原作は『りびんぐゲーム』などの星里もちるの同名漫画。
『淵に立つ』などの深田晃司の監督作品。もともとはテレビドラマとして製作されたものを劇場版に再編集したもの。
カンヌ国際映画祭「Official Selection 2020」に選ばれた作品。
物語
営業マンとして働く辻一路(森崎ウィン)は、ある夜、道に迷ったのかコンビニで地図を広げている女性を見かける。一路は「道案内しましょうか」と声をかけるものの、「車だから」と断られることになるのだが、その女性の車は近くの踏切内で立往生していて、それを一路が助けることに……。
葉山浮世(土村芳)と名乗るその女性の命を救ったことで、一路はその後度々トラブルに見舞われることになる。一路は何度も浮世との関係を絶とうとするのだが、なぜか浮世のことが気になってしまい……。
人間のわからなさ
浮世はどんな女性なのか。捉えどころがない人物であることは確かだろう。トラブルメーカーなのだがそれを自覚してか、すぐに相手に謝罪する。「すみません」と「ごめんなさい」を繰り返し、何度も頭を下げもする。その表情はいかにも申し訳ない風に見えるのだが、借りた金を返すこともないし、一路に会うと逃げ出したりもする。やっていることがちぐはぐで、その意図をつかみかねるのだ。
観客としてはそんな浮世の姿にイライラしながらも、わけがわからないからこそ目を離すことも出来ない。10話まであるドラマを再編集しただけに約4時間という長丁場だが、突拍子もない浮世に翻弄されて最後まで見させられてしまう。
『本気のしるし〈劇場版〉』はもともとはテレビドラマだったわけだが、監督の深田晃司はほかの映画と同様に安易に劇伴で盛り上げることもない。『よこがお』などと同様に、踏切の遮断機や水槽の水の流れや花火などの環境音を効果的に使っていて、映画と同じスタイルを守っている。
ファム・ファタール?
フィルム・ノワール作品なんかによく登場する男を破滅に導く女。そんな女性を“ファム・ファタール”と呼ぶが、本作の一路にとっての浮世もそんな“運命の女”ということになる。
ただ、浮世はファム・ファタールの典型とはほど遠いだろう。典型的なファム・ファタールは男を罠にはめることを意志的に行うのだろうが、浮世が一路を厄介なところへと引きずり込んだとしても、それは浮世の無自覚な行動がたまたまそうなってしまったようにも見えるのだ。
最初の踏切でのトラブルの際には、浮世はすぐにバレる嘘をつく。警察に事情聴取されて、運転していたのは一路だとトラブルを人になすりつけようとするのだ。この時点で浮世が嘘つきで厄介な女であることは明白なのだが、その嘘はすぐにバレることになるわけで、計算高く先を読んでいるわけではない。だからこそ浮世はどうしようもなくだらしない女にも見え、どちらかと言えば如才ない一路にとって助けてやらなければいけない気持ちにさせられるのだ。
地獄を求める気持ち
一路は営業マンとしての成績も悪くないのだろうし、誰からも好かれるような雰囲気がある。だから社内の先輩・細川(石橋けい)とは半同棲状態にあるし、後輩のみっちゃん(福永朱梨)とも関係している。ただ、一路がそれを求めたわけではないのだろう(だからといって一路がクズでなくなるわけではないが)。どちらとの関係も成り行き上そうなってしまっただけで、本当に一路が求めているものとは違うということだ。この点で一路と浮世はよく似ている。ふたりは自分の求めているものが何なのかわからないのだ。
浮世は厄介な女だ。それでも一路は浮世のことが気になって仕方がない。ヤクザ者から借りた金のために売り飛ばされそうになっている浮世を助けてしまう一路は、自分でもそれがなぜなのかわからない。一路は浮世とまだ肉体関係すらないのにも関わらず、浮世のことを放っておけなくなっているのだ。
ヤクザ者の脇田(北村有起哉)は、一路が「地獄を見たいから」そんなことをしているのだと指摘する。細川との半同棲も、みっちゃんとの関係も一路にとっては予想がつくものであり、すでに退屈なものになっている。しかし、浮世とのことはまったく先が想像できないし、トラブル続きで退屈とはほど遠い刺激的な日々になるだろう。脇田は一路がそんなふうに地獄を求める気持ちを見抜いているのだ。
私、いいって言われます
実は浮世は結婚していて、束縛癖のある旦那(宇野祥平)と娘もいることが判明する。そして、不倫相手の峰内(忍成修吾)とは心中未遂も企てている。こうした浮世の過去は、浮世が自らの意志で選んできたものというよりも、浮世の隙が男を誘ってしまったということだろう。
浮世は自分が求めるものがわからないから、男の求めに自分が応じることが自分の求めることだと言い聞かせてきたのだ(浮世の言い方だと「受け入れてくれる人が愛すべき人」ということになる)。自分の存在意義は男から必要とされることであり、自分のようなつまらない女は、弱くてダメな男性のそばにいる時にこそ意味がある。そんな刷り込みがされているのだ。
「私、いいって言われます」などという台詞は男を誘っているとしか思えない言葉だが、それが発せられるのは一路が借金の肩代わりをした後のことだ。浮世はこれまでの経験から一路の行動が「体が目当て」だと判断したからこそ、その一路の求めることに合わせるようにそんな台詞を吐くことになるわけで、その台詞には浮世の主体性の欠如やメンタルの問題こそ読み取るべきなのだろう。
繰り返される追いかけっこ
ラストではそんな浮世が「受け入れてくれる人が愛すべき人」だったのを卒業して、一路のことが好きだと気づき「愛してる」と告白する。その意味では本作は浮世の成長を描いているようにも見える。
それでも浮世のやっていることは窮地に陥った峰内から、窮地に陥った一路へと揺れ動いただけとも言える。優柔不断でフラフラしてしまうのは変わらないのかもしれないのだが、浮世自身は一路とのことを「愛してる」と信じ込んでいるから長らく会えない時期があってもくじけないし、その表情はそれまでになくイキイキしている。
一方、一路は浮世のおかげですべてを失うことになり地獄を見たのかもしれないのだが、最後は再び浮世を受け入れたようにも見える。前半で繰り広げられた追いかけっこは、ラストで立場を逆転させて正確に繰り返される。ふたりの関係も振り出しに戻ったわけで、その関係は懲りずに続いていくということなのだろう。
本作はU-NEXTで配信していたものだが、配信の場合は一定期間なら劇場とは違って繰り返し観ることができる。最初は浮世の理解し難さに翻弄されるばかりだったが、次にあちこち観直してみると別のものが見えてくる気もする。何かしらの罠みたいなものに思えた浮世の嘘(死にかけた回数)も、それなりのわけがあったようにも思えてくるのだ。そんなわけで最初に観た時よりも、浮世の存在が近しいものにも感じられた。
普段の生活でも他人のことが理解できないと思うことは多いけれど、実際にそんな瞬間を映画のように再び繰り返して体験することはできないわけで、やはり人間というものはわからないものとして残るものなのかもしれない。
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