監督・脚本は『愛欲のセラピー』などのジュスティーヌ・トリエ。
共同脚本には『ONODA 一万夜を越えて』などのアルチュール・アラリ。
カンヌ国際映画祭ではパルム・ドールを獲得した。
原題は「Anatomie d’une chute」で、英語のタイトルは「Anatomy of a Fall」。
物語
人里離れた雪山の山荘で、男が転落死した。
はじめは事故と思われたが、次第にベストセラー作家である妻サンドラに殺人容疑が向けられる。
現場に居合わせたのは、視覚障がいのある11歳の息子だけ。
証人や検事により、夫婦の秘密や嘘が暴露され、登場人物の数だけ<真実>が現れるが──。
(公式サイトより抜粋)
自殺か? あるいは殺人か?
人里離れた雪山の山荘で男が死んだ。転落死だ。なぜ男は死んだのか。間違って落ちたとは考えにくい状況ということもあり、自殺ということが考えられる。ただ、頭部には傷があり、殺人という可能性も否定できない。男の妻サンドラ(ザンドラ・ヒュラー)はその時は別室で寝ていたらしい。発見したのは男の息子・ダニエル(ミロ・マシャド・グラネール)だが、ダニエルは視覚障害者であり、何も目撃していないことになる。一体、その山荘で何があったのか?
『落下の解剖学』はそんな謎を追う法廷ドラマとなっているわけだが、法廷で明らかにされるのは殺人事件の謎というよりは夫婦の問題ということになる。検察側としてはサンドラが旦那を殺したということを示したいわけで、そうなると夫婦関係が危うかったことが取り上げられることになるからだ。
冒頭のサンドラとある女性のやりとりは不思議だ。サンドラが腹に一物抱えた人物であるかのように見えるのだ。サンドラは作家で、女学生はサンドラからインタビューをして記事を書きたいらしい。ところがサンドラは質問をはぐらかし、なぜかその学生自身のことを知りたがることになる。
そして、途中から上の階で大音量の音が鳴り出し、インタビューを邪魔することになる。明らかに嫌がらせと思わせるほどの音量なのだ。ところがサンドラはその音楽をかけている旦那に何も言おうとはしない。旦那には何も言えないような関係なのか、そのあたりはわからないまま、結局インタビューは中止になり、二人はまた会うことを約束して別れることになる。それからしばらくして旦那は死ぬことになったのだ。
裁判で問われること
サンドラは逮捕される。警察は前日に起きていたサンドラと旦那のケンカの録音データを持っていたからだ。旦那の頭には傷があった。その傷は落下した時、下にあった物置にぶつかってできた傷なのか、あるいは転落する前にできたものなのかが焦点となる。
さらにはその物置の側面についた血痕の問題もある。これも殴られた時にできたのか、あるいは転落して物置とぶつかった時にできたのかが焦点となる。しかしながらこれらはどちらも決定的な証拠にはならない。可能性としてはどちらも「まったくない」とは言えないからということになる。
裁判で真実を明らかにする。そんな言い方がされることも多いわけだが、本作によればそれは不可能ということになる。裁判で争われているのは、真実そのものではないのだ。
もちろん旦那は何が起きたかを知っていただろう。それでもすでに彼は亡くなってしまっている。サンドラももちろん自分が殺したかどうかは当然わかっているはずだ。ただ、万が一サンドラが殺していたとしても、自分の身を守るために、嘘をつくことになる。あるいは殺していなかったとしても、当然、「殺していない」と言うことになるわけで、どちらにしても何が真実なのかをほかの人たちが知る術はないということになる。
しかしながら、本作では最初の段階ですでに結論めいたことは言われている。サンドラは友人でもある弁護士ヴァンサン(スワン・アルロー)に助けを求める。サンドラはヴァンサンとの会話の中で「私は殺してない」と告白するけれど、ヴァンサンは「そこは重要ではない」というのだ。では何が重要かと言えば、「人の目にどう映るか」ということのほうだ。裁判で裁かれるのは結局のところはそういうものであり、検察側と弁護側でどちらが説得力のある物語を語ることができたのかということに過ぎないということだ。
そして、裁判官と参審員たちがそれを判断することになる。真実はともかくとして、どちらの話が尤もらしかったのか、説得力があると感じられたか、そういうことが問われているということなのだ。本作では最後に裁判の結果が示されることにはなるけれど、それによって真実が明らかになるわけではない。ただ、参審員たちの目にはそちらの物語のほうが説得的だったということに過ぎないのだ。サンドラが殺人を犯していたのかもしれないし、そうではないのかもしれない。それらについてはわからぬままという終わり方をすることになるのだ。
決めるのは誰?
舞台となっているフランスにおいて、裁判を最終的に判断するのは参審員たちということになる。これは日本の裁判員制度と同じで、市民から選ばれた人たちが被告人を裁くというシステムということになる。本作では参審員に対して訴える段階において、決定的に重要な役割を果たすことになるのがサンドラの息子ダニエルということになる。
ダニエルは裁判で暴かれる夫婦の問題に直面させられることになる。つまりは両親のいざこざを知らされることになってしまうのだ。実はサンドラと旦那のサミュエル(サミュエル・セイス)とのいざこざには、ダニエルのことが関わっている。普段ならそんな話は、その当人であるダニエルの前では憚られることだろう。しかしながら裁判ではそうした秘密も暴かれてしまうのだ。
ダニエルの視覚障害はある事故によるものだ。サミュエルがダニエルを迎えに行くことをほかの人に任せたことが事故につながったらしく、それに関してサンドラはサミュエルを責めたらしい。精神科医は明らかにサンドラがサミュエルを追い詰めていると感じているのだ。
ほかにも裁判の過程では様々なことが明らかになる。たとえばサンドラがバイセクシャルであることや、自由な女性であることが示される。一方でサミュエルがベストセラー作家である妻に嫉妬していることも感じられる。この夫婦は世間一般からすれば、男女の関係が逆転したような関係であるとも言える。それでもサンドラは夫に気を使い故郷のドイツを離れ、サミュエルの故郷であるフランスへ移住するなどの譲歩もしていることも垣間見られるし、逆にサミュエルが愚痴っぽい性格であることも見えてくることになる。どちらかが一方的に悪いとは言えず、どこにでもある家庭のいざこざとも言えるのかもしれない。
ただ、裁判の場で実際の録音データも流されると状況は変化する。そこではサンドラとサミュエルがケンカする様子が録音されており、サンドラが暴力を振るったと思しき音も確認できることになる。そうなるとサンドラの立場は悪くなる。サミュエルが死ぬ前日にケンカをしていて、さらには暴力を振るっていたということになれば、サミュエルの死はサンドラからの暴行によるものなのではないかという方向に流れていくことになるからだ。
恐らく息子のダニエルは一時サンドラのことを疑うことになったのだろう。飼い犬にアスピリンを飲ませるというエピソードは、サンドラの裁判での証言が実際に家で起きていたのかを確認するためのものだ。ダニエルは視覚障害者だから、その現場を見ていなかったからだ。そして、その結果わかったのは、サンドラの言っていることは恐らく本当である可能性が高いということであり、そうするとダニエルとしては父親と母親のどちらを選ぶべきか悩むということになるのだ。
観客は騙されている?
町山智浩は本作について「アンフェアだと思った」と語っている(【町山&藤谷のアメTube】にて)。情報を小出しにして、観客を騙しているような部分があるからではないのだろうか。私もそんなふうに感じる部分があった。
私が本作が観客を騙しているように感じたのは、ラストのダニエルの告白の場面だ。ダニエルはここで亡くなった父親サミュエルとのエピソードを語ることになり、それが裁判で母親サンドラに有利に働くことになる。この告白がなぜ観客を騙しているように感じられたのか?
本作では回想シーンはほとんど使われていない。ラストのダニエルの告白の場面と、もう一つは録音データを再生する場面くらいだろう。録音データは裁判の場で再生されることになるけれど、劇中ではそれを再現場面として見せることになる。とはいえ、決定的な場面、どちらかが暴力を振るった場面などになると、音声だけにして実際に起きたことを見せないようにしている。
ただ、録音データ自体はサンドラとサミュエルの実際の会話となっているわけで、その再現場面も実際に起きたことの回想のように感じられることになるだろう。サミュエルは死体として登場し、この再現場面に至るまでほとんど生きている姿としては登場してこなかったのだ。
ちなみにヒッチコックは『映画術』という本において、回想場面の嘘を観客は受けつけないと語っている(これに関しては『三度目の殺人』の時にも詳しく記している)。映像として示される回想場面で、登場人物が嘘をつくということは観客は受け入れにくいというのだ。
何を言いたいのかと言えば、ラストのダニエルの告白は嘘だったんじゃないのかということだ。そして、それをあたかも真実だったかのように描いているのが本作なのだ。その部分が私には「アンフェア」なものに感じられたのだ。
ダニエルはラストの告白前に悩んでいる。飼い犬を使った実験によってサンドラの証言が正しいということがわかると、父親と母親のどちらを信じるべきかもわからない状況に陥ったということになる。もしラストの告白が真実であったとしたならば、それほど悩むこともなく過去にあった父親との会話を告白できたんじゃないだろうか。しかし実際にはダニエルは悩むことになる。
その際、ダニエルはお付きの係員の女性に相談している。するとその女性は「わからなかったとしても選ぶのよ」と助言することになる。その言葉に後押しされたダニエルが語ったのが、父親との車の中の会話ということになる。
ダニエルは父親の死の真実については謎のまま、最終的には母親を選んだということになる。というよりも父親はすでに亡くなってしまっているわけで、視覚障害者でもあるダニエルが選べるのは母親しかいなかったということでもある。係員の女性が示唆していたのは、そういう意味合いと取れなくもない。とにかくダニエルは決意を持って最後の告白をしたわけで、そうなると最後の告白には嘘が含まれていることも考えられるんじゃんないだろうか。私にはそんなふうに感じられた。
この告白が実際にあったものなのかどうかはわからない。それはダニエルにしか知り得ないことだ。あったにしてもなかったにしても、この告白はタニエルの解釈によるものだということは明らかだろう。そして本作ではその告白を映像化している。本作ではほかにも回想シーンがあり、それが先ほども述べたように録音データの再現シーンということになる。そして、この録音データの再現が真実らしく思えたのと同じく、ダニエルの父親との回想シーンも真実らしく思えてしまう。ヒッチコックが言うように、観客としては回想シーンの嘘というものは受け入れにくいからだ。
録音データの再現場面は真実だろう(データそのものは現に存在している)。一方でダニエルの告白の回想は嘘である可能性もある。しかし本作はどちらもそれを回想シーンとして映像化することで、うまく観客を騙しているようにも感じられたのだ。こうした構成を巧妙に作られた脚本として評価することもできるのかもしれないのだけれど(本作はアカデミー賞でも有力視されている)、私にはどこかで騙されていたようにも思えたのだ。何だかんだ言いつつも、惹き込まれた152分であったことも確かなのだけれど……。
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