『ブレイキング・バッド』 公園なんてつくるだろうか?

テレビドラマ

2008年から2013年にかけて放送されたアメリカのテレビドラマ。現在はNetflixで配信中。

エミー賞では作品賞や男優賞・助演男優賞などを度々受賞した評価の高いドラマシリーズ。

企画や製作総指揮などを担当し、本ドラマの牽引役となっているのはヴィンス・ギリガン

物語

ウォルター・ホワイト(ブライアン・クランストン)はかつてはノーベル賞を受賞した研究チームにも貢献する仕事をしたものの、今では落ちぶれて高校の化学教師として働いている。

50歳になったばかりウォルターだが、ある日、肺にガンが見つかる。余命はあと数年と宣告されたウォルターは、死ぬまでに家族のために金を遺すことを考える。

そのためにウォルターが選んだ方法は、自らの化学の知識を利用し、メタンフェタミン(俗称メス)という麻薬を製造することだった。たまたま遭遇したかつての教え子ジェシー・ピンクマン(アーロン・ポール)を相棒にして、麻薬の取引を開始するのだが……。

どうしてそうなった?

海外ドラマがおもしろいという噂はあちこちで聞いてはいたものの、有名な『24 -TWENTY FOUR-』すら観ていなかったのだが、コロナ禍の影響で新作映画も公開されないという異常事態のなか、時間をもてあまして観たのが、この『ブレイキング・バッド』だった。一度観てみたらやっぱりおもしろくて止められなくなってしまった。

主人公のウォルター(ブライアン・クランストン)はこのドラマのなかで何度も絶体絶命のピンチに陥る。本ドラマの最初の回では、なぜかブリーフ姿のウォルターが家族に対して遺書めいた言葉を残して死のうとする。ウォルターはどうしてそんなふうに追い込まれてしまったのか、そんな導入から始まるわけだが、本ドラマはウォルターがそういった絶体絶命のピンチをどうやって乗り越えるのかというのが見どころと言える。

黒澤明『隠し砦の三悪人』という娯楽作で、脚本家たちをふたつのチームに分け、一方に主人公たちをピンチに追い込む出来事を検討させ、もう一方にそこから脱出する方法を練らせたのだとか。『ブレイキング・バッド』もそんなハラハラドキドキさせる展開と、意表を突く解決策があちこちに散りばめられていて、一度観たら止められなくなるだろう。

ウォルターは化学の教師ということもあり、その知識が危機を脱出させる魔法として機能するわけだが、それだけのドラマではない。死の淵において、家族のためと始めた麻薬製造という仕事は、ウォルターにそれまでとは別の世界を見せることになる。そしてそのことがウォルターに変化をもたらしていく。

全62話という長いシリーズにおいては、全部がそんな怒涛のように展開していくわけではなくて、変化球のような回もある。シーズン3のエピソード10は、ウォルターがラボに侵入したハエを追い回すだけという珍しい回。この回は全体のなかでは折り返し地点のようなところで、ウォルターの狂気の片鱗を垣間見させると同時に、相棒のジェシーとそれまでの出来事を振り返る要素もあり、なぜか印象に残るエピソードだった。

この回の監督を担当していたのは、『スター・ウォーズ最後のジェダイ』ライアン・ジョンソンだったりする(そのほかにも評価の高い「オジマンディアス」の回も)。本ドラマは様々なトリビアを集めたサイトがあったり、過去の映画に対するオマージュもふんだんに盛り込まれていたり、そんな意味でも楽しめるドラマだったと思う。

『ブレイキング・バッド』 Netflixにて配信中

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家族の物語

そもそもウォルターが悪事に手を染めるきっかけとなるのは、家族のために金を遺したいというこの一事に尽きる。妻のスカイラー(アンナ・ガン)は予定外の第二子を妊娠中で、長男のジュニア(RJ・ミッテ)は脳性麻痺で足が不自由。ジュニアはまだ高校生で将来の大学進学のことを考えれば、ウォルターもおちおちと死んではいられないという気分になるのは致し方ない。その意味で本ドラマは家族の物語とも言える。

また、ウォルターの義弟にはハンク(ディーン・ノリス)という麻薬取締局(DEA)の捜査官もいる。家族にDEAがいるのにも関わらず、ウォルターは麻薬製造の仕事で名を成していくことになる。というのはウォルターのレシピで生み出されたメスは、そのほかのメスとは段違いに純度が高く、高値に取引されることになるからだ。

『ブレイキング・バッド』 Netflixにて配信中

さらにもうひとりの家族とも言えるかもしれないのが、相棒のジェシー(アーロン・ポール)だろう。ジェシーは本来であれば、シーズン1で死んでしまう役柄だったという。というのもジェシーは頭の悪いチンピラで、彼がいることで何度もウォルターは窮地に立たされたりもするからだ。

しかし本ドラマで次第に悪に染まっていくウォルターとは逆に、ジェシーの純なところは本ドラマの道徳的側面を担っていく。メスのレシピの開発者であり重要人物であるウォルターとは異なり、ただのジャンキーであるジェシーは裏社会で散々な目に遭う。あちこちでボコボコにされ、視聴者の同情を買う愛らしいキャラでもある。ウォルターとジェシーは仕事上の付き合いでしかなかったし、いつもいがみ合ってばかりなのだが、なぜかウォルターはジェシーのことを最後まで見捨てることがない。

麻薬製造という秘密はウォルターにとっては生き甲斐でもあるのだが、法を犯しているという事実は絶対に子供たちには知られてはいけないことだ。ウォルターにとってその仕事は「誇り」であると同時に、「恥」でもある。ウォルターは「恥」の部分を息子であるジュニアから遠ざけようとしつつも、「誇り」の部分をジェシーと共有しているような気持ちになっていたんじゃないだろうか。だからウォルターはジェシーを息子のようにも感じていて、ジェシーのことを最後まで気にかけているのだ。

それから脇役キャラも賑やかで、『ブレイキング・バッド』シリーズが終了した後で、スピンオフの別シリーズ『ベター・コール・ソウル』(Netflixで配信中)の主役となった弁護士のソウル・グッドマン(ボブ・オデンカーク)はコメディ担当だろうか(しゃべり上手で調子がいい、いかがわしい弁護士という存在がおもしろい)。

麻薬が絡んでくれば、元締めとなる悪い輩が出てくるわけで、本ドラマ中の一番の悪役ガス・フリング(ジャンカルロ・エスポジート)のキャラもユニーク。裏社会ではその冷徹さで恐れられているキャラなのだが、表の顔はフライドチキン屋のオーナーとして、客に笑みを振りまくのも忘れない。

それから最もインパクトがあったのは、出番は少ないけれどメスをキメて「Tight Tight Tight!」と叫ぶシーンがツボだったトゥコ(レイモンド・クルス)。映画ではドラッグをキメるシーンは多々あるわけだけれど、今後はどうしてもトゥコのテンションと比べてしまうんじゃないかと思うほどインパクト大だった。

『ブレイキング・バッド』 Netflixにて配信中

ホワイトからブラックへ

ウォルターは家族思いの温厚な人物で、麻薬などとは縁もゆかりもない。しかし自分の能力に対する信頼が高いためか、人の助けは借りないという高慢なところはある。成功を手に入れたかつての仲間に医療費の援助を提案されても、ウォルターは自分で稼ぐことを選ぶ。人の情けにすがるよりも、あくまで自分の才能によって稼ぐほうがマシだと考えてしまう点で偏屈なのだ。

製作陣によれば本ドラマはチップス先生がスカーフェイスに変わる物語だとされる。家族のために法を犯すことを選んだウォルターは、金が貯まってもメス製造をやめることができなくなっていく。悪事に手を染めるのは、あくまで家族のためであり、他人を傷つけるのも自分が生き残るためだったはずが、いつの間にかに金を稼ぐことを邪魔する者を平気で排除するような悪人になっていく(ウォルターの苗字はホワイトだが最後にはブラックになってしまう)。

ウォルターは常に家族のためと語り、それを信じているわけだが、そのことが妻のスカイラーや家族を不幸へ導いていく。スカイラーは最初は何も知らなかったわけだが、次第にウォルターの共犯のような形になっていき、戻れない状況に追い込まれることになってしまうのだ。

『ブレイキング・バッド』 Netflixにて配信中

家族か自分か

黒澤明の名作と誉れ高い『生きる』は、ガンに侵された主人公が最期の仕事として、公園を整備することになる。ミイラと呼ばれていた主人公は、役所勤めで死んだような日々過ごしていたわけだが、自分の最期の時間を誰かのために費やすことを選択する。

これはとても感動的な話なのだが、誰もがそんな殊勝に生きられるとは思えない。自分の存在が消えようとしている時に、誰かのために公園をつくるなんてことは詭弁なんじゃないだろうか。そんな気持ちもどこかに存在するわけだ。

『ブレイキング・バッド』は、最終シーズンにおいてウォルターの「家族のため」という言葉は詭弁であると宣言している。もちろんウォルターは最期は悪事をすべて自分だけのせいにするし、家族のために金を遺すという目的も忘れてはいない。それでもその詭弁だけでは死ぬに死にきれないとも示しているのだろう。

巨万の富を得ても、多くの人が死んでも、麻薬製造をやめられなかったのは、ウォルターにとってはそのことが自分の才能を人に認めさせる唯一のチャンスだったからだ。もともとは裏社会での異名に過ぎなかったハイゼンベルグという名前は、ウォルターにとっては虚像だったはずだが、いつの間にかその虚像のほうを現実のものにしようとする。ハイゼンベルグは己の才覚だけでのし上がった成功者であり、あのガス・フリングを殺した恐ろしい男。自分の虚栄心を満たしてくれるのがハイゼンベルグという存在だったからだ。

ウォルターは最期には守るべき家族も失い孤独に死んでいくことになるわけだが、そこにはどこかやりきったという満足感も漂ってもいる。家族の物語として始まったこのドラマは、それだけではやりきれない過剰な何かを感じさせて終わることになるわけだが、それはウォルターがとりわけ高慢な男だったからだろうか。誰にでも少なからずそんな側面はあるんじゃないかとも思わなくもないのだが……。

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