『グレース・オブ・ゴッド 告発の時』 生きる場所の違い?

外国映画

『まぼろし』『8人の女たち』などのフランソワ・オゾン監督の最新作。

フランスのカトリック教会における神父による児童への性的虐待事件を描いた作品。

原題は「Grace a Dieu」。

未だに続いていた虐待事件

アカデミー賞作品賞を受賞した『スポットライト 世紀のスクープ』は、アメリカ・ボストンを舞台にした「カトリック教会の性的虐待事件」が題材だった。この映画のラストでは、ボストンと同様のことが起きていた都市のリストが示されていた。その長大なリストに観客は驚かされることになったわけだが、『グレース・オブ・ゴッド 告発の時』はフランス・リヨンでのケースが取り上げられることになる。

『スポットライト』で描かれたように、カトリック教会内の児童への性的虐待事件が公になったのは、2001年の新聞報道によってだ。そして、『グレース・オブ・ゴッド』で描かれる事件の最初の告発が行われたのは2014年だったようだ。その間に10年以上の年月が経過しているわけだが、カトリックは根本的な対策を講じていなかったということになるのだろう。

本作では現在も裁判が進行中の「プレナ神父事件」が題材となるが、かつてプレナ神父は教会に集まる少年たちに性的な虐待を繰り返し問題になりながらも、カトリック教会は彼を転属させることで事件を闇に葬ってきたのだ。そして別の土地でも少年たちが被害に遭いながらも、プレナ神父自身は長らく聖職に留まっていた。カトリック教会は遅くとも2001年の時点でそれに気づきながらも、プレナ神父はほとんど何のお咎めもなかったということだ。これではカトリック教会には自浄作用がないんじゃないかと疑われても仕方ないのかもしれない。

(C)2018-MANDARIN PRODUCTION-FOZ-MARS FILMS–France 2 CINÉMA–PLAYTIMEPRODUCTION-SCOPE

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被害者に寄り添う

まずは、かつてプレナ神父から性的な虐待を受けたアレクサンドル(メルヴィル・プポー)が行動を起こしたことがきっかけとなる。アレクサンドルは枢機卿バルバランに連絡を取り、プレナ神父(ベルナール・ヴェルレー)と会うことになるのだが、すぐには物事は解決しない。教会側は組織を守ることが大切で、古い事柄をほじくり出すのを嫌うからだ。業を煮やしたアレクサンドルは警察にプレナ神父を告発することになる。

最初のきっかけはアレクサンドルだが、本作では主人公が入れ替わっていく。アレクサンドルのケースはすでに時効だったため、警察は新たな被害者を探し出す。次に主人公となるのがフランソワ(ドゥニ・メノーシェ)で、彼は未だにプレナ神父が聖職にあると知って驚く。そして、神父を告訴するために警察に協力し、同時にマスコミも利用し被害者の会を結成することになる。

その被害者の会に参加した一人がエマニュエル(スワン・アルロー)で、彼が三人目の主人公となる。アレクサンドルやフランソワが社会的に成功し、幸せな家庭を築いているのに対し、エマニュエルはその時のトラウマが影響しているのか、てんかんの症状もあり事件から長い時間が経過した今も日々苦しんでいる。

『スポットライト』は事件を公にした新聞記者が視点を担っていたわけだが、『グレース・オブ・ゴッド』では事件の被害者たちにより一層スポットライトを当てている。主人公を一人に限定しなかったのも、特定の誰かの話ではないことを示すためだろう。「数は力だ」という台詞があったように、誰もが巻き込まれたかもしれないのがこの事件だということなのだ。

被害者は事件について誰にも言えずに苦しんでいる(被害者の会で被害者の一人が「ひとりじゃないって最高だな」とつぶやくシーンも印象的)。そして、ようやくそれを語り始めたときには、事件は時効になってしまっている。

また、被害者だけではなく、事件は家族を巻き込むものとなる。フランソワの兄は弟が事件の当事者となることで、両親たちの関心が弟に集まり、両親を独占されたと感じているし、エマニュエルの母は彼の告白を聞きながらもうまくそれに対処できなかったことを悔やんでいる。このように事件の被害者もその苦しみは様々で、本作は被害者やその周囲の人々の苦難のエピソードが詰め込まれている。

(C)2018-MANDARIN PRODUCTION-FOZ-MARS FILMS–France 2 CINÉMA–PLAYTIMEPRODUCTION-SCOPE

なぜオゾンが監督に?

本作はフランソワ・オゾン作品としては例外的に現実に起きた事件を題材としているからか、実録物っぽくでオゾン作品らしさは感じられない。そんなふうに自分のテイストを消してまでこの作品に取り組もうとしたのはなぜなのかと考えてみると、オゾン自身が同性愛者であることが関係しているのかもしれない。というのは、同性愛とペドフィリアは時として混同されやすいからだ。

劇中でも、わざわざ「同性愛とペドフィリアは違う」と登場人物に語らせているのも、そのことが気になっているからかもしれない(架空の教皇を描いた『ヤング・ホープ 美しき異端児』でも、ゲイの聖職者が同じことを語っていた)。

カトリック教会にはゲイの神父も存在し、それ自体が教会内で問題にされることもある。しかし、同性愛とおぞましい犯罪であるペドフィリアはまったく別のことであるはすだ。それでも時として混同されやすいからこそ、オゾンとしても誤解を解いておきたいという気持ちもあったのかもしれない。もっともこれは単なる私の推測に過ぎないが……。

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神の恩寵により

それよりも不思議だったのは本作が被害者側に寄り添う一方で、カトリック教会を糾弾する調子はそれほど強く感じられないところだろうか。

プレナ神父は性的虐待の加害者でありつつも、子供たちに人気がある神父でもあるとされている。そして自分の犯罪行為に関してはあっさりと認めている。しかも、そのことは歴代の枢機卿にも伝わっていることだという。だからそれを放置したカトリック教会側に問題があったとも言える。しかし、本作でのカトリック教会側の中心人物であるバルバラン枢機卿(フランソワ・マルトゥーレ)の姿を追っていると、組織を守るためという点も当然ありながらも、それだけではないズレたものを感じるのだ。

被害者たちが望んでいたのは、二度と同じような犯罪が起きないようにプレナ神父が罰せられ、聖職を剥奪されることだろう。それに対して、バルバラン枢機卿はプレナ神父が赦しを乞わなかったことを気にしている。被害者が求めるものとはまったく食い違っていて、何か別の方向を見ているようにすら思えてくるのだ。

これは世俗社会に生きる人と、信仰に生きる人との違いなのだろうか。カトリックでは「ゆるしの秘跡」と呼ばれるものがあり、罪人はその罪を告白し悔い改めれば赦しが与えられるとされている。バルバラン枢機卿としては、プレナ神父を罰することなど考えもしなかったのかも。罪を赦す権能こそが自分に与えられたものだと素朴に信じて疑うこともなかったのかもしれない。

というのも、枢機卿は事件の記者会見において、「神の恩寵によりこれらはすべて時効に」と口を滑らしたりもしているからだ。悪い冗談のようなこの台詞は本作のタイトルにもなっているが、実際にあった発言のようだ。「神の恩寵により」という言葉は、一般的には「幸いにも」という意味に捉えられる。もちろん枢機卿は被害者や記者たちを逆なでするつもりもなかったはずで、不用意にその言葉を使ってしまったのだろう。世俗から離れ普段から神のことのみを考え、人を罰することよりも人を赦すことを考えてきたのだとしたら、そんなこともあるのかもしれないとも思えるのだ。

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信仰への期待

本作は敬虔なキリスト教徒であるアレクサンドルの話から始まり、フランソワとエマニュエルのエピソードを経て、また最後にアレクサンドルの視点に戻ってくる。フランソワとエマニュエルが教会を仇敵のように考えやっつけることを目標としているのに対し、アレクサンドルは複雑な表情だ。そして、そんなアレクサンドルも息子に「神を信じるか」と問われると、その答えに窮することになる。

フランソワやエマニュエルはそもそも教会に何も期待していない。一方のアレクサンドルは自分の子供たちを守るために立ち上がったわけだが、その先には教会を改善していこうという意図があった。つまりは彼だけはずっと教会に多くの期待を寄せているのだ。そんなアレクサンドルの期待に教会が応えられないのだとすると、信仰の世界と世俗社会との断絶はさらに著しいものなるだろう。そんな意味で本作は舌鋒鋭くカトリック教会を糾弾するわけではないのだが、教会のあり方そのものに疑問を呈しているように感じられた。

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