『息子の面影』 国境越えより危険なのは……

外国映画

監督・脚本と製作総指揮や編集までやっているのはフェルナンダ・バラデスというメキシコ人。

サンダンス国際映画祭で観客賞と審査員特別賞を受賞するなど、いくつもの映画祭で賞を受賞したとのこと。

原題は「Sin senas particulares」。「特に兆候なし」といった意味になるらしい。

物語

メキシコの貧しい村に暮らすマグダレーナ。貧困から抜け出すため仕事と夢を求めた息子は、友⼈とアメリカへ向けて旅⽴ち、そのまま消息を絶つ。多くの若者が国境を越えようとして命を失うことが多い中、マグダレーナは、息⼦を探す為に⼀⼈、村を出発する。やっとの思いで得た情報を頼りに、ある村へと向かうマグダレーナは、道中で息⼦と同じような年齢の⻘年ミゲルに出会い、彼が母親を探していることを知る。
息子と母、それぞれが大切な存在を探している二人は共に旅を始める。

(公式サイトより抜粋)

国境越えより危険なのは……

アメリカではトランプ大統領の時に、メキシコとの国境に壁を作ると言い、実際にそれは途中までは作られた(大統領が変わって中止になったようだが)。それだけメキシコ側からアメリカへと不法に入国する人は多いということなのだろう。

もちろんアメリカ側では国境警備をする人がいるから、不法移民がそういう人たちに捕まることもあるのだろうし、『ノー・エスケープ 自由への国境』のように住民が不法移民を目の敵にし、自主的に狩るようなこともひょっとしたら起こり得るのかもしれない。

だから、国境を越えようとしたヘスス(フアン・ヘスス・バレラ)が消息を絶ったという話から最初に想像したのは、上記のようなアメリカ側に渡ってからのトラブルだった。ところが、実際にはヘススにとっての危険はメキシコ国内にこそあったということらしい。彼は国境に辿り着く前にトラブルに巻き込まれたのだ。

主人公である母親のマグダレーナ(メルセデス・エルナンデス)が調べていくと、息子ヘススが乗っていたバスが何者かに襲撃され、多くの犠牲者が出たのだという。ヘススと一緒にアメリカに向かったリゴという青年の死は確認できたものの、多くの遺体は焼かれていたためヘススの死は確認できない。マグダレーナはあきらめきれずにヘススを探すことになるのだが……。

(C)Corpulenta Producciones

悪魔の所業

バスの運転手に話を聞かせてほしいとバス会社を訪ねていくと、マグダレーナはあまり相手にされない。これには理由があって、その女性担当者は後からマグダレーナをトイレまで追ってきてこっそり教えてくれる。バスが襲撃されたことはあまり大きな声では触れたくないような話題らしいのだ。公共の場では、ほかに誰かが聞いているかもしれないということらしい。その襲撃に関係していた者に聞かれるとマズいのだ。

本作が怖いのはバスを襲撃した者たちが、まったく意味不明で理解し難い存在にも見えるところだ。エンドロールには「sicario」という役名が記されていたように記憶している。「sicario」とはスペイン語の「殺し屋」ということだから、本作においてバスを襲撃した人たちは単なる「殺し屋」としか説明されないということだ。どんな背景があって、何を目的にそんなことをしているのか、そういったことが一切示されず、殺し屋たちは無残に大勢の人を殺すことになるのだ。

たとえば、「Sicario」という原題を持つ『ボーダーライン』では、メキシコの街に入った途端に首無しの遺体が吊るされていたりするけれど、これは麻薬カルテルの抗争ということで納得できる説明がなされているわけだが、それに対して『息子の面影』はそうした背景が一切ないのだ。

だから、その惨劇の唯一の生き残りであるアルベルト・マテオは、「悪魔がやった」と告白することになる。人間がそんなことをするわけもない。そんなことをするのは悪魔に違いないということなのだ。そして、アルベルト・マテオには彼らの姿は尻尾の生えた悪魔に見えることになる。

このシーンでは炎の中の悪魔が登場するのだが、その炎はなぜか上から下へと流れていくし、その後のシーンでは天と地が逆さまになってしまっている。世界がひっくり返ってしまったような恐ろしいことが生じているという感覚なのだ。

※ 以下、ネタバレもあり!

(C)Corpulenta Producciones

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これがメキシコの現状?

途中からマグダレーナの旅の道連れとなるミゲル(ダビッド・イジェスカス)は、アメリカによってメキシコに強制送還され、久しぶりに母親の家に向かう。ところがミゲルがアメリカにいた間にメキシコ側は様子が変わっていたようだ。

道を通る時には銃を持った何者かが勝手に検問をし、通る者たちを品定めしているような危険な状況なのだ。そして、ふたりはミゲルの母親の家に着いたものの、そこには母親の姿はない。さらに名付け親のところへ出向くと、彼も隠れ住んでいて姿を見せることはない。何が起きているのかはわからないけれど、かつてミゲルが住んでいた場所は、もうまともに住めるような場所ではなくなっているのだ。

マグダレーナはそんなミゲルの様子を見て、自分の家に一緒に来ることを勧める。母親がいなくなってしまったミゲルと、息子を探しているマグダレーナ。ふたりは似たような境遇ということもあり、疑似的な親子関係のようなものになっていくわけだが、そのミゲルも呆気なく殺し屋たちに殺されてしまうことになる。そして、マグダレーナが最後に知ることになる現実は衝撃的だった。

(C)Corpulenta Producciones

これに関しては一応伏せておくことにするけれど、本作では息子ヘススの面影を描写したと思しきシーンが3回ある。一度目は彼がアメリカに旅立つとマグダレーナに語った時。この時の面影は朝靄の中なのかちょっとボンヤリとしている。二度目は夢の中(?)に登場するヘスス。この時はマグダレーナの想像が込められているのか、まだ幼さを残すヘススの表情がはっきりと捉えられる。そして最後に登場する面影はかつての息子のそれではなくなっている。母親からすればそんな真実は知らなかったほうがよかったのかもしれない。そんなことを思わせるラストだった。それでもこれがメキシコという国の現状ということなのだろうか。

本作とのつながりはあまりないけれど、メキシコ映画で悪魔が登場する作品ということで『闇のあとの光』を思い出した。この作品は不思議に加工された映像で描かれ、とても美しい山上の風景が印象的なのだが、話はまったく理解不可能で、これまた衝撃的なラストが待っている。こちらに登場する悪魔は真っ赤に発光しているのだが、長い尻尾があるということは本作と共通している。メキシコにおいては悪魔がそんなに身近に感じられるような状況があるのだろうか?

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