脚本・監督は『ヒットマンズ・レクイエム』、『スリー・ビルボード』などのマーティン・マクドナー。
出演は『ヒットマンズ・レクイエム』でも組んでいたコリン・ファレルとブレンダン・グリーソン。
ヴェネチア国際映画祭では、コンペティション部門で最優秀男優賞(コリン・ファレル)と最優秀脚本賞を獲得した。アカデミー賞でも作品賞、監督賞ほか8部門9ノミネートされた。
原題は「The Banshees of Inisherin」。
物語
舞台は1923年、アイルランド西海岸沖のイニシェリン島。内戦に揺れる本土とは対照的に、のどかな平和が保たれたこの島の誰からも愛される素朴な男パードリック(コリン・ファレル)が、親友コルム(ブレンダン・グリーソン)から突然絶交を告げられる。理由さえわからず困惑したパードリックは、賢い妹のシボーン(ケリー・コンドン)や若い隣人ドミニク(バリー・コーガン)を巻き込んで関係修復を図るが、コルムは頑なに彼を拒絶。やがてコルムは「これ以上、お前が俺を煩わせたら、自分の指を切り落とす」という恐ろしい最後通告をパードリックに突きつけ、両者の対立は想像を絶する事態へと突き進んでいくのだった……。
(公式サイトより抜粋)
子供のケンカみたいな
本作が描くのは、大の大人のするちょっと滑稽なケンカだ。パードリック(コリン・ファレル)は、突然、友人コルム(ブレンダン・グリーソン)に絶交を告げられる。パードリックは自分では何か悪さをしたつもりもない。コルム自身もパードリックが何もしてないことは認めているのだが、「ただ嫌いになった」のだという。パードリックとしては長年の友人からそんなふうに言われて困惑気味だが、偏屈なコルムは態度を変えるつもりはないらしい。
劇中の台詞ではないけれど、「12歳のガキじゃないんだから」友達をやめるなんてことを言い出すのは妙だろう。本作はそんなわけがわからない大人のケンカが追われていくことになる。
そんな映画がおもしろいのかという人もいるのかもしれないが、自分の中では、『イニシェリン島の精霊』を今年の「ベスト10」に選ぶであろうことは早くも確実だと思う。前作の『スリー・ビルボード』も傑作だったと思うけれど、マーティン・マクドナーの作品はなぜかしっくりくるものがある。とにかく本作も前作に劣らず好きな作品だということは間違いないように思えるのだ。
コリン・ファレルの泣き顔
本作は喜劇であると同時に悲劇でもある。劇場でさほど笑いが起きていたわけでもない本作が喜劇だというのは、大人のケンカがちょっと滑稽であるということと、主役のコリン・ファレルの情けない泣き顔がおもしろいからだ。
マーティン・マクドナーが本作と同じくコリン・ファレルとブレンダン・グリーソンと組んだ作品『ヒットマンズ・レクイエム』も悲喜劇であり、ある出来事によって困り果てることになるコリン・ファレルが、眉を「ハ」の字にしてのブレンダン・グリーソンに泣きつくところがとてもおかしかった。コリン・ファレルのあの表情は、見捨てられた子犬みたいで妙にかわいらしいのだ。
本作でコリン・ファレルが演じるパードリックは、友人のコルムから絶交を告げられる。昨日までは楽しくパブで飲んでいたのに突然だ。舞台となるイニシェリン島は誰もが顔見知りの狭い世界だ。本土では内戦が行われ、その爆撃の音だけが聞こえてきたりもするけれど、島では相変わらず平和な日々が続いている。昨日と同じく、今日もそれが続くはずだった。しかしパードリックが昨日と同じようにコルムをパブに誘うと、コルムはなぜかそれを無視することになる。
なぜそんなことになったのか? わけがわからないパードリックは泣き顔になり、コルムと一緒でなければパブで飲む気にもなれないほど困惑する。そしてコルムと仲直りしたいと考えることが、二人の関係を余計にこじらせることになる。
ミドルエイジ・クライシス
それではなぜコルムはパードリックと絶交しなければならなかったのか? 最初は「ただ嫌いになった」と突き放すだけだが、次第にコルムにはコルムなりの理由があることもわかってくる(ただ、それはパードリックを納得させるものではないけれど)。
それを端的に示すのは難しいのかもしれないけれど、とりあえずはミドルエイジ・クライシスみたいなものと言えるかもしれない。パブの島民曰く、コルムは“考える人”ということになる。そして、音楽の美しさを理解する人でもある。ところが島での生活はと言えば、友人のパードリックとパブで飲み続けるだけ。
一方のパードリックは“考えない人”であり、馬のクソの話を2時間も続けるような退屈な男なのだ。そんな二人の差異が、突如としてコルムの絶交宣言となって表面化したということになる。
演じている二人の役者の年齢から推測しても、コルムはパードリックよりも年上という設定だろう。だからこそコルムは自分の残り時間を考えたのかもしれない。パードリックと退屈な時間を過ごすよりも、ほかの生き方もあるのかもしれない。そんな想いがコルムにパードリックを遠ざけるという決意をさせ、コルムはその時間をヴァイオリンで作曲をして過ごすことになるのだ。
のどかな田舎の退屈さ
冒頭、イニシェリン島の美しい風景が描写されている(この島は架空の島だが、撮影はアイルランドのアラン諸島で行われたらしい)。周囲は海に囲まれ、緑豊かとまでは言えないけれど、一瞬の虹が見えたりして、とてものどかな雰囲気がある。一度は観光にでも行ってみたいと思わせるような風景なのだ。
しかし、そこに暮らしている者にとっては別なのかもしれない。狭い社会だけに住民はすべて顔見知りで、郵便局のおばさんは島民の手紙を勝手に開封して読んでいる。このおばさんが求めているのは暇つぶしのネタなのだ。そんなことでもしていない限り、その島は退屈でやってられないのだ。
また、住民はみんな顔見知りとはいえ、それらのすべてが会いたい人というわけでもないわけで、パードリックの妹シボーン(ケリー・コンドン)は予言者のようなミセス・マコーミックを見かけると隠れるようにしているらしい。人付き合いは大事なのかもしれないけれど、面倒なことだって多いわけで、そういう人にとっては島の生活はとても窮屈で耐え難いものになるのだ。
シボーンが湖の前でなぜか靴を脱いでいたのは、ぼんやりと自殺を考えていたからなのだろう。そのシボーンに想いを打ち明けて「当たって砕けた」形になったドミニク(バリー・コーガン)が、のちにそこで水死体となって見つかるのも、ドミニクが警察官である父親から虐待を受けていたこととも関係しているのかもしれない。
そんな意味でのどかな田舎の風景は、観光客には望ましいものだとしても、暮らしている人にとっては違うものに映るということだろう。そして、シボーンは内戦で混乱しているはずの本土に仕事を見つけ、島を去っていくことになる。
退屈だけれど優しい人
退屈に耐えられない人もいれば、それを安穏としたいい日々だと感じる人もいる。島を出ていくことになったシボーンやコルムは前者だし、パードリックは後者なのだろう。
確かにパードリックは退屈な男だ。本も読まず、音楽も聴かず、夜はパブでビールを飲むだけの日々。それでもパードリックはロバ(ロバは“怠惰”の象徴なのだとか)のジェニーと一緒にいるだけで何となく心が満たされるし、本土に出ようなどとは考えたこともない。今日と同じ日々がずっと続けば満足という単純な男なのだ。
一方のコルムからすれば、それは耐え難いことになる。コルムは意味ある生を望み、“永遠”を求めることになる。つまりは200年先の人たちにも聴かれる曲を作ったモーツァルトのように、後世の人が自分という存在を忘れないよう、何かしらの生きた証を残したいのだ。
それに対してパードリックは反論する。お前は“永遠”とかわけのわからないことを言ってるけれど、それによって“優しさ”を失ってしまっているんじゃないかというのだ。この“優しさ”という言葉は、劇中の台詞では“nice”とか“niceness”と言われていた。
シボーンの評価では、パードリックは“退屈だけれどいい人”だった。また、神父はコルムのパードリックに対する態度を“罪ではないけれど善ではない”と語っていた。つまりはパードリックは、「オレは“善良”だけれど、お前はそうじゃない」とコルムを非難しているのだ。
生きた証を残したいという想いはいいのかもしれないけれど、それによって“善良さ”を失ってしまっていいのか。パードリックのこの真っ当な反論を、コルム自身も今までで一番おもしろいと認めている。だったら折れればいいとも思うのだけれど、コルムにはそれはできない。
これはなぜかと言えば、『ヒットマンズ・レクイエム』にもあった「男に二言はない」的な意地があるのだろう。殺し屋という男たちの世界を描いた『ヒットマンズ』は、彼らには彼らなりの“筋”というものがあり、ヒットマンとして生きるからには「筋は通さなければならない」ことになる。
それと同様で、本作のコルムもすでにパードリックに宣言してしまっている。「これ以上、お前が俺を煩わせたら、自分の指を切り落とす」と。言ってしまったからにはそれを変えるわけにはいかないというのが、愚かな男の意地であり、コルムはそれによって片手の指をすべて切断することになる。周囲からすれば何ともアホらしい話なのだが、コルムはそれに縛られているのだ。
そして、それはパードリックも同様だ。彼もロバが死んでしまったことをコルムのせいにし、家に火を放つと宣言し、コルムが在宅しているにも関わらず、その宣言を守ることになる。どちらも男の意地で折れることができなくなってしまっているのだ。
ケンカの意味
最初に本作は「大人のケンカの話」だと書いたけれど、もちろんそれだけの話ではない。それではパードリックとコルムのケンカにはどんな意味があるのか。二人のケンカはとても他愛ないものでありバカげてもいるけれど、同時にアイルランドにおける内戦の問題も示している。
これは英愛条約を巡って賛成派と反対派が争ったというもので、劇中の台詞には「昔は敵と言えばイギリスと決まっていた」ともあったけれど、そのイギリスからの独立を巡って国の内部で戦争が起きてしまったのだ。
本作の舞台は1923年だが、この時期はアイルランド内戦があった時と重なっている。内戦自体はその年の5月に終わったようだが、その紛争は今に至るまでずっと続いていくことになる。本作のラストでパードリックが言っていたように、「終わらせることができないものもある」というのはそんな内戦のことをも示しているということになる。
そして、パードリックとコルムのケンカは、ガキのケンカみたいに始まるけれど、それがエスカレートしていった過程には様々な不確定要素が入り込んでいる。本作のタイトルとなっている“精霊(バンシー)”というのは、死を予言するような存在らしい。劇中ではミセス・マコーミックという老婆として顔を出している。老婆は、この一連の出来事で「二人が死ぬ」と予言していたのだが、実際に死んだのは一人だけだ(ロバは一匹だし)。予言者も読み間違えるようなことが生じているということだろう。
追記(1/30):ほかの方のブログで気がついたのだが、予言の内容は「二つの死」だったのかも。その場合、予言は間違いではなかったわけだが、『スリー・ビルボード』や『ヒットマンズ・レクイエム』でもそうだったように、本作において誤解やアクシデントが重要な要素になっていることは確かなんじゃないかと思う。
まず、ロバが死んだのはアクシデントだ。コルムは意図してロバを殺したわけではない。一方でパードリックは勘違いで極端な行動をしてしまう。島一番のバカとされるドミニク(二番目はパードリックとも)は、意外に真っ当な指摘をして驚かせるのだが、ドミニクはコルムがやっていることは、「新しい自分になれ」ということをパードリックに示したんじゃないかと言う。このこと自体は真っ当なのだが、そこから先はパードリックの勝手な解釈により、「コルムに対してもっと強く出ろ」と助言されていると勘違いしてしまうのだ。
つまりは二人のケンカと同じように、アイルランドの内戦も、運命みたいに定められていたというよりも、様々なアクシデントや勘違いによって不運にもエスカレートしていってしまったということなのだろう。本作が“悲劇”だというのはそういう意味ということになる。
パードリックとコルムは結局最後の最後まで折れることはない。傍から見ると、折れてしまえばいいのにと思うだろうし、もっとうまい解決策がありそうなものにも思える。マーティン・マクドナーはそんな二人の姿も、アイルランドの内戦も、同様に滑稽なものだと考えているのだろう。だから本作は“喜劇”でもあり、“悲劇”でもあるということになるのだ。
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