原作は『桐島、部活やめるってよ』などの朝井リョウの同名小説。
監督は『あゝ、荒野』などの岸善幸。
出演は『窓辺にて』などの稲垣吾郎や、『ミックス。』などの新垣結衣など。
物語
横浜に暮らす検事の寺井啓喜は、息子が不登校になり、教育方針を巡って妻と度々衝突している。広島のショッピングモールで販売員として働く桐生夏月は、実家暮らしで代わり映えのしない日々を繰り返している。ある日、中学のときに転校していった佐々木佳道が地元に戻ってきたことを知る。ダンスサークルに所属し、準ミスターに選ばれるほどの容姿を持つ諸橋大也。学園祭でダイバーシティをテーマにしたイベントで、大也が所属するダンスサークルの出演を計画した神戸八重子はそんな大也を気にしていた。
(公式サイトより抜粋)
マイノリティ+1.0?
原作者の朝井リョウの作品はいつも群像劇になっているようで、『正欲』もそれに倣っている。
最初に登場するのは佐々木佳道(磯村勇斗)で、彼はなぜか死にたがっている。世間は「明日生きることを前提にしている」けれど、佳道はその前提からして異なっているというのだ。次に登場するのが桐生夏月(新垣結衣)だ。彼女は何もかも退屈といった死んだ目をしていて、なぜか部屋の中で水に浸かっている妄想を抱いている。
学園祭のイベントを計画している神戸八重子(東野絢香)は、極端な男性恐怖症だ。彼女は父親も兄弟も、男となるとすべてがダメらしく、男性と接すると固まってしまうことになる。ところがその八重子が唯一気に入っている男性がいて、それがダンスをやっている諸橋大也(佐藤寛太)だ。彼もどこか屈折したものを抱えていて、それが何なのかは次第に明らかになっていく。
そして、本作において例外的な人物なのが寺井啓喜(稲垣吾郎)だ。検事をしている彼は、正義感が強く、いわゆる真っ当な人間だ。ほかの登場人物がマイノリティの側に属するとすれば、彼はマジョリティ中のマジョリティだ。
世間一般の人が目指すべきとされる価値観を一手に引き受けているのが寺井なのだろう。彼はいい学校に入り、いい会社に就職し、結婚をして子どもを作る。そんな着実な道を歩んできたわけで、彼が進んできた道から外れた者は逸脱者とされてしまうことになる。
寺井は不登校でYouTuberになろうとしている息子のことも理解できないし、マイノリティであるほかの登場人物の存在も理解できないということになる。しかし、それは世間一般の人の考えを寺井が代表しているということでもあるのだろう。
多様性を謳う?
本作においてテーマになっていることは多様性ということだろう。それでも多様性という言葉を使えばすべてが丸く収まるというわけでもないようだ。たとえば大也が秘密にしているフェチシズムは、ほかに滅多に理解者がいるわけでもない珍しいもので、「多様性」という言葉を使った時に想像される範疇から漏れてしまうようなものだからだ。
大也は八重子が計画した多様性を謳うダンス・フェスティバルに参加することになるけれど、フェスティバルそのものに違和感を覚えているようだ。親切心から大也のことを気にかけているダンスサークルの女性が捉える多様性というものが、彼には名目だけのものに思えているらしい。多様性を謳うのはいいけれど、結局、彼はその枠組みからも弾き出され、居場所がないと感じているのだ。
そんな大也のことが気になっている八重子は、そのことを直接告白することになる。しかし、その想いは大也には届かない。彼は特殊なフェチを持っているために、女性には興味がないということなのかもしれない。八重子からすれば、大也は唯一の気になる男性だったわけで、真っ当に生きていく可能性を閉ざされてしまったとも言える。
それでも大也は八重子のことを認める発言もしている。どんなことを考えるのも自由だから、君がオレのことを勝手に想うのは構わないというのだ。これは大也が持つ特殊なフェチも、自分の自由な選択だということでもあるのだろう。
ただ、その自由というのは、「他人に迷惑をかけない限りにおいて」という条件付きなのだ。大也は後半で傍迷惑なトラブルに巻き込まれることになってしまう。
※ 以下、ネタバレもあり!
特殊なフェチシズム
八重子や大也のエピソードはマイノリティの生きづらさを示していて、それは夏月と佳道も同様だ。二人は中学の時の同級生で、二人とも特殊なフェチを抱えている。二人はそれぞれに誰にも言えない秘密を抱えて生きてきたわけだが、佳道が地元に戻ってきたことで二人は再会することになる。夏月と佳道との関係は奇跡のような出来事なのかもしれない。
二人はどちらも水フェチだ。このフェチをすんなりと理解することはなかなか難しい。Wikipediaによれば、フェチシズムとは、もともとは「呪物崇拝を指す言葉であるが、現代では通常よりも強く性的興奮を引き起こす特定のものや状態を表す言葉として用いられる事が多い」とされる。
ただ、夏月と佳道の場合は、水フェチが性的なものと結びついているわけではなさそうだ。実はこの水フェチは大也が抱えていたものでもある。大也の場合はそれに性的に興奮を抱いているように見えるシーンもあるから、人それぞれということなのかもしれない。
夏月と佳道は水フェチで結びついたというよりは、誰にも言えない秘密を抱えているという点で同志となる。二人は擬装的に結婚し、共同生活を送ることで、真っ当な生き方をしているフリをすることができるようになったのだ。
二人は劇中では夏月と佳道は結婚しても性的には求め合うことはなく、じゃれ合う程度に収まっている。ただ、二人はじゃれ合う中でハグすることの素晴らしさを発見することになる。
性的な接触はなくとも、ハグし合うことは二人にとって何か特別なものとなり、そのことを知ったあとはもうひとりには戻れない。そんな感情を抱くことになるのだ。二人はかなり特殊なフェチの持ち主ということになるけれど、この部分では誰もが理解できる普遍的なものがあったような気もする。
普遍性と多様性
そんなふうに『正欲』についての感想を書いてみて気になったのが、マイノリティを描いているという点で本作と共通する部分がないわけではない『怪物』についてだ。『怪物』の作品の中身というよりも、公開された時に一部で話題になった是枝裕和監督の発言についてだ。
イギリスのメディアからの「日本ではLGBTQなど性的少数者を扱った映画は少ないのでは」との質問に対し、是枝監督は「LGBTQに特化した作品ではなく、少年の内的葛藤の話と捉えた。誰の心の中にでも芽生えるのではないか」と答えたのだが、それは一部で問題とされたようなのだ。
正直に言えば、私はこの発言の何が問題だったのかよくわからなかった。たとえばLGBTQ当事者であるクザヴィエ・ドランは自分の作品『マティアス&マキシム』を「普遍的なラブストーリー」などと言ったりもしているわけで、ごく普通の発言とも思えたのだ。
是枝監督は特殊な人たちの話というわけではなく、もっと普遍的な話だと説明したわけだ。人が人を愛するという意味では、異性愛も同性愛も何の違いもないわけで、それは普遍的な話だというわけだろう。
それでもLGBTQ当事者としては、自分たちの存在が否定されたようにも感じるということのようだ。もしかすると当事者であるクザヴィエ・ドランが言うのと、非当事者と思しき是枝監督が言うのでは意味合いが変わるのだろうか。
自分の理解力のなさもあり、何が問題となっているのかが気になって色々とネットの文章を読んでみたけれど、以下のサイトの文章はわかりやすくて納得させられた気もする。この文章の筆者はこんなたとえ話をしている。
ヨーロッパの白人監督がアジア人差別を描いた映画があったとし、その監督が「これはアジア人差別を描いていますが、もっと普遍的なものを描いているのです」と言ったとしたら、アジア人はモヤモヤするんじゃないかというのだ。確かにこれならわかる気もする。
この文章の筆者は、是枝発言の問題を、「現実にいる同性愛者を透明化してしまう」と表現しているが、このたとえ話を聞くと何か大事なことが見えなくなってしまっているような感じがする。私自身が日本人として、このたとえ話の当事者だからだろうか。多分、LGBTQ当事者の人が感じていることもそういうことだということなのだろう。
「普遍」とは何か? これを辞書で引いてみると「例外なくすべてのものにあてはまること」とある。そして、対義語は「特殊」ということになる。『正欲』がテーマにしていた「多様性」というものは、様々な価値観を認めていこうとすることだろう。当然「特殊」なものも認められることになるし、LGBTQの運動もそうした流れの中にある。
多様性を認めるということと、「普遍」という考え方はまったく別のベクトルにあるということなのだろう。だとすればLGBTQという多様性を認める方向の作品を作っておきながら、「誰にでもあてはまる」という言い方をしてしまうのはおかしいということになるのだろう。
ただ、指摘されてみないとその矛盾に気づかないような気もする。というのは、これは是枝発言だけの話ではないわけで、私自身も「普遍的な作品」という言い方をしてきたからだ。多分、マイノリティを描いた映画にもそんな言い方をしたこともあったと思う。この言い方自体は、多くの人に受け入れられる作品であるという褒め言葉にもなっているからだ。これも無自覚な非当事者だからこそということなのかもしれない。
しかしながら作品を作る側からすれば、マイノリティを描いたとしても、それを多くの人に観てもらいたいだろう。「マイノリティのためのマイノリティ映画」というものもあるのかもしれないけれど、それは閉じた作品になってしまっているということでもあるわけだから。
夏月のメッセージ
ここでもう一度『正欲』に戻れば、最後にマジョリティの権化たる検事の寺井と水フェチの3人は相対することになる。水フェチ自体は罪ではないけれど、たまたまグループに参加した男が小児性愛を併発していたことから巻き添えを喰らった形だ。
3人の態度はそれぞれ異なる。大也と佳道は逮捕されるものの、大也は寺井に何も言うことはないが、佳道は正直に水フェチのことを語るものの、寺井はそれを質の悪い言い訳としか受け取らない。
参考人として呼ばれた夏月は、佳道に配慮して具体的なことを言うことは避ける。それでも夏月は「いなくならないから」という言葉を佳道に伝えてくれるように、寺井に告げることになる。しかし、伝言は検事から伝えられないことになっているわけで、この言葉は寺井に向かって告げられているということになる。
もちろんマイノリティがその心の内をほかの多くの人に説明する必要などない。夏月は寺井に何も言わずに帰ることだってできたはずだ。それでも夏月は寺井にそのメッセージを告げたわけで、マイノリティをまったく理解しようとしない寺井でも、その言葉から何かを感じるだろうという希望が込められていたようにも感じたのだがどうだろうか?
水フェチとは一体どんなものなのか。そのあたりはよくわからないままだったのだが、これは特殊性というものを高めるためなのか、単にハズしてしまっているのかはよくわからなかった。これも「無自覚な非当事者だから」と言われてしまえば、もう何も言えないけれど、それでも本作は多様性というものを考えるきっかけにはなっているんじゃないだろうか。
テレビドラマの『逃げるは恥だが役に立つ』のガッキーしか知らない者としては、笑顔のイメージしかなかったわけで、笑顔を知っている分、あんなふうに睨まれたら余計に怖い気もした。そんな意味で、意外なガッキーが拝める作品になっていることは間違いない。
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