『ポルトガル、夏の終わり』 末期の目に映る夕陽

外国映画

監督は『人生は小説よりも奇なり』などのアイラ・サックス

原題の「Frankie」は主人公の愛称。

ポルトガル観光映画?

『ポルトガル、夏の終わり』の舞台は、ユーラシア大陸の最西端にあるロカ岬近くのシントラ。その海岸沿いはとても絵になるし、町並みも美しい。有名なお菓子や奇跡の泉といった観光スポットらしき場所も登場する。“リンゴの浜”と呼ばれる海岸は、アダムがイブを誘惑したところとされるらしいし、シントラという町自体も“この世のエデン”と称されるほど魅惑的な場所だ。その意味では、この映画を鑑賞しただけでバカンスにでも行ったような気分を味わえる映画とも言える。

本作では主人公の女優フランキー(イザベル・ユペール)が、自分の死期が近いことを悟り、夏の終わりのバケーションとして家族や友人たちをポルトガルへ招待する。それでも、ある場所にみんなを呼び寄せてそこで何が起きるのかと待ち構えていると肩透かしを食らうことになる。本作は、その会合が設定された日の朝から始まり、日が沈むところで終わることになるのだが、予想していたような愁嘆場のようなものはなく、極めて静かに、もっと言えばほとんど何事もなく過ぎていく会話劇となっているからだ。

(C)2018 Photo Guy Ferrandis / SBS Productions

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フランキーの思惑

フランキーは間近に迫っている自分の死については達観しているのか、悲痛な姿をほとんど見せることはない。にも関わらず、自分が死んだ後の周囲のことは気になるようで、その懸念がわざわざみんなをポルトガルまで呼び寄せることになる。

フランキーの懸念とは遺産のことだったり、未だに別れた彼女のことを断ち切れない息子のポール(ジェレミー・レニエ)のことであったりする。そして、息子の嫁には自分の友人であるアイリーン(マリサ・トメイ)が適当だと考え、わざわざ家族の集まりにも彼女を呼び寄せ、ポールに引き合わせることを画策してもいるのだ。

(C)2018 Photo Guy Ferrandis / SBS Productions

人生はままならぬ

本作は主演であるイザベル・ユペールが、アイラ・サックス監督の2014年の作品『人生は小説よりも奇なり』を気に入り、監督にオファーして実現したという作品。アイラ・サックスはイザベル・ユペールを念頭にこの脚本を完成させたというだけあって、主人公はフランキー≒イザベル・ユペールと思えるようなキャラクターになっている。

そのフランキーは世界的に知られている大女優で、周囲に高慢な態度を取るわけではないのだが、家族に対しては自分がすべてをコントロールしているような感覚を抱いているようでもある。息子のポールに女をあてがうというのがそのいい例だが、前夫のミシェル(パスカル・グレゴリー)には「君が世界の中心じゃない」などといさめられたりもする。

そんなフランキーの思惑がどうなるのかと言えば、まったく当てが外れることになる。アイリーンとポールがいい感じになることもなかったし、ポールに譲ろうとしていた高価なブレスレットはポールの怒りで投げ捨てられてしまう。

また、フランキーだけではなく、ほかの登場人物たちの思惑もことごとく外れることになる。アイリーンの彼氏は、ポルトガルの地でアイリーンにプロポーズするものの断られることになるし、フランキーの前夫ミシェルは彼女を愛していて離婚など考えたこともなかったのに、実は自分が同性愛者だと気づいたのだという。

ちなみにイザベル・ユペールが気に入ったという『人生は小説よりも奇なり』を一言で要約するとすれば「人生は奇なり」というよりは、「人生はままならぬ」といった感じになるだろう。人生は思惑通りにはいかないというのが、アイラ・サックスの作品なのかもしれない。

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末期の目に映る夕陽

ラストの会合場所に設定されているのはペニーニャの山という神聖な場所で、そこに登場人物が一堂に会することになるのだが、このシークエンスでのフランキーの視線は何となく「末期まつごの目」というものを思わせて印象深いものがあった。

「末期の目」というのは、自殺する前の芥川龍之介が書いた「或旧友へ送る手記」(これは友人に宛てた手紙らしい)に登場する言葉だ。

ただ自然はこういう僕にはいつもよりも一層美しい。君は自然の美しいのを愛し、しかも自殺しようとする僕の矛盾を笑うであらう。けれども自然の美しいのは僕の末期の目に映るからである。

「末期の目」というのは、端的に言えば死を意識した人の目ということだろう。本作のフランキーの視線もそういうものを感じさせるのだ。

フランキーはひとりで山を登り、途中で後ろを振り返り、後に続く夫のジミー(ブレンダン・グリーソン)とアイリーンの姿を眺める。そのふたりはフランキーという大事な人を亡くそうとしていて、その悲しみを共有している点で親密になっているのだ。それを見るフランキーの視線は、すでに自分が居なくなった世界を眺めているようにも見える。

フランキーはアイリーンを息子のポールと結びつけようと画策したわけだが、もしかするとアイリーンは現在の夫であるジミーと連れ添うことになるのかもしれない。アイリーンはそんなふうに自らの思惑が外れたことを悟るわけだが、そのフランキーの姿をさらに上から見守っている人がいる。それが前夫のミシェルだ。ミシェルは家族とは一歩離れた形でフランキーを見守っているわけだが、そうした視線のリレーはさらに続き、登場人物すべてを上空から捉えたカットが最後のカットとなる。それは「神の視線」というよりも、まるで天国からフランキーが「末期の目」で見守っているかのようにも感じられるのだ。

(C)2018 Photo Guy Ferrandis / SBS Productions

さらなる連想

そして、このラストで私が想起したのはベルイマン『第七の封印』の死神が人々をさらっていくシーンだ。『第七の封印』では丘の上の空をバックに死神に連れられた人々が踊りながらついていくことになるわけだが、本作では山の向こうに海が見える場所にみんなが勢揃いする。どちらも山の稜線に登場人物が連なる点が共通している(山の向こう側に見えるのが空か海かの違いはあるのだが)。

しばらく佇んだ後にフランキーに率いられて、みんなは山を下りることになる。フランキーは死神ではないから黄泉の国にみんなを連れ去るわけではないが、人がひとり亡くなることは、そんなふうに周囲の人々にも影響を与えずにはいないということを示しているようでもあった。フランキーの前夫のミシェルが、現在の夫であるジミーに「フランキーの後は、物事が変わる。人生が変わるんだ。」と語っていたように、彼女の喪失は周囲の者たちにとって大きな痛手となるのだろう。

芥川龍之介は「末期の目」に映る自然はより一層美しいと記したわけだが、本作のラストの夕陽を照り返す海の光景も限りなく美しいシーンだったと思う。

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