『テセウスの船』 彼は昔の彼ならず

ドラマシリーズ

今年の1月からTBSで放送されていたテレビドラマ。現在は動画配信サービスのParaviにて配信中。

原作は東元俊哉の同名漫画。

物語

平成が終わろうとしていた頃、田村しん竹内涼真)は殺人犯の息子として世間の目を避けるようにして生きていた。彼の父親・佐野文吾(鈴木亮平)は、31年前に音臼小学校で起きた21人毒殺事件の犯人として逮捕されたのだ。心たち家族は父・文吾を居ないものとして生きていくほかなかった。

しかし、心の妻となった田村由紀(上野樹里)は、心の父親のことを信じたいと語る。というのも毒殺事件が起きる前にも、現場となった音臼村では奇妙な事件が頻発していたからだ。警察官だった文吾は冤罪の犠牲者なのかもしれない。そんな由紀の言葉をきっかけに、自分の過去と向き合うことを決心した心は、毒殺事件の慰霊碑を訪れると、なぜか事件直前の平成元年にタイムスリップしてしまう……。

 

※ 以下、ネタバレあり! ラストにも触れているので要注意!!

 

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タイトルの意味するものは?

『テセウスの船』は、父親の冤罪を晴らすためというミステリーと、タイムスリップを掛け合わせるという斬新な発想で話題となったテレビドラマ。しつこいくらいのミスリードによって村人全員があやしいんじゃないかと思わせる展開はハラハラさせるし、父親を否定していた息子によって父の冤罪が晴らされるという家族の物語としてとても感動的だったと思う。

ただ気にかかる部分もあって、それはそもそもこのドラマのタイトルが「テセウスの船」となっているのにも関わらず、タイトルとは関係ないところへ着地してしまっているようにも感じられるところだ。「テセウスの船」とはいわゆるパラドックスの一つとして、プルタルコスがギリシャの伝説として挙げているものだとか。

ギリシャの英雄テセウスが使ったとされる船は、アテネの人々によって大事に保管されていたのだが、使用されている木材は時と共に朽ちていく。そのため朽ちた木材は新しい木材へと交換されていくことに。全ての部品が交換された時、その船は元のテセウスの船と同じものと言えるのだろうか。ここには矛盾が生じている。

ドラマ版と漫画版の違い

過去にタイムスリップした心はそこで息絶えてしまうことになり、毒殺事件が起きなかったラストで登場する心は、過去にタイムスリップした心とはまったく別人に感じられる。その意味では「テセウスの船」というパラドックスに関連しているわけだが、テレビドラマ版のラストはもともとの漫画版の展開よりはちょっとぼんやりしている。

というのは、漫画版では毒殺事件の真犯人である加藤みきおが「テセウスの船」というパラドックスを如実に感じる役割を担っているからだ。ドラマ版ではそこが抜け落ちてしまって、新たな共犯者の話が付け加わっているために、タイトルが意味している作品そのもののテーマから外れてしまっているようにも思えた。

真犯人の動機

そもそも加藤みきおが事件を引き起こした動機は、心の姉である鈴を手に入れるためだった。そのため鈴のヒーローであった文吾を殺人犯に仕立て上げ、みきおは自分だけが鈴のヒーローとなるつもりだった。そして実際に文吾は殺人犯とされ、みきおはその後に鈴と結婚することになる。みきおは計画通りに鈴を手に入れることになるわけだが、手に入れて初めてみきおは自分が間違いを犯していたことに気づく。

漫画版のみきおはのちに「変わらないものが欲しかった」と語るわけだが、手に入れた鈴は元の鈴とはまったく違う存在になってしまっている。それもそのはずで、鈴は殺人犯の娘として生きていくことを余儀なくされたわけで、そのために顔も名前を変えて生きることを選択する。外見や名前が変化しただけで中身は変わらないならまだしも、殺人犯の娘として蔑まれる年月はかつては正義感に溢れていた鈴をまったく別人のような日陰者にしてしまう。

何が同一性を保証する?

「テセウスの船」というパラドックスにおいては、船を構成する部品がすべて交換された場合、その船が元の船と同じなのか否かということが問われていた。

人間においてその存在を構成する要素とは何か? 鈴は整形によって顔を変えて生きていくことを選択していた。それでは人間の構成要素が変わると、それは元の人間と言えるのだろうか? これに関しては、その程度ではその人間のアイデンティティ(同一性)は失われないと感じられるかもしれない。顔や名前を変えただけで、鈴が元の鈴と別人になってしまうとは思えない。そもそも人間の細胞は半年ほどですべて入れ替わるとも言われていて、たとえ細胞が入れ替わったとしてもわれわれは自分の同一性を疑うことはないからだ。

だとすれば何が人間の同一性を保証するのか? とりあえずここでは「記憶」ということになるのかもしれない。ドラマ版のラストで事件のことを知らない心は、過去へとタイムスリップした心とは、保持している記憶が異なるという点で同じ人物とは言えないように感じられる。しかし、タイムスリップした心と一緒になって事件を阻止することになった文吾だけは、未来において自分が殺人事件の冤罪の犠牲者とされることまで知り、その記憶を保持しているために唯一この出来事の全体像を把握している人物となっていた。

加藤みきおによって人生を狂わされた鈴の場合はどうだろうか? 鈴はみきおが引き起こした事件によって殺人犯の娘となり、日陰者として生きていくほかなかった。父親が殺人犯となるという衝撃的な事件とその記憶は、鈴のことを元の鈴とは別の存在にしてしまう。みきおが欲しかったのは元のままの鈴であり、何かが損なわれてしまった鈴ではなかったのだ。だから「テセウスの船」のパラドックスを一番感じていたのはみきおということになるだろう。

漫画版の最終巻ではみきおは心と一緒にタイムスリップし、事件の起こる前に戻ることになるわけだが、一度は事件を起こしている大人になったみきおは事件を回避することを選ぶ。事件を起こしてしまえば、鈴は元のままではいられないことを一番知っているのが大人になったみきおだからだ。ドラマ版ではそこの部分にあまり踏み込んでいないために、タイトルとの整合性という意味ではぼんやりしてしまっているように感じられた。

感想など

以下はテレビドラマとは関係のないごく個人的な感想。「テセウスの船」というパラドックスに関しては今回初めて知ったのだが、これと似たような内容としては『ミリンダ王の問い』という仏典として伝わるものが知られている。

『ミリンダ王の問い』のほうは仏典として伝わっているものということもあって、結末というか導き出す結論は別のものになっている。たとえば人を構成する要素は「肉」や「骨」や「血」などの物質的なものだったり、「認識」や「知覚」などの内面的なものなど様々あるが、何がその人のアイデンティティを保証するのかと問うことになる。

『ミリンダ王の問い』はこんなふうに人や物などを構成要素に分解していくことで、物事は常に流動し変化し続ける(諸行無常)ということだったり、確かな自我などどこにもない(無我)という、仏教の教えに結びつけようとしている。

ちなみにミリンダ王はギリシャ人だったとのことで、『ミリンダ王の問い』が「テセウスの船」の話と似ているように感じられるのは、もともとの同じ伝説から採られた話だからなのだろうか?

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