『アプローズ、アプローズ! 囚人たちの大舞台』 もう待てない!

外国映画

監督・脚本は『アルゴンヌ戦の落としもの』エマニュエル・クールコル。本作は監督第2作。

原題は「Un triomphe」で、「凱旋公演」という意味。

物語

囚人たちの為に演技のワークショップの講師として招かれたのは、決して順風満帆とは言えない人生を歩んできた崖っぷち役者のエチエンヌ。

彼は不条理劇で有名なサミュエル・ベケットの『ゴドーを待ちながら』を演目と決めて、ワケあり、クセありの囚人たちと向き合うことに。

果たして彼らの最終公演は、観衆の 喝采アプローズ の中で、感動のフィナーレを迎えることができるのだろうか?

(公式サイトより抜粋)

自由と束縛

懲役刑は役割が3つあるとされるようだ。「隔離」と「抑止」と「矯正」だ。「隔離」というのは、社会にとって害のある人物を隔離するということ。「抑止」というのは、自由を剥奪するという罰を与えることで、犯罪の抑止をするということ。そして、「矯正」というのは、囚人たちに労働などを行わせて社会復帰に備えるということだ。

『アプローズ、アプローズ! 囚人たちの大舞台』の舞台となる刑務所では、恐らく「矯正」の一環として囚人たちの文化的活動が認められている。それを取り仕切っているのは刑務所の所長(マリナ・ハンズ)だ。

本作においては、所長が刑務所内の管理をしているわけだが、同時に「矯正」の側面をも担っている。一方で「隔離」と「抑止」の側面を担っているのは刑務官たちだ。所長と刑務官たちは、所属する組織が異なり、労働組合も別になっているとされる。

所長としては、囚人に対する啓蒙という意識で文化的活動などをさせたいわけだが、一方で刑務官としては、刑務所内でトラブルが生じないように閉じ込めておくことだけを考えている。ある程度の自由を与えて囚人に学ばせようとする側と、規則で雁字搦めにしようという側、それぞれが別の立場で囚人を管理しているということになる。

犯罪者を閉じ込めておくということは社会を維持する上で必要なことだろう。しかしながら囚人たちにも人間としての権利があることもまた確かだ。刑務所という場所は、そんなふたつの立場がせめぎ合っているところらしい。

(C)2020 – AGAT Films & Cie – Les Productions du Ch’timi / ReallyLikeFilms – Photo (C)Carole Bethuel

いつも何かを待っている

主人公であるエチエンヌ(カド・メラッド)は本業は役者なのだが、もう3年も仕事にあぶれている。そんなわけで、エチエンヌは仕方なく刑務所内での演劇指導という仕事に就くことになる。

その演劇教室において前任者が選んだ戯曲は、ラ・フォンテーヌ『寓話』だったようだ。たとえば、「ウサギとカメ」の話を記憶して朗読することで、何かしらの教訓的なものを囚人が学べると考えたということなのだろう。足の早いウサギは鈍重なカメを舐めまくっていたけれど、最終的には地道に歩いたカメが勝つわけで、地味な努力こそが必要だとか何とかそんな教訓だ。

それに対してエチエンヌは、囚人たちに与えられた状況そのものから『ゴドーを待ちながら』という題材を選ぶことになる。囚人たちはいつも“何か”を待っている。刑務所という場所は、彼らは本来過ごすべき場所とは違う。何かしらの罪を犯し、刑罰としてそこに入れられているわけで、そこでは自由は制限されることになるからだ。

そんな中で囚人たちは、面会に誰かが来てくれるのを待つのかもしれないし、退屈が紛らせる出来事を待つのかもしれないし、何よりもその刑務所から出所することを常に待ち続けることになる。

そして、エチエンヌもそれは同様だろう。仕事のない彼は、誰かが自分に役を与えてくれることを待ち続けている。エチエンヌは自分がそんな状況だからこそ、“待つ”ということを主題化した『ゴドーを待ちながら』という題材を選んだのだ。

(C)2020 – AGAT Films & Cie – Les Productions du Ch’timi / ReallyLikeFilms – Photo (C)Carole Bethuel

ゴドーとは何か?

サミュエル・ベケットが書いた戯曲『ゴドーを待ちながら』は不条理演劇の傑作と評される。演劇の世界の素人が見ても、たとえばギリシャ悲劇とかシェークスピア作品とはまったく別の演劇であるということはわかるだろう。というのも、『ゴドー』ではほとんど何も起こらないからだ。

『ゴドー』では、ウラジーミルとエストラゴンというふたりの男が登場するのだが、彼らが何をするのかと言えば、ただゴドーが来るのを待ち続けるだけだ。それ以外は何もしない。その場の退屈を紛らわすかのように無駄なおしゃべりを延々と繰り広げるのがこの戯曲なのだ。とにかく破格の作品であることは間違いない。

そして、このゴドーとは何なのか? 誰もが考える解釈としては、ゴドーは「神」だということだろう。神が到来することをふたりは待ち続けることになるわけだが、いつまで経っても神はやって来ない。そんなふうに解釈することは可能だが、作者のベケットはそれを明確に否定してもいるらしい。

言えることはふたりは“何か”を待ち続けている。そして、その待っている“何か”は、最後までやってくることはなく『ゴドー』は終わることになる。そんな戯曲が『ゴドー』なのだ。

※ 以下、ネタバレもあり!

(C)2020 – AGAT Films & Cie – Les Productions du Ch’timi / ReallyLikeFilms – Photo (C)Carole Bethuel

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アクロバチックなラスト

『アプローズ、アプローズ!』は、囚人という社会の落ちこぼれたちが演劇によって成功を収めるという一種のサクセスストーリーとして展開していく。たとえば『フル・モンティ』みたいな作品をイメージしていたし、実際にラスト近くまではそんなふうに進んでいく。ところがラストで「どんでん返し」が起きる。

囚人たちは地元の劇場の公演で成功を収め、最終的にはパリのオデオン座という大きな劇場での公演を迎えるのだが、その大舞台を前にして囚人たちは逃げ出してしまうのだ。先ほどは「どんでん返し」と書いてみたけれど、実際にはある程度はこの展開は予測できるだろう。囚人たちは何度か逃げることを相談したり試みたりもしているからだ(誰かに諭されて逃げることを留まっていたわけだけれど)。

というのも、囚人たちは『ゴドー』を演じることで人気者になったけれど、それでも囚人であることに変わりはない。公演でたくさんのプレゼントを受け取っても、それを刑務所内にそのまま持ち込むことは禁止され、ぬいぐるみの動物は内部に何か入っていないか確認するために惨殺されることになってしまう。

さらには外部から戻った彼らを待っているのは“全身検査”という辱めだった。演劇という文化的活動の後には、結局は社会から隔離するために人権を無視したかのような扱いが待っているのだ。そのことが彼らが逃げ出すきっかけとなっている。

ちなみに本作は実際に起きた出来事をモデルとしている。その当時はまだ原作者のベケットは存命中で、この逃走劇を聞いた時ベケットは大喜びだったという。ベケットが喜んだのは、この出来事がまさに『ゴドーを待ちながら』そのものを体験させてしまうような出来事となっていたからだろう。

『ゴドー』では劇中で何も起きることがない。そんな演劇を観るつもりになっていた観客たちは開演を待ち続けるけれど、そもそも開演すらしないまま――つまりこれ以上、何も起きることがないという状況のまま――お開きを迎えることになる。『ゴドー』という演劇を観るよりも、それをすっぽかされた観客たちこそが『ゴドー』的状況を体験したということになる。ベケットはそれを喜んだということなのだろう。

ただ、それだけでは映画としては尻つぼみのアンチ・クライマックスとなってしまうわけで、それを救うのがエチエンヌということになる。エチエンヌは大舞台に立つことを待っていたわけで、彼にとってはまさにそこが大舞台となるのだ。

エチエンヌが観客に語るべきことは、『ゴドー』の出演者たる囚人たちが逃げ出したということだ。エチエンヌはその責任者として謝罪をしなければならない。これはよくある謝罪会見みたいなもので、その対応を間違えればさらに炎上することになりかねない。そんな大舞台でエチエンヌは一世一代の即興演技を繰り広げる。

彼は囚人たちそれぞれの“人となり”を語り、彼らが逃げ出してしまったことに理解を求めることになる。そして、それは奇跡的にうまくいき、劇場は拍手・喝采ということになる。なかなかアクロバチックではあるけれど、感動的なラストだった(逃走した囚人たちの裏切りを気にする人にはモヤモヤが残るわけだが)。

(C)2020 – AGAT Films & Cie – Les Productions du Ch’timi / ReallyLikeFilms – Photo (C)Carole Bethuel

「待たない」ことは可能か?

『ゴドーを待ちながら』という戯曲は、多くの演劇人に影響を与えているという。日本でもよく名前を聞くような有名な劇団がこの題材に取り組んでいるようだ。私自身はこの演劇そのものを観たことはないけれど、本では何度か読んでいる。よく理解できたとは思えないけれど、色々と考えさせるところがある戯曲なのだということはわかる。

『ゴドー』に関しては様々な解釈があるようだ。そして、その影響を受けた人はそれに関してパロディ作品を作りたくなるのか、そういった作品も多い。たとえば、いとうせいこう『ゴドーは待たれながら』という戯曲を書いている。

これは待たれる側のゴドーを視点とした作品となっていて、『ゴドーを待ちながら』を読んで(あるいは観て)しまったことが、それに対する返答のような作品を生み出したということになる。それだけ何かを語りたくなる作品と言えるのかもしれない(『ゴドーは待たれながら』の巻末にある解説「待つことと待たれること」という社会学者・大澤真幸の文章もおもしろい)。

その意味で私が本作に期待していたのは、『ゴドー』に対する何かしらの新しい解釈みたいなものだったのだが、それはちょっと見当違いだったのかもしれない。そもそも本作は実話をもとにしたものであり、『ゴドー』はその題材でしかないからだ。

囚人たちの『ゴドー』に対する理解は独特で、本来姿を現すことのないゴドーが亡霊のように舞台を歩き回ってしまうという暴挙もあった(このゴドーの姿は『第七の封印』の死神みたいだった)。囚人たちは出所というものを待ち続ける状態にあったわけだけれど、逃走することは「待たない」ということであったのかもしれない。

いとうせいこうは「待つこと」に対して視点を反転させ、「待たれること」を描いたわけだけれど、囚人たちは「待つこと」を完全に否定してしまって、「待たない」ことを選ぶことになる。これもまた突飛な選択ではあったけれど、「ゴドーを待たない」ことも可能であるということを示しているのかもしれない。とはいっても、それがどんな意味なのかはわからないけれど……。

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