監督はギオルギ・オヴァシュヴィリ。
日本では2016年に公開されたジョージア(グルジア)映画。『みかんの丘』と同時に岩波ホールで公開された。
アカデミー賞の外国語映画賞ジョージア代表に選出された作品。
現在はU-NEXTにて配信中。
川の中州にとうもろこし畑を
コーカサス山脈から黒海へ注ぐエングリ川は
毎年春の奔流で土砂を運び中州を作る
そして農家は水浸しの土地を捨て
土壌が肥沃な新しい中州へ移る
そこで春から秋にかけてとうもろこしを栽培し
長く厳しい冬を越す食糧にする
冒頭に上記の字幕で背景の解説があるのだが、その後に映画が始まるとほとんど台詞はなく映像のみで進行していく。
小船に乗って現れた老人(イリアス・サルマン)が中州に降り立ち、そこに自分の痕跡を残すかのように杭を立てる。その後、孫娘(マリアム・ブトゥリシュヴィリ)も手伝いにやってきて、ふたりで中州に小屋を建てることになる。柱を立て、壁を作り、屋根を葺く。そうして小屋ができると、中州の土を耕し、そこにとうもろこしを植える。それが次第に成長し、秋ごろには中州の一面が背丈以上のとうもろこしでいっぱいになる。
普段は物語性のない映画に当たると退屈を感じたりもするのだけれど、ドキュメンタリーのように知らない土地の生活を垣間見ることのできる映画はなぜだか退屈しない。たとえば『木靴の樹』のような作品が代表的かもしれないが、見知らぬ場所の美しい風景が流れているだけで物語などどうでもよくなるのかもしれない。
初めてその中州の島に立った老人が、その島の広さを確かめるかのように大股で歩幅を測るように歩き始めると、カメラはそれを川の上からの横移動で捉えていく。それだけのシーンなのだが、とても惹き込まれるものがある。その後も老人はのんびりと作業を続けるわけだが、ゆったりとした時間が心地よく流れていくのだ。
紛争の影
『とうもろこしの島』は、そんなふうに自然のなかで生活する人を描いているわけだが、背後には紛争の影が感じられる。本作の舞台となるエングリ川は、ジョージアとアブハジアの間を流れる川で、アブハジアはジョージアからの独立を主張しているために、両者の間では1992年以降紛争が続いているのだとか(追記:1994年には停戦合意したが、事態が大きく変わったわけではなく緊張状態が続いているらしい)。畑を耕していると、遠くで散発的な銃声が聞こえるし、銃を抱えた兵士たちが中州の近くをボートで通り過ぎていく。
アブハジア人の老人はそんな紛争には知らんぷりで、ケガをして逃げてきた敵側のジョージア兵(イラクリ・サムシア)を匿ったりもする。アブハジアの兵士に見つかるとマズいことになるのは明らかだが、そのとうもろこしの島は自分の土地だからという意識なのかもしれない。というのも、孫娘が老人にこの島はジョージア人の土地なのかと訊くと、老人は「耕す者の土地だ」と答えるからだ。
映画のラストではとうもろこしの島は、紛争のせいではなく自然の力によって流されてしまうことになる。しかし、時が経ち再び中州が形成されると、別の人物がそこに現れる(この人物はアブハジア人なのかもしれないし、ジョージア人なのかもしれない)。かつて老人は中州の土の中から掘り出した物をいつも大切に持っていたのだが、新しくその中州に現れた人物は老人の孫娘が抱えていた人形を見つけることになる。その土地を通じて何かが継承されていくということを示しているのかもしれない。
ジョージアとアブハジアの紛争は領土問題というよりは、民族問題を孕んでいるようだが、川を挟んで対立している国とは別に、そこに生きている人たちは「土地はそれを耕す人のもの」という単純なルールで昔からやってきたということなのだろう。
少女の異物感?
本作は紛争地帯での生活を描くことが中心となるわけだが、それと同時に少女の成長を追う映画でもある。老人とふたりきりで暮らす孫娘は、すでに両親を亡くしている。それはなぜなのかは触れられないのだが、老人は孫娘が学校から無事に卒業することを願いつつ育てている。老人は島でのとうもろこしの育て方をはじめ、川での魚の獲り方やその捌き方・干物にする方法など、生きていくために必要な技術を教えていく。
本作で描かれるのは、中州に島ができた春の初めから秋にとうもろこしを収穫するまでという短い期間なのだが、孫娘はその間に急に大人びて見えるようになる。それは孫娘が初潮を迎えたということもあるのだろうし、島の周囲を行き来する兵士たちの視線が「見られる性」を意識させたからでもあるだろう。
最初に人形を抱えて中州に現れた孫娘は、そばかすが目立つ子供っぽさを感じさせたのだが、それが秋になり傷ついた敵兵を匿っている時には、その兵士を弄ぶほど異性を意識しているのだ。
紛争地帯での生活を描くこの作品においては、少女のエロティシズムはちょっとした異物にすら感じられる。オヴァシュヴィリ監督はネットでマリアム・ブトゥリシュヴィリの写真を見つけてキャスティングしたらしいのだが、彼女は大人の女性と少女との狭間にいるような微妙な年頃で、その成長過程をフィルムに残したくなり孫娘のエピソードが増えたんじゃないかと推測するのだがどうだろうか?
多分、孫娘を演じたのがもっと幼い少女だったとしたら、ほのぼのとしつつも紛争地帯での生活が際立つものになったのだろうが、かえって物足りないものを感じたかもしれない。本作では少女の身体をまるで覗き見しているかのような視点で撮っているだけに、余計にいけないものを見てしまっているかのような気持ちになってくる。テーマからはみ出してしまうような少女のエロティシズムだが、それがあるからこそあやしい魅力を感じさせる作品になっているようにも思えた。
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