『Summer of 85』 自分が死んだら何をして欲しい?

外国映画

監督・脚本は『まぼろし』『グレース・オブ・ゴッド 告発の時』などのフランソワ・オゾン

原作はエイダン・チェンバーズの小説『おれの墓で踊れ』

原題は「Ete 85」。

物語

セーリングを楽しもうとヨットで一人沖に出た16歳のアレックスは、突然の嵐に見舞われ転覆してしまう。そんな彼に手を差し伸べたのは、ヨットで近くを通りかかった18歳のダヴィド。運命の出会いを果たした二人だが、その6週間後に、ダヴィドは交通事故で命を落としてしまう。

永遠の別れが訪れることなど知る由もない二人は急速に惹かれ合い、友情を超えやがて恋愛感情で結ばれるようになる。アレックスにとってはこれが初めての恋だった。互いに深く想い合う中、ダヴィドの提案によって「どちらかが先に死んだら、残された方はその墓の上で踊る」という誓いを立てる二人。しかし、一人の女性の出現を機に、恋焦がれた日々は突如終わりを迎える。嫉妬に狂うアレックスとは対照的に、その愛情の重さにうんざりするダヴィド。二人の気持ちはすれ違ったまま、追い打ちをかけるように事故が発生し、ダヴィドは帰らぬ人となってしまう。悲しみと絶望に暮れ、生きる希望を失ったアレックスを突き動かしたのは、ダヴィドとあの夜に交わした誓いだった─。

(公式サイトより引用)

出会いから別れまで

冒頭、アレックス(フェリックス・ルフェーヴル)が語り始める。アレックスは警察のご厄介になっているのだが、それにはダヴィド(バンジャマン・ヴォワザン)という青年の死が関わっているらしい。しかし、具体的なことをアレックスは語ろうとしない。それはアレックスと亡くなったダヴィドとの問題であり、ほかの人は関係ないことだからだ。

それでも罪に対しては何らかの罰則を与えることになっているわけで、警察としてはアレックスがなぜそんなこと(この段階ではどんなことをしたのかも不明)をしたかの申し開きを聞くことが必要となる。

進路指導のルフェーヴル先生(メルヴィル・プポー)はアレックスの文才を認めていて、彼がしたことやその時の感情を小説の形で記すことを提案する(何も言わずにいればアレックスにとっては不利になり、更生施設に入れられることになりそうだから)。

それによってアレックスは自分がしたことを見つめ直すことができるし、なぜそんなことをしたかの説明にもなる。さらには二度と会うことのできないダヴィドにその小説の中で会うことができるようになるからだ。そんなふうにして出会ってから6週間で永遠に別れることとなったダヴィドとの関係が、アレックスの視点から語られていくことになる。

(C)2020-MANDARIN PRODUCTION-FOZ-France 2 CINEMA–PLAYTIME PRODUCTION-SCOPE PICTURES

フランソワ・オゾンの原点

フランソワ・オゾンにとってこの映画の原作である『おれの墓で踊れ』は、自分の最初の映画にしたいとまで考えていた作品だったらしい。オゾンはこんなふうに語っている。

『グレース・オブ・ゴッド 告発の時』の撮影を終えたあと、思い立って読み返してみたら、驚いた。『サマードレス』や『彼は秘密の女ともだち』の異性装、『まぼろし』の霊安室のシーン、『危険なプロット』の主人公と大学教授との関係、『婚約者の友人』の墓地と、僕は知らず知らずのうちにこの作品のテーマを映画に取り入れていたんだ。この小説のおかげでイメージを膨らませられたことに、まったく気づいていなかった。

知らず知らずの内にオゾン映画の原点のようになっていたのが『おれの墓で踊れ』だったというわけだ。特に初期の短編『サマードレス』は明らかにこの小説から影響を受けて作られたものに思えた。

『Summer of 85』では、ダヴィドの死を確かめるために死体を安置した場所に忍び込むのだが、その際警備員を納得させるためにアレックスは女装をする。アレックス自身も疑問を感じているように、これはちょっと説得力に欠ける。亡くなった青年と再会するのは女の子でなければならないというのだが、アレックスの乱心ですぐに女装はバレてしまうことになる。

(C)2020-MANDARIN PRODUCTION-FOZ-France 2 CINEMA–PLAYTIME PRODUCTION-SCOPE PICTURES

このシーンはLGBTQに対する偏見というよりは、単に女装をするきっかけにすぎないのだろう。それでも多分オゾンはそこが気に入っているのか、初期の短編『サマードレス』でこれとそっくりの場面を描いている。ドレスの色合いや、女装のまま自転車で疾走するところまで一緒なのだ。『サマードレス』を撮影した時のオゾンの頭にあったのは『おれの墓で踊れ』という小説の一場面であり、今回それを映画化するに当たってもかつて抱いていたイメージを変えることなく繰り返したのだろう。そのくらい鮮明なイメージを持っていたということだ。

『サマードレス』の主人公は着るものがなくなって仕方なく女装したにも関わらず、なぜかそれが楽しくてしょうがないように見えたし、『Summer of 85』のアレックスには女装好きのおじさんがいるらしく、もしかするとこのことをきっかけにしてそっちの趣味に目覚めるということであるのかもしれない。

『おれの墓で踊れ』はふたりの青年の同性愛をテーマにしているという点でもオゾンの興味を惹いたのだろうし、最初に映像化したいイメージという点でもオゾンにとって重要な作品なのだ。

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本気の浮気?

ここでふたりの関係の結末を記しておけば、アレックスが「終わりの始まり」と語るイギリスの女の子ケイト(フィリッピーヌ・ヴェルジュ)の登場がきっかけとなる。要はダヴィドがケイトと浮気をしたことで、それに嫉妬したアレックスがダヴィドを問い詰め、ふたりは衝突することになる。これがダヴィドをバイクでの交通事故死へと駆り立てることになるのだ。

ダヴィドとアレックスがどういう関係だったかを示すシーンとして、『ラ・ブーム』のラストをそのままなぞったようなシーンがある。ここではアレックスは『ラ・ブーム』で言えばソフィー・マルソーの側になっている。つまりは恋に恋する女の子といった役柄なのだ。アレックスにとってダヴィドは最初の人であり、最初の恋に酔っている。だからダヴィドが亡くなった後にケイトに指摘されるように、ダヴィドに理想を求めすぎたところがあったのだろう。

ケイトとのことがあった後、ダヴィドは「お前には飽きた」とアレックスを突き放すわけだが、その時なぜかその目からは涙がこぼれている。ダヴィドとしてはアレックスが嫌いになったわけではなかったのだろう。ただ、同時にケイトも好きだったということであり、束縛されるのは堪らないということなのだ。これはまさに浮気者の言い訳に過ぎないわけだが、浮気者は浮気者なりに本気で浮気に精を出していたのかもしれない。だからアレックスを失いそうになった焦りがバイクを走らせ事故へとつながるのだ。

(C)2020-MANDARIN PRODUCTION-FOZ-France 2 CINEMA–PLAYTIME PRODUCTION-SCOPE PICTURES

死の観念に憑りつかれた青年?

本作はアレックスが死に憑りつかれているなどと語られもし、何かしらおぞましものを想像させるのだが、実はアレックスがやったことは墓の上で踊っただけだ(その際、隣の墓石をひっくり返したりはしたけれど)。

このエピソードで感じられるのはアレックスの死という観念への執着ではなくて、ダヴィドとの約束を守ろうとする純粋さだろう。その意味で極めて健全で真っ当な青春映画なのだ。

同性愛を描くとマイノリティということでそれをおおっぴらに出来ずにいたり、様々な障害が同性愛者を引き裂くことになったり、あるいはその障害によってさらに燃え上がったりもする。しかし本作はほとんど障害を感じさせないし、同性同士ということを特別に意識しているようにも見えない。ふたりはかなり自然で自由にその関係を享受しているのだ。

(C)2020-MANDARIN PRODUCTION-FOZ-France 2 CINEMA–PLAYTIME PRODUCTION-SCOPE PICTURES

「墓の上で踊る」というふたりの約束は、ダヴィドが求めたものだった。この行動が何を示すことになるのかは劇中で語られることはないが、ダヴィドは縛られるのを嫌っていたしアレックスを縛ることも望まないということだったのかもしれない。

墓の前ではその死を悼み祈ったり拝んだりするわけだが、その死を楽しむかのように踊り出すわけで、ふたりが交わした約束は普通なら敬遠されることだろう。周囲から見れば、その行動はまるで「ざまあみろ」だとか「いい気味」などと感じているようにすら思えるからだ。

そんな行動をわざわざアレックスにさせるのはダヴィドは愛などという重苦しいものを求めてはいなかったからだろう。死んでまでアレックスに想われてもかえってありがた迷惑だし、次の相手でも探してくれたほうが気が楽だったのかもしれない。

だからアレックスもラストで意外にあっさりと次の相手を見つけることになるわけだ。本作は悲劇的な出来事を描いてはいても、あっけらかんとそこから立ち直ってしまうのだ。オゾンがこの原作に惹かれたのも、ふたりの関係が何物にも縛られない自然なものとして描かれていたからなんじゃないだろうか。

アレックスを演じたフェリックス・ルフェーヴルは、時折リヴァー・フェニックスのように見える瞬間もあり、だからだろうか本作では『マイ・プライベート・アイダホ』を思わせるようなシーンもある。少し前のグザヴィエ・ドラン『ジョン・F・ドノヴァンの死と生』でも『マイ・プライベート・アイダホ』へのオマージュのようなシーンが用意されていた。『彼は秘密の女ともだち』のレビューを書いた時にも感じたことだが、オゾンとドランは互いの作品を参照し合っているんだろうか。

最後に付け加えておくと、フェリックス・ルフェーヴルのお尻がキレイ! ダヴィドの母親(ヴァレリア・ブルーニ・テデスキ)は、海に落ちて冷えたアレックスの身体を風呂で温めるという名目で下着を脱がしてしまうのだ。アレックスの裸をまるで自分の息子の成長を見守るみたいな笑顔で見つめていたダヴィドの母親が、ダヴィドの死をアレックスのせいだと感じて以降、一切彼を拒否することになるのが切ないところだった。

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