原作は北國浩二の『嘘』。
監督は『生きてるだけで、愛。』の関根光才。
主演は『キングダム 運命の炎』などの杏。
物語
絵本作家の千紗子(杏)は、長年絶縁状態にあった父・孝蔵(奥田瑛二)が認知症を発症したため、渋々田舎に戻る。他人のような父親との同居に辟易する日々を送っていたある日、事故で記憶を失ってしまった少年(中須翔真)を助けた千紗子は彼の身体に虐待の痕を見つける。少年を守るため、千紗子は自分が母親だと嘘をつき、一緒に暮らし始めるのだった。次第に心を通わせ、新しい家族のかたちを育んでいく三人。しかし、その幸せな生活は長くは続かなかった─。
(公式サイトより抜粋)
『かくしごと』の設定は?
主人公の千紗子(杏)は東京で絵本作家の仕事をしていたものの、父親・孝蔵(奥田瑛二)の都合で山深い田舎に帰らざるを得なくなる。孝蔵は認知症で裸同然の格好で徘徊していたところを保護されたらしい。千紗子は孝蔵とは絶縁状態にあり、久しぶりに再会した娘の姿を見た孝蔵は、彼女に「どちらさまですか?」などと言い出すことになる。
千紗子はそんな父親の姿を見てもあまり動じた様子もない。今さら父親ぶったフリをされるよりも、お手伝いさんか何かと思われていたほうがやりやすいということらしい。千紗子は孝蔵の介護認定を済ませ施設に入れてしまえば、また東京での仕事に戻ろうとしていたのだ。
そんな時にある事件が発生する。友人の久江(佐津川愛美)と飲みに行った帰り、車で見知らぬ少年(中須翔真)にぶつかってしまったのだ。久江が飲酒運転だったということもあり、救急車を呼ぶことは憚られ、仕方なく千紗子は少年を自宅へと連れ帰ることになる。
ところがその少年の身体には無数のアザがあり、虐待されていることが推測される。少年をこのまま家に帰すことは、虐待の事実を見て見ぬフリをすることになってしまう。千紗子はそれを防ぐために、少年を自分の子供として育てることにするのだ。というのも、少年は事故によって記憶を喪っていたようで、過去のことはまったく覚えておらず、千紗子の嘘を信じさせればいいということに気づいたからだった。
虚構が映し出すもの
こんなふうに本作の設定にはかなり強引な部分がある。もしかするとその部分で最初にリアリティがないと感じ、醒めてしまう人もいるかもしれない。それでも好意的に解釈すれば、そうした虚構の設定によって浮かび上がらせようしている“何か”が存在するということでもあるのだろう。
虐待されている子供を助けるにはどうすればいいか? 実際にこれをやろうとすると難しい問題が生じることになるだろう。子供の虐待は家庭内という外部からは見えない場所で行われるものであり、よそ様の家庭内の出来事に行政であれ何であれ部外者が横槍を入れるのを認めさせることはそれほど簡単ではないということだ。
千紗子はそれを理解しつつも、どうしても少年を助けようとする。その少年の本名については、ニュース報道で明らかになるのだが、千紗子は自分の書いた絵本の中の主人公の名前を彼につけることになる。“拓未”というのがその名前だ。「未来を切り拓く」という意味が込められている。
千紗子は拓未の両親についても、嘘をでっち上げて調べ、その上で拓未を自分の子供として育てることを決心する。久江が指摘するように、千紗子のやっていることは誘拐ということになるだろう。それでも法律の縛りを乗り越えてでもやらなければいけないと覚悟するのだ。
千紗子は自分が逮捕されたりする可能性があることを知りつつも、拓未を助けるためにそれを“良し”として受け入れることになる。このことは現在の児童保護の法律がきちんと整備されていないということを訴えるという意味もあるのだろう。
認知症と記憶喪失
それから本作の設定において意図的にアレンジされているのが、認知症の孝蔵と記憶を喪った拓未という組み合わせだろう。どちらも「過去を喪っている」という意味では似たような立場にあるのだ。
孝蔵は久しぶりに再会した千紗子を娘と認識できない様子だった。ところがそれは孝蔵の嘘だったことがのちに示されることになる。もちろん認知症自体は嘘ではないわけだが、孝蔵は千紗子との関係がうまくいっていないことを認めることができなかったのだ。
孝蔵は認知症の混濁した頭で、ある時、千紗子のことを亡くなった奥さんと勘違いし、そうしたことを漏らすことになる。また、医者であり孝蔵の友人でもある亀田(酒向芳)によれば、認知症になりやすい人というのは真面目な堅物が多いらしく、孝蔵というのはまさにそのタイプだということになる。
そんな孝蔵からすると、大学時代に「できちゃった婚」で子供を授かった千紗子のことを簡単に受け入れることができなかったのだ。それがふたりが絶縁することになる要因となっている。真面目な孝蔵からすれば、娘との関係がうまくいかないといった失敗は受け入れがたい。そして、それは大きな苦しみでもある。ところが認知症というのはそれを忘れさせてくれることになるわけで、孝蔵にとって一種の救いになっているのだ。
このことはそのまま拓未の状況にもつながってくる。拓未は親から虐待を受けていたわけで、そんな過去をうまく断ち切ることができれば、それに越したことはないということだ。そんなふうに思うのは、千紗子がかつて子供を水難事故で亡くしたこととも関わってくる。千紗子は未だにそのことを忘れられないでいたわけで、だからこそ拓未には過去を断ち切って未来を生きることを望んだということになる。
「忘却は救いなり」と書いたのは太宰治だったが、本作で認知症と記憶喪失の少年が組み合わせられているのは、そのことを強調するためだったということになる。
細部と全体と
ラストに至る展開はなかなかゴチャゴチャしている。拓未の父親(安藤政信)が現れて千紗子に金を要求するということになるからだが、そこから先は一応は伏せておくことにするけれど、かなり盛りだくさんな内容になっている。
本作は最初のきっかけには飲酒運転による事故があり、さらにはそれが誘拐につながり、詐欺めいた探偵ごっこがあり、ラストの大騒動へと結びついてくる。子供を助けるために法律さえも乗り越えてしまうというのが、本作のキモというわけだが、普通の人はそう簡単にはそれを乗り越えられないものなんじゃないだろうか? 自分にとって不利益になることがわかっているわけだから……。
にも関わらず、本作は易々と法律を乗り越えていくわけで、すでに最初にも断ったように、そこがリアリティに欠けているように感じられてしまうことも確かだろう。幕切れはなかなか鮮やかと言えなくもないし、ある「かくしごと」が明らかになる部分は感動的だったかもしれないけれど、そもそものリアリティのなさが仇になってしまっている。最後の感動さえも、それが作為的なものにも思えてしまい、素直に受け取ることができなかったのだ。
関根光才監督の前作『生きてるだけで、愛』は、うつ病のリアルな姿を捉えていたように感じられたし、主演の趣里の熱演もあってその年のベスト10にも挙げていたので、『かくしごと』がリアリティに欠ける作品と思えたのは、観る前の期待の大きさもあってちょっと残念だった。
拓未の最後の表情はそれまでと違ったものになっていてうまかったと思うし、途中で拓未の言葉に不安を覚えるあたりの杏の絶妙な表情もラストに向けての伏線としてよかったんじゃないだろうか。ほかにも医者の佇まい(ゴールデンベアのポロシャツ!)など細部はとてもリアルなのだけれど、全体的に嘘っぽくなってしまっているというのが……。
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