原作はパリュスあや子の『隣人X』。
監督・脚本は『ニライカナイからの手紙』などの熊澤尚人。
主演は『スウィングガールズ』などの上野樹里。共演は『私をくいとめて』などの林遣都。
物語
ある日、日本は故郷を追われた惑星難民Xの受け入れを発表した。人間の姿をそっくりコピーして日常に紛れ込んだXがどこで暮らしているのか、誰も知らない。Xは誰なのか? 彼らの目的は何なのか? 人々は言葉にならない不安や恐怖を抱き、隣にいるかもしれないXを見つけ出そうと躍起になっている。
週刊誌記者の笹は、スクープのため正体を隠してX疑惑のある良子へ近づく。ふたりは少しずつ距離を縮めていき、やがて笹の中に本当の恋心が芽生える。しかし、良子がXかもしれないという疑いを払拭できずにいた。良子への想いと本音を打ち明けられない罪悪感、記者としての矜持に引き裂かれる笹が最後に見つけた真実とは。嘘と謎だらけのふたりの関係は予想外の展開へ…!
(公式サイトより抜粋)
元ネタはどこから?
そもそも本作がアイディアを借りてきたのは『遊星からの物体X』からなのだろう。タイトルが「隣人X」となっているのは、そのオリジナルに「敬意を表して」ということだろう。
『物体X』の場合は、遊星からやってきた“何か”は侵略者だったということになる。そして、それは知らない間に人間を乗っ取ってしまう。外見は人間でも実は中身は“別のもの”になっているというのが怖いところだ。見た目では判別がつかないけれど、中身は侵略者であり、それは虎視眈々と人間を乗っ取ることを狙っているのだ。
ところが本作の「難民X」はそういう怖い存在ではない。難民Xは人間をコピーする。難民Xの元の姿がどんなものなのかはわからないが、オリジナルをコピーしてイミテーションを作るわけだ。つまりは人間は乗っ取られるわけではないということになる。
劇中ではコピーとオリジナルの両方が出てくる場面もある。それはどちらがオリジナルなのかはわからないけれど、コピーである難民Xも日本政府から存在を認められているわけだ。それぞれが別の名前で、別の地域で暮らしているならば、何も問題は生じないのだ。
しかも難民Xは、そもそも人間には危害を加えないということが本能的に備わっているのだという。つまりは難民Xは侵略者でもなければ、人間には害を加えることもない存在で、ヘタすれば人間なんかよりもよほど安心できる存在ということになるのだ。しかし、それにも関わらず、日本では彼らが差別されることになってしまう。
難民Xとは何か?
『隣人X-疑惑の彼女-』において観客の視点を担うのは、笹(林遣都)という週刊誌の記者だ。彼は難民Xの取材チームにいて、特ダネを狙っている。笹が割り当てられた難民Xの疑いのある要注意人物は二人いる。一人が良子(上野樹里)という日本人女性で、もう一人は台湾出身のレン(ファン・ペイチャ)と呼ばれている女性だ。
惑星難民Xとは何なのか? このレンという女性のことを見れば、難民Xが意味していることはわかりやすい。移民や外国人など差別されている人のメタファーということになるだろう。
レンが台湾人というのがミソだ。見た目では日本人と区別はつかないからだ。たとえば白人だとか黒人のような、明らかに日本人とは異質の存在だとしたら、差別は見た目の違いからくるものということになるのかもしれない。ところが台湾人と日本人は見た目は変わらないわけで、何によって差別しているのかということになる。
もちろん見た目が違うことによって差別が正当化されるわけではないわけだが、本作においては見た目が同じでも差別されるような状況があるということを示すことで、差別に対する問題を提起しているということになる。
レンが日本において差別されることになるのは、言葉が不自由でコミュニケーションに問題があるからだろう。もちろんそんなレンに優しく接してくれる拓真(野村周平)のような人もいるけれど、レンのことを日本においては役に立たない人物として扱う人もいるというわけだ。
※ 以下、ネタバレもあり!
モヤモヤの正体は?
それでは良子の場合はどうなのか? 笹は良子のことを怪しいと感じたのか、良子に積極的に近づくことになる。ところが笹は良子のことが本当に好きになってしまうことになる。もしかしたら人間のフリをした難民Xなのかもしれないけれど、それでも笹は良子と付き合うことになる。
しかしながら笹はどこかでモヤモヤとしたものを抱えている。良子のことは好きだけれど、そんな彼女が難民Xだったらということが気にかかるのだ。笹の抱えたモヤモヤは何なのだろうか?
たとえ彼女が難民Xだとしても、見た目もコミュニケーション能力にも何の問題もないわけで、特にわれわれ日本人と違いがないのだとしたら、良子を特別視する理由は何もないということになる。あえて違いを探すとすれば、中身ということになるのかもしれない。
たとえば「心と身体」という言い方をすることがある。この場合、心と身体は別物であり、身体をコントロールしている“何か”を心と呼んでいるということだろう。
身体が意味するものは明らかだが、それでも心というのはどこにあるのかということになる。実際には心というのは脳のことを指すのかもしれないけれど、それはともかくとして、心があるということにわれわれは疑問は感じないだろう。
それでは難民Xの場合はどうなのか? われわれが心と呼んでいる部分が、別の“何か”になっているということなのだろうか。たとえば『メン・イン・ブラック』に登場する頭の中に巣食っている小さな宇宙人みたいなものを想像してしまうのだろうか。
とはいえ、本作が描いているのはそういった問題ではないのかもしれない。というのも本作においては心というもの自体が疑われているわけではないからだ。
良子は笹に「心で見てほしい」と訴える。この言葉は、本の好きな良子が『星の王子様』から学んだことだろう。『星の王子様』では、「心で見なければものごとはよく見えないってこと。大切なことは目に見えないんだよ」と記されているのだ。だとすると笹は心で見れば、良子の本当の姿がわかるということなんだろうか? そのあたりはよくわからないまま終わってしまったようにも思えた。
感動的なエピソードも……
本作ではラスト近くになって、突然、新しい設定が登場する。難民Xには手首あたりに三ツ星のマークが出ていることが明らかになるのだ。そのマークがあれば、その人は難民Xである証拠ということになる。大切なことは目に見えないと言いつつも、こんな設定が出てくるのも疑問だが、さらに混乱するのはこのマークはなぜか消えてしまったりもする。
これは一体どういうことなのか? 恐らくそんなつまらないことはどうだっていいじゃないかということなのだろう。メッセージとしては、人間も難民Xも何の違いもないし、何らかの違いによって差別することなんてバカげているということなのだろう。
良子の父親(酒向芳)のエピソードなんかは感動的でもあるのだが、もともと『物体X』から借りてきた設定が、本作のメッセージとうまく合致しているのかと考えると疑問も多い気がする。差別の問題をメタファーによって表現しようとしたわけだが、差別される人が人間とは違う“何か”ではないわけで、余計なものが付け加わってしまっているのかもしれない。何だかよくわからないモヤモヤを抱えたまま、これを書いているというのが正直なところだ。
予告編を観た時にはこの設定がおもしろいんじゃないかと思っていたのだが、この設定自体がうまく整理されていないような気もする。オリジナルとコピーの問題もあっさり片づけているけれど、ツッコミどころが多いのだ。感動的にまとめた父親のエピソードすら、そうした設定の不備を誤魔化すためにも思えてしまい、ちょっと醒めてしまうところがあった。
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