『17歳』、『Summer of 85』などのフランソワ・オゾン監督の最新作。
1972年のライナー・ヴェルナー・ファスビンダーの『ペトラ・フォン・カントの苦い涙』のリメイク。
原題は「Peter von Kant」。
物語
著名な映画監督ピーター・フォン・カント(ドゥニ・メノーシェ)は、恋人と別れて激しく落ち込んでいた。助手のカール(ステファン・クレポン)をしもべのように扱いながら、事務所も兼ねたアパルトマンで暮らしている。ある日、3年ぶりに親友で大女優のシドニー(イザベル・アジャーニ)が青年アミール(ハリル・ガルビア)を連れてやって来る。艶やかな美しさのアミールに、一目で恋に落ちるピーター。彼はアミールに才能を見出し、自分のアパルトマンに住まわせ、映画の世界で活躍できるように手助けするが…。
(公式サイトより抜粋)
ファスビンダーのリメイク
フランソワ・オゾン監督はすでに『焼け石に水』(2000年)という作品でライナー・ヴェルナー・ファスビンダーの未発表の戯曲を映画化している。本作は約20年ぶりに再びファスビンダーに取り組むことになったということらしい。それほどオゾンがファスビンダーから大きな影響を受けているということなのだろう。
『ペトラ・フォン・カントの苦い涙』(以下、『ペトラ』と表記)は女性だけしか登場しない映画だった。一方のリメイクである『苦い涙』は、主要なキャストが女性から男性へと変更されている。女性同士の愛の話から、男性同士の愛の話へと変えられているのは、ゲイであることを公表しているフランソワ・オゾンが主人公のキャラクターを自分のほうに寄せているのだろうと思っていたのだが、実はそういうわけではないらしい。
オゾンのインタビューによれば、オゾンは『ペトラ』をファスビンダーの自伝的な作品として捉えているようだ。ファスビンダーはそれを隠すためなのかどうかはわからないけれど、『ペトラ』を女性たちの話として描いたということらしい。オゾンとしては自伝的だと思われる『ペトラ』を現実に即した形で描き直してみたということになる。
そのために主人公ピーターを演じるのは、ファスビンダーと風貌がよく似ているドゥニ・メノーシェになっている。オゾンは敬愛する映画監督であるファスビンダーを、本作の主人公ピーターと重ねて描いているということになるのだ。
権力を持った年長者
『苦い涙』は、基本的に『ペトラ』にほとんど忠実にリメイクされている。上映時間は124分から85分に大幅に短縮されているから、細かい部分はかなりカットされているのだろう。オゾンは主人公にファスビンダーを重ねているわけで、それに伴って職業も変更されている。『ペトラ』の主人公ペトラがファッション・デザイナーだったのに対し、本作のピーターは映画監督という設定だ。しかし主人公の職業は変わっても、作品の大枠は同じだ。
ピーター・フォン・カントはすでに成功した映画監督だ。彼はデビュー作で大物女優シドニー(イザベル・アジャーニ)を起用して成功し、今では引く手あまたの状態だ。ピーターはシドニーがたまたま連れてきたアミール(ハリル・ガルビア)という青年に夢中になってしまう。そして、ピーターはすぐに次回作に出演してみないかといった殺し文句でアミールを誘うことになる。
成功した年長者ピーターは、若くて魅力的な若者アミールにチャンスを与えてやることになる。ピーターは自らの権力を都合よく利用するのだ。もちろんそれには対価がつきもので、アミールはピーターの支配に甘んじることになるのだろう。
ところが、場面が変わるとすでに状況は変わっている。アミールのほうにもしたたかさがあり、彼はピーターのことを踏み台にしてさらなる成功を求めていくことになる。そうなると困惑することになるのはピーターで、彼は愛するアミールのことを手放したくないわけで、どんどん不機嫌になり周囲を呆れさせるほど面倒な存在になっていく。
オリジナルとの差異
こうした大枠は『ペトラ』と同じだが、細部では色々と変えられている。これは主要なキャストが女性から男性に変化したため、それに合うような雰囲気づくりがされているということなのだろう。たとえば音楽は予告編でも聴かれるWalker Brothersの「孤独の太陽」が使われているのは同じだが、ほかの曲は差し替えられている。
それから『ペトラ』では寝室に「ミダス王とバッカス」の絵が飾られていたのだが、本作にもそれは登場するのだが控えめな形になっていて、その代わりに「聖セバスチャンの殉教」と同じポーズをしたアミールの写真が印象的に登場する。
「聖セバスチャンの殉教」は三島由紀夫も『仮面の告白』で取り上げているし、実際に自分もその格好で写真を撮ったりしている題材だ。男性同士の愛を描く上では、こちらのほうが相応しいという判断なのだろう。何となくそれは理解できる気もする。
しかしながら、最もオリジナルとの違いを感じるのは、本作が喜劇のようにも見えるところではないだろうか。『ペトラ』の主人公ペトラの乱れっぷりは痛々しくて笑えるところなどないのだけれど、本作のピーターのそれはなぜかちょっと笑えてしまうのだ。
ピーターを演じているドゥニ・メノーシェは巨漢の強面だ。そんな彼が若造に翻弄されて、正気を失うほど恋に身悶えする。相手を罵ってみたり、急にいじけてみたり、終いにはみっともないほど暴れてみたりするその様子がちょっと愛らしいものにも映るのだ。そこがオリジナルとはまったく異なるところだろう。
偉大で、クソな、ピーター
ファスビンダーのことを詳しく知っているわけではないのだが、その経歴を見ると驚かされるのが、その精力的な活動の成果だろう。Wikipediaによれば16年間で44本の映画を撮り、そのほか14本の戯曲なども発表していたらしい。37歳という若さで亡くなることになったようだが、とんでもない活動実績だろう。それだけエネルギッシュに生きていた人なのだろうし、だからこそ周囲のことは疎かになっていたのかもしれない。
『ペトラ』には主人公ペトラに付き従うマレーネという女性がいて、『ペトラ』はマレーネを演じた女優に捧げられている。ペトラはマレーネを奴隷のように扱っていて、それでも彼女は自分を愛しているから構わないといった傲慢な態度だったわけだが、そんな周囲に対する態度を反省する意味も込めて、『ペトラ』は彼女に捧げられていたということなんだろうか?
本作のピーター=ファスビンダーもかなり傲慢な人物で、傍迷惑なやつということになるだろう。監督というのは、ちょっとした“独裁者”みたいな側面がある。これは監督であるオゾンがインタビューで語っている言葉である。監督は多くの決断を迫られる仕事だろう。それは多くの決定権があるということでもあり、“独裁者”になりやすいということにもなる。
オゾンはシドニーに、ピーターのことを「偉大な映画監督であり、クソ人間」であると言わせている。昨今の映画業界を見ていると、そんな言葉が似つかわしい映画監督も少なくないのだろうし、かつてはもっと酷かったのかもしれない。だからこそオゾンとしても自嘲気味にピーターにそんな言葉を投げかけているのだ。
ピーターはファスビンダーをモデルとしているわけだけれど、それと同時にオゾン自身の姿も混じっているのだろうと思う。ピーターが映画業界について愚痴る台詞は、もしかしたらオゾンも感じていたことなのかもしれない。それまでは見向きもしなかったくせに、評価されるようになると手の平を返したように群がってくる取り巻きとか、新作公開の際には常に不安がつきまとうばかりで映画業界にはもううんざりといった台詞だ。妙に細部が具体的なのは、オゾン自身の愚痴がちょっと漏れ出てしまったものだろうか。
ピーターに従順に付き従うことになるカールを演じたステファン・クレポンは台詞はなかったけれど佇まいが良かった。『ペトラ』で主人公ペトラを狂わせることになるカーリンを魅力的に演じていたハンナ・シグラも、ピーターの母親役として登場したりもする。それでもやはり本作は、出突っ張りのドゥニ・メノーシェという役者を堪能するような作品になっているんじゃないかと思う。
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