監督・脚本はマーリ・セルヴァラージ。
昨年、「インディアンムービーウィーク」というインド映画の特集上映で日本でも劇場公開された作品。
4月28日にソフトが発売になった。
物語
弁護士になるという希望を胸に法科大学に進学したパリエルム・ペルマールは、同じクラスの女子学生ジョーと仲良くなる。しかし彼がダリト(不可触民)の出身であるために、二人の交際に反対するジョーの親族たちからの激しい差別に直面し、自らの存在について苦悩する。
(公式サイトより引用)
カースト制度
インド映画に関してはあまり観たことがないので確かなことではないけれど、カースト制度について積極的に取り扱っている作品というものは珍しいらしい。最近になってようやく題材として取り上げられるようになってきたのだとか。『僕の名はパリエルム・ペルマール』は、監督のマーリ・セルヴァラージ自身がダリドあるいはダリッドと呼ばれる不可触民とのことで、恐らく自らの経験がパリエルム・ペルマール(カディル)が経験することとなる過酷な人生に反映されているものと思われる。
冒頭から衝撃的だ。ペルマールは飼い犬を電車に轢き殺されるという酷い目に遭うからだ。ペルマールはダリドとして上位のカーストに盾突くことはできず、泣き寝入りするしかない。警察すら上位カーストの味方だから、法的手段に訴えることもできないのだ。
それでもペルマールが本当にキツい状態に陥るのは、大学に入ってジョー(アーナンディ)という女の子と親しくなってからだ。きっかけはペルマールがジョーの姉の結婚式に招待されたことだ。ふたりの関係を快く思わないジョーの父親や親戚たちからペルマールはリンチされ、小便をかけられるという屈辱を受けるのだ。
前半は美しいジョーと親しくなり勉学に励み、友人のアーナンド(タミル語映画のコメディアンとして有名らしいヨーギ・バーブ)ののん気さもあって楽しい場面もあるのだが、後半になるとダリドに対する差別が顕在化してきてかなりキツいシーンが続くことになる。
インド映画だから?
慣れないインド映画ということもあって戸惑う部分もあった。本作ではなぜかタバコを吸うシーンになると、禁煙マーク(?)が画面下に表示される(これがインド映画で一般的なことなのかは不明)。「タバコを吸うと害がある」という注意喚起らしい。
一方で学ぶこともあって、インドではダリドのための「留保制度」というものがあるらしい。これはアメリカで言えばアファーマティブ・アクションに類するものということになるだろう。ダリドもこの制度によって大学に入学できたりするのだが、法律の授業は英語が使われるのにも関わらず、ペルマールやほかの学生も普段はタミル語を使っているために、授業についていくことすら難しいという状況になってしまう。制度だけ整えてみても、実質が伴っていないということだろう。
それから本作はいわゆるボリウッド映画のフォーマットを流用しているからなのか、繰り返し歌のシーンが挿入されてくる(上映時間も153分という長尺だ)。登場人物が歌い踊るわけではないのだが、挿入される歌でペルマールの心の内を代弁しているのだ。
たとえば「死んで青を帯びる 僕は誰?」などと、ペルマールは上位カーストから虐げられる自分の存在そのものに思い悩むことになる。本作の冒頭で轢死したカルッペはその黒い毛並みを真っ青に塗られて再び登場するのだが、これは死んだことを意味しているらしい。ペルマールがその顔を青く塗っているのは、カルッペと同様に殺されたにも等しい目に遭わされているということなのだ。
名誉の殺人
ペルマールはジョーの父親から手酷い警告を受けたために、ジョーと接することを避けようとするのだが、何も知らないジョーはペルマールから離れていくこともない。しかし、ペルマールがジョーに事情を話せば、ジョーと父親との関係を壊すことになるためそれもできない。ペルマールはそんなジレンマの中にある。
それに対して、ジョーの父親が選んだのは、仕事人みたいな人を雇ってペルマールを殺させることだった。インドやパキスタンなどでは“名誉の殺人”と呼ばれるものがあるらしい。カーストの異なる男女が駆け落ちしたりすることになると、上位カースト側の親族は自分たちの名誉が汚されると考え、邪魔になった人物を始末したりするらしい。
本作でもジョーの従兄は、ジョーとペルマールが付き合うことによって、カーストの尊厳が失われると考えている。傍から見ているととんでもない勘違いに思えてしまうわけだが、長年インドという世界で生きていたとしたらそんなふうに考えてしまうのかもしれない。インドではカーストによる差別は表向きは禁止されているというのだが、まだまだ根深く残っているということなのだろう。
最近観た『ザ・ホワイトタイガー』(Netflixにて配信中)もインドにおけるカースト制度を扱っていた。『ザ・ホワイトタイガー』の主人公も貧しい生まれでありながら、インドで経営者として成功を勝ち取ることになる。しかし、その方法は到底真っ当なものではなく、その立身出世を単純には喜べないような内容だった。主人公は罪を犯し、大切なものを犠牲にし、別人に成りきることで、ようやくそれを手に入れたからだ。
『僕の名はパリエルム・ペルマール』のラストでは、刺客の手から逃れて何とかジョーとの関係も元通りになるわけだが、ペルマールがジョーの父親に語るように、上位カーストの側の気持ちが変わらなければどうしようもないということもあるわけで、先行きが明るいのかどうかはあやしいだろう。
その意味でも大学の学長の台詞が印象的だった。学長は希望に燃えているペルマールが「将来問題を起こすだろう」と予想している。それは的中するわけだが、というのもダリドがのし上がろうとすると様々な障害にぶち当たるのは当然のことだからなのだ。学長自身も貧しい出自で、気が触れるほど勉強して今の地位を手に入れたらしい。学長は上位カーストたちの蛮行は止められないのだから、せめてペルマールには抵抗させてやれと語るのだ。差別との戦いに対して楽観的な希望を示すだけで終わらなかったのは、まだまだカースト制度がすんなりとなくなるような状況にはないということを示しているのだろう。
ペルマールにとっての尊厳がカースト制度によって踏みにじられていることは痛いほどわかる。一方で踏みにじる側のジョーの父親や従兄たちも、彼らが育ってきた社会においては、ペルマールの存在が自分たちの尊厳を損なわせるものとなっていると素朴に信じているようでもある。
観る側としても、単純に差別がまかり通るのは気持ちがいいものではない(たとえ自分が無関係であったとしても)。いわゆる普遍的な価値とされる“平等”というものは、あって当然の如くにも感じられるけれど、それは西欧風の価値観に染まっているからなのだろうか。誰もがそうしたものを受け入れられる時代が来るべきなのだとも思うのだが、その反対に勝ち組が自分の価値観を押し付けていると感じる人もいるだろうから、やはり一朝一夕には解決しない問題が残るのかもしれない。そんなことを感じた。
コメント