妹夫婦の家に居候中のバニー。娘とは監視付きの面会交流しかできない。それでも、明るい笑顔と気の利いたトークで車の窓拭きをして必死に働いている。夢は娘の誕生日までに新居へ引っ越し、家族水入らずの生活を再開させること。そんなある日、妹の新しい夫ビーバンが継娘のトーニャに言い寄る光景を目撃。カッとなったバニーはビーバンに立ち向かうも、家を叩き出されてしまう。 「家なし、金なし、仕事なし」運の尽きたバニーは救い出したトーニャと共に、ルールもモラルも完全無視の“子ども奪還作戦”に突っ走るー。

(公式サイトより抜粋)

子供と離ればなれに

バニー(エシー・デイヴィス)は街中で車の窓拭きをやって小銭を稼いでいる。そんな仕事しかないのは彼女が服役囚だったからで、そのために子供たちとは離ればなれになっている。彼女には息子と足の悪くて幼い娘がいるのだが、子供たちと会うにもお役所の監視役が付いているのだ。

バニーの目下の夢は「娘の誕生日までに新居へ引っ越し、家族水入らずの生活を再開させること」だ。ただ、これは現実的にはかなり難しそうだ。役所としては元服役囚である親よりも、子供を守る方を優先させる。そうなると子供は里親に引き渡されることになるし、元服役囚が社会復帰するようなルートも確保されてないわけで、必然的にバニーは子供たちと引き離されることになってしまう。子供たちと一緒に暮らすためにはまずは住む場所が必要なのだが、バニーは日々小銭を稼いでいるだけで住む場所を確保するのは至難の業なのだ。

しかも、バニーはそれまで居候していた妹夫婦の家からも追い出される事態になってしまう。これによってバニーはますます夢から遠のくことになってしまうのだ。

(C)2020 Bunny Productions Ltd

バニーの正義

邦題はロードムービーっぽいイメージだが、実際に車でドライブするシーンはあまりない。原題が「The Justice of Bunny King」となっているように、本作はバニーの考える正義についての映画なのだ。

バニーが妹の家から追い出されることになったのも、それがバニーの正義に関わってくる問題が生じたからだ。バニーは妹夫婦のガレージを住む場所として借り、それによって子供たちを迎えることを考えていたわけだが、そんな時にそのガレージである出来事を目撃してしまう。妹の旦那であり、実質的な決定権を握っているビーバン(エロール・シャンド)が、車の中で妹の娘トーニャ(トーマシン・マッケンジー)に言い寄っていたのだ。

バニーはそれを見逃して子供たちのことを優先することも可能だったはずだ。しかし、それはバニーの正義にかなうような行動ではなかったということなのだろう。バニーは一瞬だけ躊躇するものの、すぐにビーバンに突っかかることになり家を追い出される。こんなふうに子供たちと一緒に暮らすという夢も遠のくことになってしまうのだ。

そもそもバニーが服役していたのは、自分の子供を守るために旦那のことを殺したかららしい。子供を守るという正義のためには、殺しも厭わない。そこまで極端とは言えないとしても、バニーは怒りを抑えることができないとも告白しているから、自分が正しいと思ったことを成し遂げるためには、善悪とかモラルも後回しになってしまうところがある人なのだ。そんな意味では色々と欠点のある女性ということになる。

(C)2020 Bunny Productions Ltd

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キャラクターか? テーマか?

『キネマ旬報』の2022年10月上旬号には、ゲイソン・サヴァット監督のインタビューが掲載されていて、その中では影響を受けた監督のひとりとしてケン・ローチの名前が挙がっている。本作は弱者であるバニーを主人公として、舞台となっているニュージーランドの社会問題を浮かび上がらせるような社会派的な要素もある。

バニーは元服役囚として真っ当な職に就くことも難しいし、役所としては子供の方を守るという名目で、バニーのことを子供たちから引き離すことばかり考えている。バニーの子供たちへの想いは真摯なもので、服役することになった事情も鑑みれば、個々の事情を汲んだ対処方法があってしかるべきだろう。ところが、役所は杓子定規なやり方しかせずに、その狭間でバニーは苦しむことになる。

しかしながら、本作は観客が弱者であるバニーに同情を寄せることになるのかと言えば、微妙な感じになるかもしれない。というのも、上述したようにバニーは色々と問題の多い女性で、素行が悪い部分が目立つからだ。子供たちのためとはいえ小さな悪事を積み重ね、自ら墓穴を掘っていくような形になっていくわけで、自業自得のようにも見えてしまうのだ。

バニーがトーニャを助けたという出来事も、緊急性を帯びていたようにも見えないし、トーニャの態度も曖昧だからバニーの正義というものもあやしくなってくるようでもある。トーニャは確かにビーバンに言い寄られていたし、それを嫌がる素振りも見せるのだが、最終的にトーニャがバニーについていくことになったのは、母親に対する不信感があったからだろう。トーニャはビーバンが自分に迫ってきていることを母親に信じてもらえなかったことにショックを受けており、ビーバンに対する嫌悪感よりも母親に対する不信感の方が強調されているのだ。

だからバニーがビーバンから守ろうとしてトーニャを家から連れ出したという正義も、どこかちょっとズレているように感じられてしまう。これはバニーの正義が歪んだ部分があることを示すためなのかもしれないけれど、バニーを全面的に応援する気持ちを削ぐようなものが混じり込んでいるとも言える。これはリアルな人間像ということになるのかもしれないけれど、何をテーマにしているのかぼやけてしまうようにも感じられるのだ。

インタビューによればゲイソン・サヴァット監督はバニーというキャラクターが気に入っているようで、計画していたほかの作品に登場したバニーというキャラクターを使って本作を作り出したということらしいから、テーマというよりも「バニーありき」ということだったのかもしれないけれど……。

(C)2020 Bunny Productions Ltd

弱者たちの真実?

それでも立てこもったバニーが娘のために役所の内部を飾り立てていく場面は、バニーの娘に対する想いが感じられてちょっと泣かせる。もうそこに立てこもった時点で、ほとんどバニーは“詰んでいる”みたいなものだということは自分でも理解しているだろう。それでも娘のためにわずかな可能性を信じ、娘を迎えるための用意をすることになるわけだけれど、バニーが娘との約束を意地でも守ろうとする一方で、そこを取り囲んだ警察の方はバニーとの約束など何とも思っていないわけで、当然ながら破滅を迎えることになる。

ちなみに本作に影響を与えた映画として監督が名前を挙げているのが『狼たちの午後』だ。この作品も主人公である銀行強盗が、その銀行に立てこもることになるわけだが、この主人公はテレビなどで取り上げられてみんなのヒーローのように持ち上げられ、多くの人の共感を獲得することになるのに対し、『ドライビング・バニー』のバニーはあまり理解されることがない。家庭支援局の所長だけがバニーの背景を知り同情を寄せることになるわけだけれど……。

ラストではトーニャがどこかに向かって車を走らせているシーンだ。これは事件後すぐということではないのだろうし、トーニャがその後に自らの力で家を抜け出したという希望を描いたということだったのだろうか? バニーを演じたエシー・デイヴィス『ニトラム/NITRAM』でも好演していた)と、トーニャ役のトーマシン・マッケンジーのコンビは悪くなかったのだけれど、どっちつかずのまま終わってしまったようにも感じられた。とはいえ、弱者だって様々なわけで、ケン・ローチの『わたしは、ダニエル・ブレイク』みたいに諸手を突き上げて応援したくなるような人たちばかりではないのもやはり真実なのかもしれない。

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