監督・脚本のアリス・ディオップにとっては本作が劇映画としてのデビュー作だが、ドキュメンタリー作品『私たち』(現在、Amazonプライムにて配信中)では、すでにベルリン国際映画祭で最優秀ドキュメンタリー賞を獲得したりもしているとのこと。
『サントメール ある被告』は、ヴェネチア国際映画祭で銀獅子賞(審査員大賞)と新人監督賞を獲得した。
物語
フランス北部の町、サントメール。若き女性作家ラマは、ある裁判を傍聴する。被告は、生後15ヶ月の娘を海辺に置き去りにし、殺人罪に問われた女性ロランス。セネガルからフランスに留学し、完璧な美しいフランス語を話す彼女は、本当に我が子を殺したのか? 被告本人の証言、娘の父親である男性の証言、何が真実かわからない。そしてラマは偶然、被告ロランスの母親と知り合う。彼女はラマが妊娠していることを言い当てる。裁判はラマに、“あなたは母親になれる?”と問いかける……果たしてその行方は──。
(公式サイトより抜粋)
なぜ子どもを殺したの?
監督のアリス・ディオップはドキュメンタリー映画作家としてデビューしたらしい。『サントメール ある被告』は劇映画としてのデビュー作となるわけだが、その本作も実際に起きた事件に取材して作られている。
本作の冒頭で描かれるのは、ロランス(グスラジ・マランダ)という女性が幼い娘と一緒に海に入っていくシーンだ。この事件は、生後15ヶ月の娘を海に置き去りにして母親が殺人罪に問われたというものだ。観客としては、それに対して当然「なぜ」そんなことをしなければならなかったのかと感じることになる。ところが本作ではその「なぜ」に対する答えはない。
もちろん裁判では裁判長は「なぜ、そんなことをしたのか?」と問いかけることになるわけだが、それに対してのロランスの答えは「わかりません」というものだ。さらにロランスは「この裁判でそれを教えてほしい」とも語っている。
本作の台詞は、実際の裁判記録から採られているらしい。しかし、裁判で明らかになるのは、ロランスの背景やこれまでの生い立ちであり、なぜ子どもを殺さなければならなかったのかという肝心な点はよくわからない。だから観客としては肩透かしを喰らった気にもなるわけだが、そもそも本作は殺人の動機を探るといったミステリー作品ではないということなのだろう。
新しい黒人女性像
本作にはもうひとりの主人公がいる。脚本・監督を担当したアリス・ディオップは、事件の裁判を傍聴して本作を製作することになったというわけで、劇中で裁判を傍聴することになるもうひとりの主人公ラマ(カイジ・カガメ)は、監督の立場を反映しているキャラクターということになるのだろう。
ラマは大学で『ヒロシマ・モナムール(二十四時間の情事)』について教えたりもしている。ラマがロランスの事件に興味を抱いたのは、それを題材にしてパゾリーニの『王女メディア』とロランスの事件を重ね合わせたような小説を書こうと考えているからだ。
ちなみに私が『サントメール ある被告』を鑑賞した日には、上映後にアリス・ディオップ監督が登壇して観客とのQ&Aが行われた。その時の質問で『ヒロシマ・モナムール』についても触れられていたのだが、この映画の名前が登場してくる意図としては、ラマが『ヒロシマ・モナムール』で脚本を担当したマルグリット・デュラスを読んでいるような教養人であるということを示すためとのこと。
それと同様に、本作で被告人となるロランスという女性も教養ある人物だ。ロランスはセネガルからの留学生にも関わらず、完璧なフランス語を流暢に話す。そして、大学ではウィトゲンシュタインについて卒論を書こうとしていたという設定になっている。
ともすれば黒人女性というのは、映画のキャラクターとして登場したとしても、その役割は類型的になりがちだ。たとえば肝っ玉母さんとか、家政婦として働く女性だったりする。確かに映画の中の黒人女性で、本作のように教養あるタイプのキャラクターというのは思いつかないかもしれない。
しかしながら実際にはそんなことはないわけで、アリス・ディオップ監督がソルボンヌ大学で学んでいたようにそういう黒人女性は少なくはない。しかし映画の中では見えない存在になっているわけで、本作は新しい黒人女性像を描くことが意図されているというわけだ。記憶だけで書いているから正確にこんな言葉だったかは曖昧だが、Q&Aでの監督の回答を含めて整理するとこんな感じになるだろうか。
裁判でわかってくること
裁判で語られる事件までの経緯を辿れば、ロランスは法学専攻から哲学専攻へと変更しようとして父親の反対に遭い、金銭的な援助を絶たれてしまう。それによって経済的な困窮状態に陥ったのか、ロランスはだいぶ歳上の男性と付き合うことになり、彼の子どもを産むことになる。
彼との関係は、二人の間で見解が異なる。男性側は二人は愛し合っていたと語るが、ロランスの言い分ではそうではない。どちらが正しいのかはわからないのだが、とにかくロランスがフランスで孤独な立場にいたことは確かだろう。それが子どもを殺すことに直接つながるのかは謎ということになるわけだが、この裁判の過程でわかってくることもある。それは黒人女性に対する差別的な扱いと言えるかもしれない。
大学での卒論の指導教官と思しき女性は、ロランスがウィトゲンシュタインをテーマにしようとすると、それを「自分と無関係の哲学に逃げた」と非難する。「黒人のくせに西洋哲学なんて」という明確な差別意識が感じられるのだ。
それからロランスが呪術に頼ったという情報も出てくる。このことはもしかするとロランスが精神的に不安定だったということでもあるのかもしれない。しかしその一方で、ロランスは合理主義者だとも語っているにも関わらず呪術のことが大きく取り上げられるのは、アフリカ出身ということに対する偏見があるということでもある。
母と娘の複雑な関係
裁判を傍聴するラマが、なぜそんな事件に興味を持ったのかと言えば、ひとつにはそれを取材して小説を書くつもりだということがあるわけだが、もうひとつには母親との関係で悩んでいたからでもある。
ラマは先ほども記したように教養人だ。大学で教える立場にもいるわけで成功者と言えるのだろう。しかし、ラマは実家に帰るとどうも居心地が悪いようだ。母親はフランス語ではない言葉を話し、なぜか不機嫌そうに見える。ラマは母親との関係に悩んでいて、それが今になってクローズアップされてきたのは、自分にも子どもが出来たことが判明したからだろう。
ラマはそうした中で子どもを持つことを不安に感じ、堕胎することを考えていたのかもしれない。だからロランスが子どもを殺してしまったことに対して関心を抱いているのだ。
劇中ではロランスとラマが視線を交わし、ロランスが笑みを見せる場面もある。タイトルともなっているサントメールという場所は、監督曰く「そこの住人は中流階級の白人がほとんど」なのだとか。そんな場所だから、傍聴席にはロランスの母親とラマ以外の黒人はいない。ロランスは傍聴席のラマの存在に気づいていたということなのだろう。
ロランスとラマは何かしらの共感で結び付いていたのだろうか(Q&Aの監督の言葉の中にはエンパシーという言葉もあった)。ラマはロランスが子どもを殺さなければならなかったことに関心を抱いたわけだが、ロランスは自分の母親との関係で悩んでいたわけではないから、ここには飛躍があるような気もするのだが、本作が母親と娘の複雑な関係を描いていることは確かだろう。
女は怪物?
本作は虚飾を排したシンプルな作りになっているようにも見える。裁判でのロランスの証言部分は特にそんなイメージだ。カメラはロランスの上半身を捉えたままで、彼女は立ったままほとんど微動だにせず、表情すら変えずに延々と冷静に語り続ける。このあたりの台詞は裁判の記録をそのまま使っている部分だろう。
ドキュメンタリーのように事実をありのままに記録する感じで、その内容もなぜ子どもを殺したかという核心には触れないわけで、そんな疑問に囚われていた浅はかな観客としては、正直に言えばいささか退屈だったとも言える。そんな意味では忍耐を要する作品だ。
しかし、実際にあった裁判を再現したかのような中にも美学はあって、監督曰く、ダ・ヴィンチあたりの中世絵画を意識した画作りを意識したのだとか。ロランスは裁判の最中に何度か衣装を替えることになるのだが、なぜかいつも茶色の服を着ている。裁判所の壁の色やロランスの肌の色も含めて全体的な色調が統一されているわけだ。これも監督の美意識の表れということだ。
本作が実際の事件を題材にしていることはすでに記した。とはいえ、本作はフィクションであり、ロランスの弁護士の最終弁論においては、実際の裁判にはなかったキーワードが導入されている。それが“キメラ”というものだ。
このキーワードは本作の母と子の関係を示すために導入されたものだろう。個人的に興味深かったのは、本作においては男性の役割がかなり小さくなっているところ。子どもは遺伝的には父親と母親の両方の要素が混じり合ったものなわけだが、それよりも母と子の関係、もっと正確に書けば母と娘という女同士のつながりが強烈に意識されているのだ。
キメラというのは、ギリシア神話の中に登場する「ライオンの頭と山羊の胴体、蛇の尻尾を持ち、口からは火炎を吐く」怪物のことを指す。異質なものが混じり合った化け物ということだ。
マイクロキメリズムという現象があるそうで、母親が子どもを妊娠している時には、子どもに母親の細胞が移行するのと同時に、その逆に子どもの細胞が母親に混じり合ったりもすることがあるのだそうだ。子どもは母親から産まれた後は別の個体になるわけだが、実際にはその後も互いの細胞を身体の中に保持していることもあるわけで、その影響は身体が別の個体になった後も続いていくということになる。
弁護士はそこから、母と子が互いの細胞が混じり合ったキメラという怪物であると論じる。しかし怪物ではあるけれど、とても人間らしい怪物であるとも評することになる。
多分、ロランスもラマも自分の“怪物性”というものを自覚していたのだろう。ロランスは自分の子どもを殺してしまった怪物であり、だからこそ弁護士の言葉に感極まって涙を流すことになる。
そしてラマは、母親の存在を自分には理解できない怪物のように感じていたのだろう。しかし、その母親とラマは互いの細胞を混じり合わせているわけで、子どもを産まないという選択を考えていたラマは、母親と同様の怪物のようになっていたと感じたのかもしれない。その後のラマは母親と和解し、子どもを産む選択をしたことが示されることになる。
芸術志向で上級者向きといった印象で、知的なものを感じさせる部分が多いけれど、最後は母と子の情感をほのかに感じさせてうまくまとめ上げていたんじゃないだろうか。
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