監督・脚本は『イン・ザ・ベッドルーム』、『リトル・チルドレン』などのトッド・フィールド。
主演は『ブルージャスミン』、『キャロル』などのケイト・ブランシェット。
アカデミー賞では作品賞や監督賞、主演女優賞(ケイト・ブランシェット)など6部門にノミネートされた。
物語
ドイツの有名オーケストラで、女性としてはじめて首席指揮者に任命されたリディア・ター。天才的能力とたぐいまれなプロデュース力で、その地位を築いた彼女だったが、いまはマーラーの交響曲第5番の演奏と録音のプレッシャーと、新曲の創作に苦しんでいた。そんなある時、かつて彼女が指導した若手指揮者の訃報が入り、ある疑惑をかけられたターは追い詰められていく。
(「映画.com」より抜粋)
EGOTの驕り?
リディア・ター(ケイト・ブランシェット)は天才的な指揮者として誰もが認める人物だ。とにかく経歴は凄いとしか言いようがない。エミー賞、グラミー賞、アカデミー賞(オスカー)、トニー賞のすべてを制した人は、EGOTと呼ばれる。そんな賞賛すべきEGOTは、オードリー・ヘプバーンなどごくごく僅かしかおらず(劇中では15人とされる)、その一人がリディア・ターなのだ。
リディアは指揮者としてオーケストラをコントロールする。冒頭のインタビューにおいて、リディアは指揮者の意味を問われ、時をコントロールすることだと答えている。オーケストラのすべてをコントロールする権力者。それがリディアであり、その権力は彼女を傲慢にしている部分もある。
リディアには同性のパートナー・シャロン(ニーナ・ホス)がいて、移民の子ペトラを娘としている。そんなペトラがいじめに遭っていることを知ると、リディアはいじめっ子に対してペトラの“父親”と名乗り、脅しをかけることになる。それによっていじめはなくなったようだが、リディアのそんな態度はすべてをコントロールしたいという欲望であり、それは彼女がクラシック界の頂点にいるという驕りなのかもしれない。
『TAR/ター』では、リディアはその頂点から追いやられることになる。権力者が転落していく話は珍しくないけれど、本作はそれほど単純ではないし、わかりやすい話とも言えないだろう。というのも本作は様々な解釈が出来るような描かれ方になっているからだ。
プロとして当然?
リディアがその頂点を追われるきっかけには、クリスタという女性との関係が関わっている。クリスタはかつてはリディアの教え子だったらしいのだが、今ではリディアに対してストーカーめいたことをしているらしい。クリスタらしき女性は、亡霊のように後ろ姿が垣間見えるだけで、実際にクリスタがリディアとどんな関係にあったのかはわからない。
ただ、クリスタはリディアに対して恨みを持っているようであり、映画の中盤あたりでクリスタが自殺したという報告が入ることになる。そして、クリスタの両親がリディアを告発することになり、それが彼女をクラシック界の頂点から追い落とすことになるのだ。
リディアは権力者であり、そのことによって傲慢になってしまった。そのことは概ね正しいのだが、リディアがクリスタに対してパワハラめいたことをしていたのかどうかはよくわからない。
また、劇中ではベルリン・フィルで副指揮者をしているセバスチャンをリディアが辞めさせることになるというエピソードもある。リディアは副指揮者を選ぶ権限は自分にあると主張しているし、実際にそれを実行するわけで傲慢な部分はあるのだろう。
しかし、リディアはその前に自分の音に対する感覚が間違っているかどうかをほかの団員に確認してもいる。そして、自分が言っていることが正しいと判断したからこそ、セバスチャンを辞めさせることにしているわけで、プロとしては当然のことをしているようにも見える。
これらのエピソードはリディアの傲慢さを示すものと捉えることもできるし、一方で厳しい世界なら当然のことと捉えることもできる。そんな描き方になっているのだ。
キャンセル・カルチャー?
本作はキャンセル・カルチャーについての問題を提起しているという見方もある。日本で話題になったキャンセル・カルチャーと呼ばれるものとしては、オリンピックの時の騒動が挙げられる。オリンピックに携わっていたあるミュージシャンが、過去にいじめをしていたことなどが発覚し、そのポストをクビになったというものだ。ここではターゲットとなった人物は倫理的な問題を糾弾されていることになる。
本作ではジュリアード音楽院の場面が、これに関連している。学生のマックスは有色人種のパンジェンダーとして、白人で女性差別的だったバッハの音楽を否定するのだが、それに対して教師であるリディアは反論する。
マックスの言っていることはキャンセル・カルチャーにもつながることだろう。それに対してリディアは、音楽や芸術などはその作品がすべてと考えているのだろう。バッハが人格的に問題があったとしても、彼の音楽はそれ自体で素晴らしいということになる。さらには哲学者のショーペンハウアーが女性を階段から突き落としたなんてエピソードも語られる。それでも彼の哲学は今でも多くの人に読み継がれているじゃないかというのだ。
これはアーティストの普段の生活にも倫理的な態度を求める昨今の流れとは逆行するわけで、だからこそリディアはキャンセル・カルチャーの餌食となってすべてを失うことになる。
しかしながら、本作はキャンセル・カルチャーについて描くことは主眼ではないのだろう。本作がもしキャンセル・カルチャーについての映画ならば、リディアを倫理的に糾弾する側について描くことが普通だと思うのだが、本作ではそれについてはほとんど無視しているからだ。
クリスタは顔すら出てこないし、冒頭からずっとリディアの秘書のような役割を果たしていたものの中盤になって退場することになるフランチェスカ(ノエミ・メルラン)も、一度リディアの元から離れると二度と姿を現さない。さらにリディアが熱を上げることになるチェリストのオルガ(ソフィ・カウアー)も、一体どんな人物なのかはわからないままフェードアウトしていく。オルガの存在も、リディアが権力を利用して自分の好みの女性を傍に置こうとしているというエピソードにしかなっていないのだ。
つまり、具体的にリディアを糾弾するような描写はほとんどないままに、リディア自身が支援者であったエリック(マーク・ストロング)に対する暴力行為に及ぶことになり、勝手に自滅した形になっているのだ。そんなわけで、リディアは自分の態度を反省することもないわけで、本作はキャンセル・カルチャーについて何かを言いたいわけではないということなのだ。
※ 以下、ネタバレもあり!
衝撃のラスト
本作はラストから読み解いていったほうがわかりやすい。予告編では「映画史に残る衝撃のラスト」などと謳っている。この惹句から、ラストでリディアが自殺めいたことをするとか、あるいは誰かに殺されたりするのかと勝手に推測していたのだが、まったく別の衝撃が待っていた。
ベルリン・フィルを追われることになったリディアは、東南アジアの国に流れていくことになる。劇中では「『地獄の黙示録』の遺産」などと言っているから、『地獄の黙示録』が撮影されたフィリピンという設定なのかもしれない。
リディアはそこで指揮者としての仕事をすることになるのだが、その会場の観客たちはなぜかみんなコスプレ衣装のようなものを着ている。そんな意味不明な観客たちの前でリディアは指揮を始めることになる。
私はゲームをほとんどしないので、このラストにかなり戸惑ったのだが、エンドロールには最後に演奏された曲がゲーム『モンスターハンター』の音楽であるということが示されている。クラシック音楽界から追われたリディアが、ゲーム音楽の指揮者として再出発を図ったというラストなのだ。
このラストにも様々な解釈がありそうだ。しかし私はラストのリディアを惨めなものだとは感じなかったし、そこにアジアに対する差別的な視線があるとは思えなかった。しかしそんなふうに感じる観客も多かったようだ。
このことに関してだけは、監督のトッド・フィールドは明確に否定している。ほかの部分の解釈に関しては観客に委ねるとしていながらも、アジアに流れていったリディアがアジアを蔑視しているという解釈を明確に否定しているのだ。
さらにトッド・フィールドはリディアに対しての「救いの可能性」というものを語っている。もともとリディアは民族音楽の研究からスタートしたことは、冒頭のインタビューの中の経歴で紹介されている。だから彼女はヨーロッパ以外の場所を低く考えているわけではない。
また、アジアでのリディアの姿をきちんと見ていれば、彼女がやっていることがベルリンにいた時とまったく変わっていないとわかるだろう。オーケストラに「作曲家の意図を考えましょう」と語りかける言葉も同じだし、屋台で食事をしながらもスコアを読み込んでいる。この姿に落ちぶれたものはない。場所は違って、演奏する音楽も違うけれど、リディアには音楽というものに対する信頼があるのだ。
それはリディアが実家に戻った時、涙を流しながら見ていたビデオにも表れている。このビデオでは彼女の師匠ともされるレナード・バーンスタインが音楽について語っている。音楽は言葉では表現できないような複雑な感情を表現することができる。音楽とは動きなのだ。そんな趣旨の演説を聞きながら、リディアは涙を流すのだ。ともかくもバーンスタインのこの言葉は、彼女が音楽というものをやり続けてきたきっかけとなっているのだろう。リディアはこの言葉に力づけられてアジアへと向かうのだ。
リディアの初心にはそんな素朴で純な音楽というものへの信頼があり、それが彼女を導いてきたわけだが、それがいつの間にかにクラシック界の頂点に立つことになると、その権力に溺れることになる。トッド・フィールド監督も語っているように、権力は常に腐敗するということなのだろう。純粋に音楽と向き合うことだけを目指していたリディアですらも、権力の魔力に狂わされるということなのだ。
しかしリディアはそうした権力の座からは降ろされることになっても、音楽への信頼というものは失ってはいなかったとも言える。私は先にリディアがすべてを失ったと書いたけれど、最後に残っていたものがあったということなのだ。
だから彼女はゲーム音楽のスコアにも真剣に向き合うことになるし、その態度はクラシックをやっていた時と何も変わらないわけで、多くの人が戸惑ったであろうラストはそんなリディアの中にあってずっと変わらない“何か”を描いていたということなのだろう。今になって振り返ってみると、そこが感動的なものになっていたようにも思える(最初は唖然として理解不能にも思えたのだが)。
本作は様々な解釈ができる作品だ。ここでは触れられなかったけれど、サイコスリラー的な側面もあり、リディアが次第に狂気に陥っていく話でもあり、オルガは何らかの意図を持ってリディアに近づいたようにも見える。そして、ある部分からはすべてがリディアの夢の中の出来事という解釈だって成り立たないわけでもないわけで、観客ひとりひとりによって様々な解釈があるのかもしれない。
とりあえず言えることは、主演のケイト・ブランシェットの演技はさすがという感じで、多くの人がリディアを実在の人物だと勘違いしてしまったのも納得のリアルな存在感があった。アカデミー賞を獲得した『ブルージャスミン』以上にインパクトがあったし、本作でアカデミー賞を再び獲得したって文句はなかったんじゃないかと思う。
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