『ジュリア(s)』 別の宇宙を生み出す感情

外国映画

セザール賞短編賞を受賞した『ピアノ調律師』オリバー・トレイナーの長編デビュー作。

脚本はオリバー・トレイナーとカミーユ・トレイナー

原題は「Le Tourbillon De La Vie」で、「人生の渦」という意味。英語版のタイトルは「Julia(s)」。

物語

2052年パリ。80歳の誕⽣⽇を迎えたジュリアはこれまでの充実した⼈⽣に満⾜しつつも、過去を振り返り⾃分が過ごしていたかもしれない別の⼈⽣に想いを馳せていた。
ピアニストを⽬指していた17歳の秋。ベルリンの壁崩壊を知り友⼈たちとベルリンへ向かった⽇、もしバスに乗り遅れなかったら? 本屋で彼に出会ってなかったら? シューマン・コンクールの結果が違ったら? 私が運転していたら? ジュリアが頭に描いたのは、そんな何気ない瞬間から枝分かれしていった4つの⼈⽣。そのどれもが決して楽ではないけれど、愛しい⼈たちとのかけがえのない⽇々で満たされていて眩しい。
果たして、ジュリアが選び取った幸せな“今”につながるたった⼀つの⼈⽣とは?

(公式サイトより抜粋)

天国か地獄かの分かれ道

人生には分岐点というものがある。そこで人生は大きく変化する。一方は天国への道となり、もう一方は地獄へとつながっているのかもしれないが、それは先に進んでみないとわからない。そんな分岐点を描いた映画に『スライディング・ドア』という作品があった。この作品は人生の決定的な分岐点のひとつを描いたものだった。

『スライディング・ドア』の分岐点は、主人公がある朝、電車のドアにうまく滑り込めたか否かというものだった。この分岐点によって主人公の人生は、二つに分かれることになる。『スライディング・ドア』は、作品自体が前半と後半に分かれていて、前半では電車のドアに滑り込めた人生が、そして後半では滑り込めなかった人生が描かれる。

『ジュリア(s)』は、このアイディアをもっと推し進めている。いくつもの分岐点があり、その度ごとにジュリアは別の人生(別の宇宙)を生きることになるのだ。さらに、『スライディング・ドア』の場合は、二つに分かれた人生をそれぞれ前編と後編に分けて順番に描いていたわけだけれど、『ジュリア(s)』の場合は分岐した人生を同時並行的に描いていくことになる。それが『ジュリア(s)』のおもしろいところだろう。

最初の17歳のジュリア(ルー・ドゥ・ラージュ)から、ある分岐点で分かれることになった二人のジュリアを、それぞれジュリア①とジュリア②と呼ぶとする。ジュリア①はフランスにいるけれど、ジュリア②はドイツに渡る。それでもそれぞれの場所(実際には別の宇宙ということ)で踊るシーンが用意されていて、違和感なく二つのシーンがつながっていくことになる。

ほかにも、別の分岐点で分かれたジュリア③とジュリア④は、一方のジュリア③が交通事故でケガをして苦痛に顔を歪めていると、もう一方のジュリア④は恋人の愛撫によって恍惚の表情を浮かべることになる。表面上の関連によって別宇宙のジュリアたちをうまく結びつけながら、混乱させずに物語を展開していく手腕が見どころになっている。

(C)WY PRODUCTIONS–MARS FILMS–SND-FRANCE 2 CINÉMA

無数のジュリアを肯定する

『スライディング・ドア』は分岐点がひとつだから、二つの人生が描かれることになった。それに対して本作ではいくつもの分岐点がある。公式サイトに書かれているストーリーによれば、4つの分岐点があり、4つの人生が描かれるとされる。実際に4つの人生だけだったのかはよくわからなかったけれど、とにかく本作では無数のジュリアが描かれているように感じられる。

ある分岐点ではその選択に成功したと思えても、実際にはそのことが悪い方向に転んでいったり、逆に決定的に過ちを犯したと考えていたにも関わらず、それによって別の生き方が拓けていったりもする。結局、どの人生、どのジュリアの生き方も間違っていない。そんなふうに肯定されることになるのだ。

これは多分とても感動的なラストということになるのだろう。劇場のエンドロールの最中には、感動のあまり泣いているような人もいたようだ(小さな劇場だったからそんなことも感じた)。ただ、私の個人的な感想を言えば、あまり響いてこなかった。

もしかすると私は『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』も受け付けなかったので、マルチバースというものが理解できないということなのかもしれないけれど、以下、なぜ自分には響かなかったのか考察みたいなことを書いてみる。

(C)WY PRODUCTIONS–MARS FILMS–SND-FRANCE 2 CINÉMA

スポンサーリンク

 

感情移入すべき対象は?

本作の公式サイトには80歳の誕⽣⽇を迎えたジュリアが過去を振り返るなどと書かれているのだが、実際にはそんなふうには見えない。

ラストではピアニストにはなれずに教師となったジュリアや、ピアニストにはなったものの子供たちと離ればなれになったジュリア、さらにはドイツに渡ったジュリアなどがいる。

しかし、どのジュリアが過去を振り返っているのかはわからない。この過去を振り返って別の人生に想いを馳せているジュリアを“真のジュリア”とすれば、ほかの無数のジュリアは可能世界のジュリアということになる。

本作ではその“真のジュリア”がわからないのだ。そうなると過去を振り返る主体がいないということになる。これでは観客が感情移入すべき対象がいないことになってしまうのではないだろうか。

もっとも、製作側としてはどのジュリアも間違っていないということを示したいのだろうし、“真のジュリア”みたいなものを排除してすべてのジュリアを並列的に描きたかったということなのだろう。

(C)WY PRODUCTIONS–MARS FILMS–SND-FRANCE 2 CINÉMA

後悔という強烈な感情

本作では分岐点の度に可能世界のジュリアが誕生することになる。しかし過去を振り返る主体がいないために、「あの時こうしていれば」という後悔と共に別の宇宙を生み出すことになるような強い感情は感じられない。そこがもったいないようにも思えた。

本作を観終わった後に思い浮かんだ映画は『ちょっと思い出しただけ』だったのだが、それはどちらも人生の分岐点を描いた作品だからだろう。『ちょっと思い出しただけ』は、時間を遡っていく形式になっていて、そのことが主人公の決定的な分岐点というものを強く意識させることになっていた(というのも、そこが決定的な分岐点となるか否かは、時を経なければわからないから)。これが含意しているのは、分岐点というのが意識されるのは“後悔と共に”だということなのだ。

だから本作のように感情を排して可能世界の羅列をしたとしても、それが元の世界から分岐していったというつながりが感じられないのだ。本作では過去を振り返る“真のジュリア”はわからないし、別の宇宙のジュリアのことを意識しているようには見えない(『エブエブ』の場合は“ジャンプ”という裏技でそこがつながることになるわけだが)。

だから本作の無数のジュリアたちは無関係に存在しているようにも見えてしまうのだ。最初にベルリンに行くか否かで分岐したジュリアは、親元から離れた自由さが外見にも反映したりして元のジュリアからの違いも明白なのだが、後半になるに従って分岐も複雑になっていくにつれ、別の宇宙のジュリアを生み出していく感情が見えなくなっていくように感じた。

(C)WY PRODUCTIONS–MARS FILMS–SND-FRANCE 2 CINÉMA

監督のオリバー・トレイナーは、『ピアノ調律師』という短編が評価されたらしい。私はこの監督のことを何も知らないが、もしかしたらピアニストになりたかった人なのだろうか。だとすれば本作でピアニストになったジュリアは、監督自身のあり得たかもしれない別の姿を描いているのだろう。しかし、このあり得たかもしれない可能世界は、結局夢のようなものでしかない。

また、オリバー・トレイナーはフランスの人だと思うのだが、ベルリンの壁崩壊を間近に見たかったのだろうか。しかしオリバー・トレイナーは見に行けなかったのだろう。だからベルリンに行くジュリアも登場するものの、このジュリアはフランスに残ったジュリアほど重要な位置を与えられていないようで、中盤は忘れられたようになり、ラストのほうで再び顔を出すことになる。これはオリバー・トレイナーにとってはベルリンに行くことは可能世界の一つだったということなんじゃないだろうか。

要は私が言いたいのは、可能世界の内実はあまり大した意味はないということであり、それを切望してしまうような後悔の念のほうこそを描くべきだったんじゃないかということだ(少なくとも過去を振り返る主体を消さなくても良かったんじゃないだろうか)。可能世界は結局は夢や妄想に過ぎないけれど、それを生み出してしまう後悔の念のほうは強度がある。それはこの感情こそ、その人にとっては真実だからだ。

同じようなマルチバースを扱った『エブエブ』はまったく退屈だったけれど、『ジュリア(s)』はなかなかおもしろい構成だったし、十分に楽しめた。それでも、そんな可能世界を生み出すことになる、“真のジュリア”の感情が見えてこないところが気になったのだ。

コメント

タイトルとURLをコピーしました