監督は『万引き家族』などの是枝裕和。
脚本は『花束みたいな恋をした』などの坂元裕二。
音楽は今年3月に亡くなった坂本龍一で、坂本にとっての遺作となった。
カンヌ国際映画祭では脚本賞(坂元裕二)を受賞した。
物語
大きな湖のある郊外の町。
息子を愛するシングルマザー、
生徒思いの学校教師、そして無邪気な子供たち。
それは、よくある子供同士のケンカに見えた。
しかし、彼らの食い違う主張は次第に社会やメディアを巻き込み、大事になっていく。
そしてある嵐の朝、子供たちは忽然と姿を消した―。
(公式サイトより抜粋)
一体誰が怪物か?
ラガーマンだった旦那が亡くなりひとりで息子を育てている麦野早織(安藤サクラ)は、息子の湊(黒川想矢)の異変に気づく。なぜか髪を切り、水筒の中にはドロが入っていたり、靴が片方なくなったりする。さらには車から飛び降りるという自殺めいた行動をしたり、生まれ変わりについて尋ねたりもする。早織は湊に何があったのかを問い詰めると、湊は学校の先生からの暴力について語ることになる。
これを知った早織は息子を守るために学校へと向かうことになるのだが、それに対応する側の学校の態度がかなり酷い。校長(田中裕子)以下先生たちも「事なかれ主義」で、事を荒立てないようにするばかりで、早織と真剣に向き合おうという気になっていないのは見え見えだからだ。そして、暴力を振るったとされる保利先生(永山瑛太)も一応頭は下げるものの、全然反省している様子もない。
保利は誤解が生じてしまったことは申し訳ないと謝罪しているのだが、早織が聞きたいことはそんな言葉ではない。湊が先生から暴力を受けたというのならば、それに対しての謝罪が欲しいわけだが、保利はその事実を認めようとはしないのだ。
タイトルは「怪物」となっているし、子どもたちの遊びの中でも「怪物だーれだ?」と連呼されたりしているわけで、観客としては登場人物の中で「一体誰が怪物なのか?」という疑問を抱くことになる。
息子のためにモンスターペアレントと化す早織がそれなのか、あるいは事なかれ主義に徹するあまりロボットのように決められた文言を繰り返す校長なのか、あるいは反省する様子もない若い保利先生なのか。観客としてはそんなふうに怪物探しをすることになる。
ラショーモンアプローチ
そんな学校でのトラブルから『怪物』はスタートするのだが、実は3部構成になっている。第1部では被害者となった湊の母親・早織の視点から描かれる。しかし、続く第2部では教師の保利先生の視点から描かれることになると、第1部で見えていたものが別様に見えてくることになる。さらに第3部では湊の視点から同じ出来事が振り返られることになる。
つまりは「ラショーモンアプローチ」の作品ということになる。このスタイルでは一昨年の『最後の決闘裁判』がとても完成度の高い作品となっていたわけだが、本作もそのスタイルを借りているのだ。
第1部で教師の暴力を訴えることになる早織は、シングルマザーとして大切な息子を守るためということで、学校で大騒ぎすることも理解できないわけではない。多分、早織の役割は騒ぎのとっかかりを作るというもので、それ以降はフェードアウトしていく。
しかし、その第1部で理解できないのは、学校側の態度だろう。特に反省文を言わされているだけといった感じのやる気のない謝罪をした保利先生には違和感が残る。しかし、その違和感は第2部で視点が保利へと移行すると変化することになる。
保利先生が湊を叩いてしまったのは事実だが、それは湊が教室で大暴れしたことがあったからだ。保利がそれを止めるために割って入った時に、誤って手が顔にぶつかってしまっただけだったということになる。保利の視点からすると、湊は何かしらの悩みを抱えていて、それが暴力的な衝動になっているというふうに見える。そして、いくつかの出来事から保利は湊が星川依里(柊木陽太)という生徒をいじめていると判断する。
だから保利としては、いじめっ子に対して指導したつもりが、その子の親からの苦情へとつながってしまったと理解していたわけで、早織に素直に謝罪できなかったのも納得できなくもないというわけだ(保利は学校から湊がいじめをしていたことには触れるなと口止めされている)。
そうなると突然暴れ出したりする湊こそが怪物なのか、そんなふうに見えてくることになるわけだが、第3部へ移行するとそれも否定されていくことになる。
※ 以下、ネタバレもあり!
それぞれの秘密
第3部で明らかになるのは、子どもには子どもの事情があるということだろうか。本作は、キモとなる部分が嵌められていないパズルみたいな状態からスタートし、後半に行くに従って次第に穴が埋まっていき、最後に全体像が見えてくるような構成になっている。腑に落ちなかったことがピースが嵌ることで次第に理解できるようになっていくのだ。
第3部で描かれる湊と依里の関係は、それが秘密にしなければいけないような関係だったからということになる。これは私には意外なものにも思えたのだが、本作がカンヌ映画祭で脚本賞以外に受賞した賞が何だったかを考えれば、最初からネタバレしているみたいなものなのかもしれない。
湊には秘密があり、それは母親にも言えないものだった。だからこそ湊の態度は母親・早織からも不穏なものと感じられてしまうことになる(それでも早織は湊を信じることになるわけだが)。
それから学校の「事なかれ主義」を象徴するような校長だが、彼女の秘密も明らかになる。校長は学校を守るために、自分の罪(孫を誤って轢き殺してしまったこと)を旦那にかぶってもらったようだ。校長にとっては学校を守ることがすべてで、そのために保利先生にも暴力行為があったか否かという真実よりも、彼に犠牲になってもらって学校を守ることを求めることになる。
しかし、校長は湊が秘密を抱えていることを知り、それが保利先生から暴力を受けたという嘘につながっていることに気づく。それでも校長は自分も秘密を抱えているからか、湊に対してその嘘を責めることはなかった。この“秘密”というものは、本作では重要な役割を担っている。
こちら側とあちら側
冒頭、湊のマンションの部屋からの夜の風景が映し出される。この風景は二度登場していたと思うのだが、そこには眼下に広がる光の連なりが見える。その光はふたつの帯のように広がっていて、手前の帯とその向こう側の帯の間には暗闇が広がっている。こちら側とあちら側は分断されているということだ。これは本作のテーマを示している場面のようにも感じられた。
この夜の風景の暗闇の部分は川なのかとも思っていたのだが、本作が撮影されたのは長野県の諏訪湖だということだから、暗闇の部分は諏訪湖だったのかもしれない。とりあえずは、実際の撮影場所はともかくとして、本作で描かれる光の帯はこちら側とあちら側で分断されていて、間には暗闇が広がっているという点が重要だ。
こちら側とあちら側とは何だろうか? それは大人と子どもということなのかもしれないし、教師と生徒なのかもしれないし、学校側と保護者のことなのかもしれない。あるいはマジョリティとマイノリティかもしれない。確かにこれらのふたつの立場には違いがあって、それは分断されているのかもしれない。
しかし、本作が示しているのは、最初は怪物と思われた登場人物も、視点が変われば理解できる“何か”を抱えていることだった。もしかしたら誰からも理解されない人がいたとしても、その人が人に言えない“秘密”を抱えているからであるのかもしれないわけだ。
もちろん人は完全に他人の立場に立てるわけではないし、誰にも言えない“秘密”をおいそれとみんなで共有するわけにもいかないだろう。それでも本作においては、第2部の最後において希望が描かれているようにも感じられる。
保利先生は依里が書いた作文から、湊と依里の関係に気づくのだ。そして、保利は早織と一緒になって、ふたりが誰にも秘密にしていた場所までたどり着くことになる。これは怪物と見られていた人物が実は理解できる存在であったように、あちら側とこちら側がつながる可能性というものを示していたんじゃないだろうか(冒頭の描写が諏訪湖の夜を描いたものだとしたら、あちら側とこちら側は遠回りすればたどり着ける場所ということでもある)。
ラストの二種類の解釈
ただ、先ほど記した希望には疑問も生じる。というのは、第2部の最後で保利と早織は山の奥にある打ち捨てられた電車にたどり着くけれど、そこにふたりの姿は発見できなかったからだ。その電車は折からの大雨で土砂崩れに巻き込まれたようにも見え、そこにふたりの姿が見えないまま、第3部へ入り湊の視点へと移行していく。
そして、第3部の最後では、湊と依里のふたりは泥だらけになりながらも、電車から抜け出したようで、晴れ渡った山の上をふたりで走り去っていくことになる。このラストシーンの描写には二種類の解釈があるんじゃないだろうか。単純に湊と依里が土砂崩れの災害から脱出していたハッピーエンドというのがひとつの解釈で、もうひとつは妙に晴れやかなふたりの姿が生まれ変わったあの世のふたりだったという解釈だ。
多分、単純に希望を謳い上げるラストにするのであれば、湊と依里が早織たちと再会するラストになるはずだろう。ところが本作は二つの解釈が成立するようなラストになっている。これは湊と依里を怪物にしてしまうのは、こちら側次第だからということだろう。本作が描いていたのは怪物を産み出しているのは、その人に対する周囲の無理解ということだったはずだ。その人の立場に立って考えることができれば怪物なんて存在しないかもしれないのだ。
しかし人は完全に他人に成りきることはできないし、その他人は人に言えない秘密を抱えているかもしれない。だからあちら側(怪物)とこちら側(周囲)は分断されているようにも感じられるけれど、実際には理解できる可能性はあるはずだ。それが保利が依里が作文に埋め込んでいた謎を解読するシーンにもつながってくる。
湊と依里のふたりを怪物として孤立させれば、ふたりが生まれ変わりを望んでしまうようなことにもなりかねないわけだけれど、理解できないものを拒絶してしまうのではなく、遠回りしても理解しようと努力することができれば再びふたりとつながることができるということでもあるのだろう。つまりラストがどちらの解釈になるのかは、周囲の側に委ねられているということであり、どちらの終わり方にもなり得るということなのだ。
本作は「ラショーモンアプローチ」を借りながらも、それだけでは終わらないとても練り上げられた脚本だったんじゃないだろうか。カンヌでの脚本賞受賞も伊達ではない。
ここではあまり触れられなかったけれど、湊と依里を演じた黒川想矢と柊木陽太のふたりもよかった。それぞれの個性が活かされているように感じられたのは、やはり是枝裕和監督の手腕ということだろう。
そして、亡くなった坂本龍一のシンプルな音楽も印象的。「20220207」という曲が耳に残ったのだが、これは今年発表されたばかりのアルバムから採られているらしい。曲名は日付を記しているだけで、これ以上ないくらいシンプル。
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