原作は『殺し屋1』などの山本英夫の同名漫画。
監督は『呪怨』や『犬鳴村』などの清水崇。
4月2日から劇場公開が始まり、22日からはNetflixでも配信されている。
物語
一流ホテルとホームレスが溢れる公園の狭間で車上生活を送る名越進。過去の記憶も感情も失い、社会から孤立していた。そこに突然、奇抜なファッションに身を包んだ研修医・伊藤学が目の前に現れる。
「頭蓋骨に穴を空けさせて欲しい」
「あなたじゃなきゃ、ダメなんです」
突然の要求に戸惑う名越だったが、“生きる理由”を与えるという伊藤の言葉に動かされ第六感が芽生えると言われるその手術<トレパネーション>を受けることに。術後、名越が右目を手で覆い、左目だけで見たのは、人間が異様な姿に変貌した世界だった。その現象を「他人の深層心理が、視覚化されて見えている」と説く伊藤。彼はその異形をホムンクルスと名付けた―。ホムンクルスと化した人々の心の闇と対峙していく中で、名越の過去が徐々に紐解かれ、自らの失った記憶と向き合うことに。果たして名越が見てしまったものは、真実なのか、脳が作り出した虚像の世界なのか?取り戻した記憶に隠された衝撃の結末とは?!
(公式サイトより抜粋)
トレパネーションとは?
頭蓋骨に穴を開ける手術のことをトレパネーションと呼ぶわけだが、これは『ホムンクルス』というフィクションの中だけでの設定なのだと勝手に思っていたのだが、劇中でも触れられるように古代から現実にも行われてきた外科手術なのだという。
1998年にはまさしくそれを題材にした『ア・ホール・イン・ザ・ヘッド』というドキュメンタリーも製作されているらしい。このドキュメンタリーでは実際にトレパネーションを実践した人たちが登場するとのこと。
映画『ホムンクルス』の中では、トレパネーションを施すと脳の内部の血流量が上昇して、人間が普段は10%ほどしか利用していない脳の能力を拡張させると解説されている。それによって主人公・名越進(綾野剛)は左目だけで世界を見ると、異様な人間の姿を見ることになる。
ホムンクルスの見える世界
名越が見たのは「他人の深層心理が、視覚化され」たものだという。たとえば紙のようにヒラヒラと漂うような姿の男(自らを薄っぺらいと認識している?)や、誰かからの電話に腰をグルグル回転させる女(ヤリたくて堪らない?)など、普段は見えることのない深層心理に抱えた何かが名越には見えてしまうのだ。
名越はそれによって相手のトラウマに接することになり、一種のカウンセリングをしているような状態になるのだ。身体中を鋼鉄の鎧で覆ったロボットのようなヤクザの男(内野聖陽)と、砂で出来た(実は記号や言葉だった)女子高生(石井杏奈)は、名越と向かい合うことによってなぜか癒されることになる。
ちなみに原作のブレーンには名越康文という精神科医が参加しているとされる。同じ原作者の『殺し屋1』の途中から関わっているらしいのだが、その影響もあって本作の主人公が“名越”という名前になっている。ホムンクルスを見える能力を獲得した名越が精神分析めいたことをするのも、名越康文の存在が影響しているのかもしれない。そして本作の後半では名越進自身のトラウマが追われていくことになる。
如実知見?
眉間に穴を開ける冒頭の映像は、その穴から外界を眺める構図となっている。そこに手術を施した伊藤(成田凌)の目が現れる。もちろん眉間に穴を開けたからといって、そこから何かが見えるわけではない。目があるわけではないのだから。
それでもこの眉間に穴を開けるというイメージは、手塚治虫の漫画『三つ目がとおる』のような“第三の目”などと言われるものと結びついていて、そのことによって名越が新しい能力を獲得したような印象を与える。
眉間にある“第三の目”というのは、もともとはヨーガなどで言われる“チャクラ”と呼ばれるエネルギーポイントから来ている。人間には7つのエネルギーポイントがあり、眉間にはそのひとつがあるとされる。インド人が眉間にビンディをつけているのは、このチャクラを活性化させるためともされる。
本作のホムンクルスを見る能力も、いわゆる“第三の目”が覚醒することによって、今までは見えなかった真実の世界が見えてきたようにも感じられるのだ。名越はその能力によって、トラウマを持つ人を癒すことになるわけだから。
※ 以下、ネタバレもあり!
なぜ「空っぽ」?
本作は前半部が原作漫画に忠実に展開していくのに対し、後半はオリジナルの部分も多い。私はこの原作漫画に関してはたまたま読んでいたので、後半に入ると漫画と異なる部分が気になって、映画を虚心坦懐に見ることが出来なかったような気もする。
そのこともあって劇場でも一度観ていたのだが、もう一度確認したくなって、Netflixで配信されるのを待っていたのだが、改めて確認してみても、やはり後半のあまりに早急な展開にはちょっとついて行けなかった。
名越はホームレス同然の生活をしていて、半ば死んだような状態だ。伊藤には「生きてるって感じることありますか?」と問われるわけだが、そんな現実感の喪失は名越のトラウマに関わっている。奈々子(岸井ゆきの)が名越にとって特別だったのは、彼の「空っぽ」さを見抜いた女性だったからだろう。
原作漫画においては、名越がなぜ「空っぽ」で現実感を喪失しているのかが追われることになるのだが、映画版ではそこが抜け落ちている。映画版のオリジナルとして用意されたある事故によってトラウマを抱えたということだけは示されるわけだが、その事故は名越が「空っぽ」であることの理由にはなっていないのだ。
眉間に開けた穴と、奈々子と名越が見つめている金環日食のリングや螺旋階段のイメージが重なり合ったりはするところは映像のつらなりとして悪くないとしても、事故の設定は短い時間で一気に辻褄を合わせるための苦肉の策にしか見えなかった。
ラストで名越が伊藤に対して「おれもお前も見て欲しいばかりで、相手をちゃんと見ようとしなかった」と悟ったかのようにまとめるのだが、これも唐突に感じた。伊藤の父親とのエピソードとは一致した台詞だが、名越に関しては映画に描かれた奈々子とのエピソードだけでそんなふうに達観するのはかなり難しいんじゃないだろうか。
ハッピーエンドあるいはバッドエンド
そもそも伊藤がトレパネーションの実験を試みたのは、それによってオカルト的なものを排除して、科学的にすべてを脳の仕組みで説明し、「この目の前の世界を」否定するためだった。
最初は上述したように、トレパネーションによって“第三の目”を獲得し、他人の深層心理を見抜くことができたかのように感じられる。しかし後半になるとそれに疑問が投げかけられる。
トレパネーションをしたことで自己暗示にかかり、似たようなトラウマを抱えた者に対して、自らのトラウマを投影しているだけなのではないか。人間は自分の見る世界を、自分が都合のいいような虚像に変えてしまう。トレパネーションはそれを自己暗示によって強化しているだけで、ホムンクルスも幻影に過ぎない。そんなふうに否定されるわけだ。
このあたりは原作漫画ではもっと明白に否定されているわけだが、映画ではホムンクルスを幻だと否定する役目を担っていたはずの伊藤までそれに絡めとられた形になってしまう。名越は奈々子(実は別人なのだが)と生きていくことを決意し、お花畑の中を走り去っていきハッピーエンド風なラストを迎えるわけだが、これは虚像に囚われたという意味では原作以上にバッドエンドとも思えた。
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