原作はマーティン・エイミスの同名小説。
監督・脚本は『アンダー・ザ・スキン 種の捕食』などのジョナサン・グレイザー。
アカデミー賞では国際長編映画賞・音響賞の2部門を獲得した。
原題は「The Zone of Interest」。
アウシュビッツの隣で
物語らしきものはない。ただ、ある家族の日常が描かれるだけの映画だ。だから「あらすじ」的なものをまとめようとしても、まとめようがないということになる。というのは本作は「設定がすべて」とも言えるからだろう。「アウシュビッツ収容所の隣で幸せに暮らす家族がいた」とキャッチコピーにあるように、その設定で押し切る作品なのだ。
最初にこの設定を知った時には、具体的な中身のことは知らず、自分の家の隣にアウシュビッツ収容所を建てられてしまったポーランド人の話なのかと勘違いしていた。ところが、『関心領域』で描かれる家族というのはドイツ人であり、ルドルフ・ヘスというアウシュビッツの所長の家族だったのだ。ルドルフ・ヘスは実在したアウシュビッツの初代所長で、隣にプール付きの豪邸を建てて家族を呼び寄せたということなのだろう。
劇中に描かれるその邸宅は、まるで楽園みたいに見える。敷地内には温室もあり、庭には数々の花々が咲いていて風景を彩っている。奥様のヘートヴィヒは、夢にまで見ていたものが実現したと喜んでいる。とても優雅で贅沢な生活が描かれるわけだが、ただひとつ異常な点があって、それがその邸宅がアウシュビッツの隣にあるということなのだ。
壁の向こう側の音
本作の音楽はミカ・レヴィが担当している。『アンダー・ザ・スキン』でも印象的な劇伴を聴かせてくれた人だ。ただ、本作は劇伴というものはごく限られた部分でしか使われておらず、それ以上に音響効果のほうに配慮がなされている。
冒頭では長い暗闇の中でミカ・レヴィの劇伴が流れることになるのだが、それが段々と不協和音を醸し出すようになっていき、湖が見える美しい風景が現れることになる。そこでピクニックを楽しんでいるのが、本作の主人公であるルドルフ・ヘス(クリスティアン・フリーデル)とその家族たちということになる。
描かれるのはヘス一家の日常の風景だ。子供たちも多く、みんな自分の家の異様な状況など知らずにスクスクと育っているようにも見える。それでもヘス家の隣にはアウシュビッツ収容所があるわけで、観客としてもその生活のあり様を安穏として見守ってはいられないような気持ちにもなってくる。
冒頭で森の中から聞こえてきたのは、キツツキが木を叩く音のようにも感じられたのだが、もしかするとそれはマシンガンの銃声だったのかもしれない。壁の向こうから聞こえてくる声も、隣が学校だったとしたら子供たちの賑やかな声に感じられなくもないのだが、実際には死の間際のユダヤ人の叫び声なのかもしれないのだ。
本作ではアウシュビッツ収容所の内部は、一部の例外を除いて描かれない。壁の向こう側から聞こえてくる音で、そこで一体何が起きているのかということを推測するしかない。日常の風景に交じり合って漏れ聞こえてくる音に耳を澄ますことが求められる映画なのだ。
だから本作は壁の向こう側で何が起きているのかを想像する力と、ある程度の前提となる知識が必要とされることになる。アウシュビッツ収容所で何が起きていたのかを知らなければ、本作は全く意味がわからない映画になってしまうことになるのだ。
「関心領域」とは?
タイトルである「関心領域」という言葉は、第2次世界大戦中、ナチス親衛隊がポーランド・オシフィエンチム郊外にあるアウシュビッツ強制収容所群を取り囲む40平方キロメートルの地域を表現するために使った言葉らしい(公式サイトには何とも記載されていないけれど)。もともとはナチスが使っていた隠語ということだが、本作の中身ともピッタリとハマっている気もする。
人の関心というものは様々で、人によって関心を抱く領域は変わってくる。ルドルフ・ヘスの奥様ヘートヴィヒ(最近の『落下の解剖学』でもインパクトありだったザンドラ・ヒュラー)の場合は、今の生活を守ることがすべてだったのかもしれない。ヘートヴィヒは「アウシュビッツの女王」などと呼ばれることを喜んでいて、その生活を楽しんでいる。
ヘートヴィヒが受け取った毛皮のコートは、恐らく収容所に入れられたユダヤ人から奪ったものであるわけで、その持ち主がどんな運命を辿ることになるかと考えれば平気ではいられないはずだ。ところがヘートヴィヒは鈍感なのか、その点には全く無関心でいられるのだ。
ヘートヴィヒの母親は、娘の境遇を「運がいい」などと評していたけれど、隣から聞こえてくる音に耐え難くなったのか、早々にその邸宅を去ることになる。常識的な感覚の持ち主ならば、アウシュビッツの隣でのうのうと生きていくことは無理な話なのだろう。
ヘートヴィヒはもちろん壁の向こう側で何が行われているかを知っている。使用人には「灰にして撒き散らすよ」などと脅しているわけで、ユダヤ人の虐殺を知りつつも、それが自分と家族の利益となるならば平気なのだろう。彼女の関心は自分の家を守ることだけであり、その壁の向こう側で何が起きていようが関係ない領域の話ということになるわけだ。
悪の凡庸さ?
それに対してルドルフ・ヘスの場合は、もっと直接的にユダヤ人の虐殺に関わっている。作戦には自分の名前までが付けられることになった功労者でもある。その点で目を背けられない部分がある。ルドルフはその作戦が決まった夜、原因不明の嘔吐に襲われることになる。
ここでおもしろいのは、それをもたらすのが未来からの視線のように描かれているところだろう。ルドルフは闇の奥に未来のアウシュビッツの姿を幻視してしまうのだ。そこではすでにアウシュビッツは世界遺産として保存された状態にあり、多くの観光客に公開される状態になっている。
ルドルフは未来の人たちから自分がどんなふうにジャッジされるかということに想いを馳せたのだろうか。そして、その未来の視線からすれば、ルドルフは残虐な戦争犯罪人ということになることが明らかであるわけで、だからこそ嘔吐せざるを得なかったということなのだろう。
ルドルフは上から来た命令に従っただけなのかもしれない。アイヒマンがユダヤ人をいかに効率よく収容所へ運搬するかという点に尽力したように、ルドルフはいかに効率よくユダヤ人を焼き尽くして処分するかという点に尽力した。そんな点でルドルフもアイヒマンと同じで、「悪の凡庸さ」という決まり文句が当てはまる小役人ということになる。
ルドルフは「命令に従っただけ」という言葉で、自分がしたことから目を背けようとしていたのかもしれない。ところが未来からの視線はそれを直視させる。博物館となった収容所には、髪の毛の山や、靴の山が残されている。それは信じ難いほどの大きな山として積み上がっていて、ルドルフがどれだけのユダヤ人を虐殺したのかという点をまざまざと体験させるのだ。
真っ当なメッセージ
本作にはサーモグラフィが用いられたモノクロのように見えるシーンがある。ここではポーランド人の少女がユダヤ人の労働者に分け与えるつもりで、土の中にリンゴを隠している。ジョナサン・グレイザー監督はこのシーンの狙いについて、「倫理的にも、ビジュアル的にもその他のシーンとは対照的なもの」にしたかったと語っている。
対照的なのは、ユダヤ人の持ち物を奪っても平気でいられるヘートヴィヒと、自分は無関係にも関わらずユダヤ人に対して同情的に振舞う少女ということになる。一方は関心の領域がごく狭く限られており、もう一方は関心の領域が広いということになる。倫理的な対照性があるということだ。本作は当然ながら、関心の領域を広げなければならないと訴えている。
もちろん誰もがこのポーランド人の少女のようになれるわけではないのだろう(ちなみにこの少女は実在の人物をモデルとしている)。ホロコーストに関わった人のインタビュー集である『SHOAH ショア』では、傍観者の立場となったポーランド人の証言がいくつも登場する。ポーランドとしてもドイツに占領されている立場ということもあったわけで、アウシュビッツで行われていることを知りつつも自己保身のために何も言えなかった人も多かったということだ。
『関心領域』が訴えるのは、それではいけないということだろう。自分の狭い関心だけに留まっていては、アウシュビッツと同じことが起きてしまうということなのだ。ジョナサン・グレイザー監督は、本作で描かれていることはガザで起きていることと同じだと明確に語っている。
ガザで起きていることは、アウシュビッツとはユダヤ人の立場が逆転しているところが皮肉と言えば皮肉だが、壁の中が見えないからと言って無関心でいることは、同じような悲劇を繰り返すことになるということなのだ。メッセージとしてとても真っ当で、だからこそアカデミー賞でも評価されたということなのだろう。
本音を言えば……
そんなふうに書いてはみたけれど、上記にはかなりタテマエが交っている。全部がそうではないけれど、本音とは言えない部分もあるということになる。設定は確かにおもしろい。ただ、それだけで2時間を押し切るほどだったかと言えば、そんなふうには思えずに退屈と感じられるところもあった。
人はアウシュビッツの悲劇を見たいと思うだろうか? 久しぶりに『夜と霧』というアウシュビッツのドキュメンタリー映画を観てみたのだが、やはりその映像は衝撃的でおぞましいものがあった。累々とした死体の山がブルドーザーで押しやられる場面なんかを見ていると、悪い冗談としか思えないくらいで、改めて「見なきゃ良かった」と思うくらいの衝撃があった。
それでも実際にアウシュビッツの中で起きていたことはそんな現実だったということなのだろう。だからこそ『サウルの息子』では、ゾンダーコマンドとなった主人公は自分を視野狭窄に追い込まなければ生きていくことができなかったということになる。とても直視し難いような光景が、アウシュビッツの中には広がっていたということだ。
その意味で言えば、『関心領域』はアウシュビッツの中を映すこともなく、その恐ろしさを仄めかしていたわけで、うまいやり方だったのかもしれない。とはいえ、矛盾するようだが、本作は結局最後まで壁の向こう側は隠されたままで終わるわけで(未来の場面は例外だけれど)、「設定ありき」に思えたというのが正直なところ。隠されると見たくなるのが人情というものだろうか?
ジョナサン・グレイザーの前作である『アンダー・ザ・スキン 種の捕食』は、結構意味不明なシーンが展開していくけれど、ラストであられもないその謎の中身を見せてくれる。そんなところが良かったのだけれど、如何せん本作は「あざとさ」みたいなものがあるのかも。だからこそ全面的に肯定できない気持ちになってしまうのかもしれない。
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