脚本・監督は『ポケットの中の握り拳』、『シチリアーノ 裏切りの美学』などのマルコ・ベロッキオ。
カンヌ国際映画祭コンペティション部門出品作。
原題は「Rapito」で、英語版のタイトル「Kidnapped」と同じ意味。
物語
1858年、ボローニャのユダヤ人街で、教皇から派遣された兵士たちがモルターラ家に押し入る。枢機卿の命令で、何者かに洗礼を受けたとされる7歳になる息子エドガルドを連れ去りに来たのだ。取り乱したエドガルドの両親は、息子を取り戻すためにあらゆる手を尽くす。世論と国際的なユダヤ人社会に支えられ、モルターラ夫妻の闘いは急速に政治的な局面を迎える。しかし、教会とローマ教皇は、ますます揺らぎつつある権力を強化するために、エドガルドの返還に決して応じようとしなかった…。
(公式サイトより抜粋)
誘拐事件の犯人は?
ある夜、突然、モルターラ家に男たちが現れる。その男たちは、教皇の命によってモルターラ夫妻の息子エドガルド(少年期:エネア・サラ)を連れ去ろうとする。何の話かわからない夫妻はもちろん抵抗することになるだが、その男たちのバックにいるのはカトリックという巨大な権力を持つ組織であり、イタリアでは少数派であるユダヤ教徒のモルターラ夫妻の訴えは聞き入れられず、夫妻の抵抗虚しくエドガルドは連れ去られることになってしまう。
後になってメイドだった女性が語ったところによれば、次のようなことになる。この女性はカトリック教徒で、幼いエドガルドが病で臥せっていた時に、洗礼も受けずに万が一エドガルドが死んでしまったとすれば、エドガルドが永遠に煉獄で彷徨うことになると信じたようだ。それを恐れた女性は、善意でもってエドガルドに洗礼を授けたということになる。
カトリックの教義によれば、この洗礼は有効なもので、そうなるとエドガルドはカトリック教徒ということになり、異教徒であるユダヤ教徒が育てることは禁じられている。従って、エドガルドはカトリックの神学校で育てられなければならないということらしい。
劇中では特段の説明はないのだが、ユダヤ教では安息日に働くことが禁じられている。そのため色々と日常生活に不都合なことが生じる。安息日には食事のために火をつけることも、車の運転も禁止されるからだ。しかし、カトリック教徒の場合はそんな決まりはないため、ユダヤ教の家庭でカトリック教徒をメイドとして雇うこともあったということらしい。
ある日突然、息子が連れ去られるという事態は受け入れられるはずもない。父親モモロ(ファウスト・ルッソ・アレジ)はユダヤ社会に広くその事実を訴えかけることになり、母親マリアンナ(バルバラ・ロンキ)はもっと直接的に息子を連れ去ったカトリックに対して怒りをぶつけることになる。
教皇という権力者
公式サイトに記載されているコメント欄で、森達也監督がユダヤ人に対する差別についてまとめていて、簡潔でわかりやすいので引用しておく。「ユダヤ教徒だったナザレのイエスは、ユダヤ教を内部改革しようとしてユダヤ教守旧派の企みで処刑された。その後にイエスの弟子たちが広めたキリスト教は西欧社会の精神的インフラとなり、イエスを殺害したユダヤ人への差別や迫害はさらに激しくなった。この前提を知らないと現在の宗教地図が理解できなくなる。」ということになる。
本作における19世紀半ばのカトリックとユダヤ教の関係も、そうしたことが背景になっている。カトリックの一番の権力者である教皇ピウス9世(パオロ・ピエロボン)は、当時絶大な権力を持っており、国王だろうが皇帝だろうが関係なく、自分は地上における神の代理なのだから一番の権力者だといった態度だ。だからピウス9世はユダヤ教徒のことを憎いとは言わないけれど、慈悲の心で大目に見て赦しを与えてやるといった尊大な感じで、ユダヤ人を足元に跪かせることで悦に浸っているようにも見える。
正直に言えば、なぜピウス9世がエドガルドに目をかけていたのかはよくわからない気もした。エドガルドは特別な少年ではない。たとえばエドガルドが神に選ばれた特別な少年ならば執着するのもわかる気もするのだが、彼はただ洗礼を授けられただけだ。それでもピウス9世は絶対に彼のことを手放そうとはしない。これはピウス9世の権力というものに対する執着を示していたのだろうか。
ただ、教皇がユダヤ人の子供を誘拐したというニュースは、ヨーロッパはもとよりアメリカでも大きく報じられることになったらしい。それが教皇に対する反感につながっていくことになる。
どちらの立場から?
『エドガルド・モルターラ ある少年の数奇な運命』は、実際にあった事件をもとに作られている。この事件に関しては『エドガルド・モルターラ誘拐事件 少年の数奇な運命とイタリア統一』という本も書かれていて、日本でも翻訳が出版されている。スピルバーグが映画化権を獲得したのはこの本だったらしい。
スピルバーグがこの本に興味を持ったのは、ユダヤ人に対する迫害という点で『シンドラーのリスト』に通ずるものを感じたということだったのだろうか。そのあたりは途中で頓挫してしまった企画だけに何とも言えないけれど、スピルバーグだったらどういうふうに描くつもりだったのだろうか。もっとユダヤ人寄りの話になったのだろうか。
本作の監督であるマルコ・ベロッキオはイタリア人であり、『夜よ、こんにちは』、『愛の勝利を ムッソリーニを愛した女』、『シチリアーノ 裏切りの美学』などでイタリアの近代史を描いてきた監督とも言える。そんな監督だけに、本作はユダヤ人に対して同情的に描いてはいるけれど、それ以上に迫害する側であるイタリアにおけるカトリックの歴史を反省的に描いたものに感じられた。特に本作の後半は歴史劇の趣きが強くなるのだ。
前半では、ユダヤ側と教皇側の両方が描かれていく。エドガルドを奪われた母は、息子が恋しいあまりにその幻を見てしまう。一方で、ピウス9世は自分がしたことへの罪悪感からか、ユダヤ人に襲われて割礼される夢に怯えることになる。これらの場面は、同時並行的に描かれるのだ。ところが後半になるとエドガルドの両親はいつの間にかフェードアウトしていき、ピウス9世がその権力の座から追い落とされていく姿が綴られていくことになる。
マルコ・ベロッキオの作品はどの作品も見応えがあったし素晴らしかったのだが、本作は教皇がそんな事件に関わっていたということは衝撃的ではあったけれど、今ひとつピンと来なかった。というのは、私がイタリアの歴史について無知だったからかもしれない。後半はカトリック内部の話になり、外側で起きていることはあまり伝わって来ず、唐突な形でカトリック内部に侵入してくることになる。
この時代のイタリアは統一運動の過程にあり、それに伴って教皇はその広大な領地をどんどん奪われていく形になっていったということらしい(バチカン市国が独立したのはずっと後の1929年とのこと)。教皇の失墜にどこまで誘拐事件が影響しているのかがよくわからなかったし、亡くなった教皇に対して怒りをぶつけていた民衆はユダヤ人たちだったのか、あるいはイタリア人も教皇に反感を抱いていたのかなど、イタリア史を知らない者にとっては何が起きているのかがわからない部分が多かったのだ。
エドガルドという主人公
エドガルドは一体どんな人だったのだろうか? 本作を観ると、かわいそうな人に見えなくもない。両親から引き離され、家族とは相容れない宗教に“洗脳”されてしまった人にも見えるからだ。“洗脳”という言い方は極端だけれど、家族からすればそう言うほかないだろう。彼は家に戻れることになっても、その時にはすでにキリスト教の教えに馴染んでいて、再びユダヤ教に戻るつもりなどなかったようだ。
少年エドガルドが母親に対して「家に帰りたい」と訴える場面は泣かせるけれど、青年エドガルド(レオナルド・マルテーゼ)が二つの宗教の間で葛藤している姿は見えてこない。本作はエドガルドの内面には踏み込んでいかないのだ。
少年エドガルドが十字架のイエスを救い出すという幻想的なシーンは、ユダヤ人がやったことに対しての贖罪の意味が感じられた。一方で青年エドガルドは、ラストで死の間際の母親に対して洗礼を施そうとして拒絶されることになる。完全にキリスト教の教えに染まってしまったわけで、ここでは母と子のつながりが宗教によって断ち切られた形になってしまっている。
青年エドガルドが唯一感情的になったのが、亡くなったピウス9世に対する反感から民衆がその遺骸を川に投げ落とそうとした場面だ。エドガルドは最初はピウス9世の遺骸を守るために行動していたのに、突然狂ったように民衆に交じって暴れ出すことになる。
この場面は完全に意味不明で、前後との脈絡も欠いた異様な瞬間だった。それでもこの場面のエドガルドが一番活き活きとしていたようにも見え、そのあたりの複雑な感情をもっと見たかったような気もする。もしかすると“洗脳”された人というのは、そんな感情すらも失われるということだったのだろうか?
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