『青くて痛くて脆い』 変わらなきゃという強制

日本映画

原作は『君の膵臓をたべたい』住野よるの同名小説。

監督は『映画 妖怪人間ベム』狩山俊輔

亡くなった友人のために

「他人との距離を意識し、誰も傷つけず、誰からも傷つけられないこと」をモットーにしていた楓(吉沢亮)は、ある日、大学の授業で周囲の空気を読まずに世界平和を訴える秋好(杉咲花)に出会う。楓は秋好をイタい奴と思っていたが、彼女のことを拒むこともできず、彼女が仕出かす突飛な行動に巻き込まれていくことになる。

しかし、今では彼女はもういない。秋好は死んだからだ。そして、彼女と一緒に作り上げた「世界を変える」ためのモアイというサークルは、大人に媚びを売る就活サークルという別のものに成り下がっていた。楓はそんなモアイのことが許せずに、友人・董介(岡山天音)とモアイを潰すことを計画するのだが……。

※ 以下、ネタバレあり!

(C)2020「青くて痛くて脆い」製作委員会

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視点を変えて見ると

叙述トリックで驚かせることを狙っている『青くて痛くて脆い』だが、そのトリック自体はそれほど引っ張るほどのネタでもないので、早々にネタバレしてしまうと、楓は秋好を死んだと語っているのだが、それは嘘だったということになる。

楓は秋好を死んだことにしているが、実は今もモアイの代表なのだ。なぜ楓が秋好を死んだと思いたかったのかと言えば、彼女が自分のことを裏切ったと思い込んでいるからだ。しかし、それは楓の妄想に過ぎない。実はイタい人間は楓のほうだったというのがそれなりにおもしろいところで、シニカルに秋好を見つめていたはずの楓の不甲斐ない姿が明らかになると、あまりのみっともなさに笑えてくるだろう。

理想論を振りかざすイタい女である秋好も、“意識高い”系の就活サークルとなったモアイも、傍から見ればうさんくさいところは多々あるものの、じっくり話を聞いてみればそれなりに真面目なものなのだ。それがうさんくさく見えるとすれば、それはモアイからはじき出された日陰者・楓のひがみがそう見せているだけだったというのがオチと言えばオチとなる。視点を変えてみれば、物事も違って見えてくるというわけだ。

楓は秋好と一緒に作り上げたモアイで、秋好が世界平和のために世の中を変えることを見ていたかったのだろう(と同時に自分とは正反対の秋好に惹かれてもいる)。しかし、途中からモアイに参加した脇坂(柄本佑)など外部の人間が組織を動かすようになると、そこから距離を取るようになる。もちろん秋好は楓のことを気遣っているのだが、楓は自分の気持ちを口に出すことはない。ところが楓はそれにも関わらず、「自分の気持ちを推し測ってほしかった」というイタいことを秋好に求めることになり、秋好から「気持ち悪い」と拒絶されることになってしまう。

(C)2020「青くて痛くて脆い」製作委員会

変わらなきゃ

そんなわけで「青くて痛くて脆い」楓の姿を堪能するのが本作の楽しみ方なのかもしれないのだが、それと同時に「変わらなきゃ」という強制が裏のテーマのようにも感じられた。

映画では森七菜が演じる西山瑞希というキャラが登場する(原作にはいないキャラとのこと)が、瑞希は不登校児のためのフリースクールに通っている。そこへなぜか光石研演じる学校の担任がやってきて、「役立たずになりたくなければ変わらなきゃ」と迫るのだ。

瑞希は野坂昭如の曲「サメに喰われた娘」を嬉々として歌って楽しんでいるのだが、そんなことではダメだとするのが担任なのだ。担任は瑞希を引き回し、簡易プールに突き落として泥まみれにし、瑞希に自己変革を強制しようとするのだ。およそリアリティに欠ける異様なまでのパワハラ行為だが、そんな強制力が社会にはあるということなんだろうと推察する。

考えてみれば本作では誰もが変化を余儀なくされている。モアイに入った川原理沙(茅島みずき)は、本当の自分を貫くことにこだわってしまうことを反省している。川原は松本穂香演じるポンちゃんのように時と場合で自分を変えられるようになりたいと考えている。というのは、そのほうが生きやすくなるからかもしれない。

また、大学に入ってまでの理想論を振りかざしていた秋好も、モアイを大きくするという計画のために、世界を変えるという壮大な目標を一旦おいて、現実的な手段に訴える。秋好は社会の中で優位な地位に就くことを目指し、モアイを就活サークルへと変えることになるわけで、秋好もまた変わることを余儀なくされていると言える。

そして、最後まで意固地になって変化を拒んでいた楓だが、自分は変わることはできないと語りつつも、ラストで秋好に告白することを選択する。もともとの楓のモットーは「他人との距離を意識し、誰も傷つけず、誰からも傷つけられないこと」だったにも関わらず、最後はフラれて惨めになることも厭わず、秋好のところへと向かっていくわけで、楓も変わることを余儀なくされている。というよりも変化することを積極的に肯定していることになる。つまりは本作では光石研が演じたキャラが押し付ける「変わらなきゃ」という社会的強制力を最終的に肯定しているように見えるのだ。

(C)2020「青くて痛くて脆い」製作委員会

遠回りしつつ……

“意識高い”系のサークルとか、ある種の宗教団体とかが時に気味悪く映るのは、みんなが一様な存在に見えるからだろう。本来、人は多種多様であり、一様になるなんてことはあり得なさそうなのに、そこではみんなが嬉々としてそのグループの一員であることを演じているように見えるのだ。

“意識高い”系のサークルというのは一種の自己啓発セミナーのようにも思え、自己啓発とはこの場合は自己変革であり、何のために自分を変えるのかと言えば、社会に役立つ人間になるためなのだろう。

つまり本作は、秋好や“意識高い”系のサークルの連中は、真っ直ぐに自己変革へ向かい、素直に社会に役立つ人間になっていき、楓のような日陰者で屈折した人間は、何度も回り道をし、失敗を繰り返し、遅ればせながら最終的には同じところに辿り着くことになることを示しているのかもしれない。結局は楓のような人間も遠回りをしつつ、自分を変え、社会的に役立つ人間へと成長していくことになるわけだ。

あれだけスカしていた楓が必死になって秋好のところへ走っていく様子を見ていると、極めて真っ当で説教臭い話に堕ちてしまったような感じもした。そんなまどろっこしくて子供っぽい成長譚を誰が見たいのだろうかと思えてしまった。とはいえこうした感想も、楓が秋好に勝手なことを期待していたのと同様のイタい振る舞いなのかもしれないのだが……。

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