『みかんの丘』 民族って何のこと?

外国映画

日本では2016年に『とうもろこしの島』と同時に岩波ホールで公開された。

監督はジョージアのザザ・ウルシャゼ。原題の「Mandariinid」はマンダリンでみかんのこと。

現在はU-NEXTにて配信中。

ひとつ屋根の下に敵同士が

舞台はアブハジア内のみかんの丘。ある日、イヴォ(レンビット・ウルフサク)の家の近くで戦闘が起き、何人かが死に、ケガをした兵士がそこに残される。イヴォはその死体を葬り、ケガ人を家に運び込んで看病することになる。ところが困ったことには、運び込んだケガ人の二人は敵同士で、ついさっき殺し合ったばかりという関係なのだ。

一命を取り留めた兵士二人だが、ケガが回復すると仲間を殺した仇討ちとばかりに、相手に食ってかかるような有り様だ。家主のイヴォは「自分の家の中で殺しは許さない」と言い渡し、命を救われたケガ人の二人も恩人の言うことを無視するわけにもいかず、家の中では殺さないと約束することになるのだが……。

『みかんの丘』

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アブハジア紛争

先日取り上げた『とうもろこしの島』と同様のアブハジア紛争が本作でも描かれるわけだが、『みかんの丘』の登場人物の複雑な関係性は、ジョージア(グルジア)とアブハジアの歴史について知っておく必要があるだろう。

主人公のイヴォはエストニア人で、彼らは約100年ほど前にアブハジアにやってきて、そこに住み着いた。しかし、1991年にソ連が崩壊しジョージアが独立すると、その中で独自の民族意識を持っていたアブハジアも独立を目指すことになるのだが、ジョージアはそれを認めずにアブハジア紛争に発展してしまう。

紛争が始まるとほとんどのエストニア人は故郷へと帰ってしまうのだが、イヴォはその土地に残る。その理由は最後に明らかになるが、今その土地に残っているのは、イヴォとマルゴス(エルモ・ヌガネン)の二人だけだ。マルゴスがみかんを作り、イヴォは出荷のためのみかん箱を作っているのだ。

そのイヴォが助けることになる二人の兵士は、一人がジョージア人のニカ(ミハイル・メスヒ)で、もう一人がチェチェン人の傭兵アハメド(ギオルギ・ナカシゼ)だ。チェチェンはアブハジアの支援国で、アハメドはアブハジアの味方ということになる。アブハジアに住んでいるエストニア人のイヴォも当然アブハジア側の人間ということになるが、中立の立場にいるのか敵も味方も関係なく、ケガ人を助けることになる。こうしてひとつ屋根の下に敵同士が一緒に暮らすという珍しい状況が生まれることになる。

二人の言い分は?

ジョージアには独自の文化や言葉があり、同じようにアブハジアにも独自の文化や言葉がある。それを一緒くたにすることはできないし、自分たちが保持してきた伝統を守るべきと考えたからこそ、アブハジアのアブハズ人たちはジョージアからの独立を宣言したということなのだろう。

しかし一方でふたりが罵り合うのは、それぞれが別の教えを受けてきたからにも思える。ジョージア人のニカは、ジョージアの正しい歴史を学んだという自負からアハメドを嘲笑する。一方のアハメドは、アブハジアという小さい隣国を蹂躙するかのような悪魔的行為をジョージアに見い出し、自分が正義の立場でアブハジアを支援していると信じている。

歴史に疎い私にはどちらが正しいのかわからないが、それぞれが支配者の言説によって操作されているようにも感じる。

『みかんの丘』

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イヴォの問い

そうしたニカとアハメドの諍いに対して、イヴォは「一体何の違いがある?」という疑問を投げかけることになる。二人は民族の違いにこだわり、相手を殺そうとまでするわけだが、二人の人間の間に「一体何の違いがある?」と問いかけるのだ。

イヴォは息子をジョージア兵に殺されたにも関わらず、戦闘によって死んだジョージア兵・ニカを息子の隣に埋葬する。イヴォは言葉少なだが、その行動が信念を示している。紛争によって殺し合うことになった若者たちだが、実際は「何も違わない」わけで、だからこそ一緒に埋葬することが正しい葬り方だと考えるのだ。

90分ほどの短い作品ながら明確なメッセージがあり、孫娘を愛しながらも亡くなった息子のためにみかんの丘に留まり続けるイヴォの信念を貫いた生き方は感動的ですらあったと思う。

実は監督のザザ・ウルシャゼは、この決定的な作品だけを遺し、昨年心臓発作で亡くなったのだとか。劇中では紛争後の普通の生活に思いを馳せるシーンがあったが、ジョージア人であるザザ・ウルシャゼ監督も紛争がなければもっとほかの映画を撮ることもできたかもしれないのに……。

民族問題について

『みかんの丘』で描かれた民族問題に関する問いかけは、ユダヤ人とアラブ人の子供の取り違えが引き起こす『もうひとりの息子』にも見られたものだが、日本という島国に単一の民族という意識(現実はそうでなくとも)で過ごしているわれわれ日本人にはわかりづらい面もある。そんなわけでいくつかそうした題材の本を読んでみたのだが、とてもわかりやすかったのが佐藤優『民族問題』という本で、ついでにこれを紹介しておきたい。

この本では民族問題を二つの考え方で整理している。「原初主義」と「道具主義」というものだ。民族には原初に遡れる根本的な何かがあるとする考え方を「原初主義」と呼んでいる。たとえば言語や文化や生物学的な人種や土地など、それぞれに固有のものがあるとするものだ。この考え方は民族という言葉を聞いた時に、一般の人が抱くイメージと合致しているわけだが、学問的には否定されているのだとか。そもそも民族という考え方自体が、せいぜい250年程度しか遡ることができない、比較的最近のものなのだ。

もう一つの「道具主義」は、「民族というものは、作られたものだ」と主張する立場だ。『みかんの丘』のニカとアハメドは互いを批判していた。ニカは「歴史を学んだことがないのだろう」と挑発し、アハメドは「ジョージアという悪魔から小国(アブハジア)を守る」と宣言する。それぞれが自分の側が正しいという教えを吹き込まれてきているということになるのだろう。

先ほど「原初主義」の考え方は学問的には否定されていると記したが、「道具主義」的な考え方のほうが学問的には優勢なようだ。しかし、佐藤優はそれにも注意を促している。というのも、支配者が自分の都合で政治的に民族を形成しようとしても、何もないところに民族は形成されないからだ。「日本をつくり出している日本人性というのは、政治意識から離れたところでも文化として存在していて、それがないところでは、いくら政治的、人工的に民族をつくろうとしても、民族は生まれない」のだという。

民族というものは原初に遡れる固有の何かがあるわけでもないし、支配者が政治的に操作して生まれてくるものでもないということになるわけで、やはり民族問題を理解するのは簡単なものではなさそうだ。

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