『それでも私は生きていく』 悲喜こもごもの人生

外国映画

監督・脚本は『グッバイ・ファーストラブ』『ベルイマン島にて』などのミア・ハンセン=ラヴ

主演は『アデル、ブルーは熱い色』『ストーリー・オブ・マイ・ワイフ』などのレア・セドゥ

原題は「Un beau matin」。

物語

サンドラは、夫を亡くした後、通訳の仕事に就きながら8歳の娘リンを育てるシングルマザー。仕事の合間を縫って、病を患う年老いた父ゲオルグの見舞いも欠かさない。しかし、かつて教師だった父の記憶は無情にも徐々に失われ、自分のことさえも分からなくなっていく。彼女と家族は、父の世話に日々奮闘するが、愛する父の変わりゆく姿を目の当たりにし、サンドラは無力感を覚えていくのだった。そんな中、旧友のクレマンと偶然再会。知的で優しいクレマンと過ごすうち、二人は恋に落ちていくが……。

(公式サイトより抜粋)

悲喜こもごもの人生

『それでも私は生きていく』は、監督ミア・ハンセン=ラヴの自伝的な要素を含む作品になっている。

前作の『ベルイマン島にて』はメタ・フィクショナルで複雑な構造の作品ではあったけれど、主人公とその夫との関係は、ミア・ハンセン=ラヴとその元夫であるオリヴィエ・アサイヤス監督との関係がモデルとなっていた。それからこれは観逃してしまったのだが『未来よ こんにちは』でも母との関係がモデルとなっているらしい。ミア・ハンセン=ラヴはそんなふうに自伝的要素をうまく作品の中に取り入れていて、本作においては父親との関係が題材となっているようだ。

主人公のサンドラ(レア・セドゥ)は娘として病で衰えつつある父親の心配をすることになるわけだが、同時に彼女はひとり娘の母親でもあるし、恋する女性でもある。

「人生は山あり谷あり」みたいな言い方をすることがある。登り調子の時もあれば、下り坂の時もあるみたいに。しかし本作を観ているとそんなふうに明白に分けられるわけではないようだ。

成長盛りの娘リンの姿を見ているのは楽しいことだが、一方でアルツハイマーにも似た病を患った父親ゲオルグ(パスカル・グレゴリー)は目が見えなくなり、今まで出来たことが出来なくなる。そうなると介護が必要な状況に陥っていくわけで、それは憂鬱なこととなる。そんなふうに人生の喜びと悲しみとが同時に押し寄せてくるのだ。

さらに友達の男性クレマン(メルヴィル・プポー)との関係では、相手に妻と子供がいるため、それによって一喜一憂することになる。友達から恋人になれば気分も上がることになるわけだが、相手が家族を選ぶことになると絶望的な気持ちになるし、ヨリが戻ることになれば再び浮かれることになる。サンドラの日々は感情のアップとダウンを交互に繰り返すような慌ただしい状況なのだ。

『それでも私は生きていく』

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父親の魂とその脱け殻

父親ゲオルグはかつては哲学の教授だったらしく、家にはたくさんの蔵書がある。しかしゲオルグは病によって読書という楽しみを奪われ、次第に衰えが目立つようになってくる。トイレにも介護の必要が生じてくるようになると、さすがにひとりで暮らしていくことは無理になり、施設に入ることを余儀なくされる。

しかしサンドラはこうした状況をなかなか受け入れられない。哲学者として生きてきた父親が、離婚したその妻(サンドラにとっては母)が言うところの「ゾンビみたいな」老人たちと同じ施設で生きていくことが信じ難いのだ。

サンドラは施設に入った父親よりも、自宅に残された蔵書のほうが父親らしいと感じている。蔵書の並びこそが父親を表しているけれど、施設に入った父親は単なる脱け殻のように感じられてしまう。そんな状態の父親を目の当たりにしてしまうことが辛いのだ。

『それでも私は生きていく』

父親ゲオルグが用意していた自伝的作品のタイトルは「Un beau matin(ある美しい朝)」だ。そこには自分が自分でなくなっていく不安が綴られていた。

そんな父親は、ある日、サンドラに頼み事があると語る。この頼み事が何だったのか、ゲオルグの言い方が曖昧模糊としていてよくわからないのだが、ベッドに寝させて欲しいということを訴えているらしい。そして、そのたどたどしい言葉の中には「長い眠り」みたいな言葉もあった。ゲオルグがサンドラに訴えていたのは安楽死めいたものだったのだろうか。

その後のサンドラが恋人のクレマンに、もしも30年後も一緒にいたとして、彼女が父親と同じような状況になったとしたら「スイスに連れて行って」と約束させているのも、彼女が父親の願いを何となく察していたということだったのだろうか。

安楽死についてはちょっと前に公開されたフランス映画の『すべてうまくいきますように』でも取り上げられていたわけで、それほど珍しいことではなくなってきているのかもしれない。昨今は様々な考え方が多様性として認められることになってきているわけで、その流れからすれば安楽死も次第に選択肢として認められることになってくるということなのかもしれない。

『それでも私は生きていく』

喜びと悲しみの量は等しい?

もっとも本作は介護の問題だけを描いているわけではない。先ほども記したように、本作では人生における喜びと悲しみの両方がほとんど同時並行的に描かれる。サンドラは娘としては父の衰えを悲しんでいるけれど、それと同時に不倫の恋に夢中になり喜びを味わうことになる。

それは父親のゲオルグも同様で、もちろん病に対する不安はあるはずだが、恋人のレイラに甘える瞬間には甘美なものを感じているようでもある。そして、悩みなんてなさそうなサンドラの娘リンもどこかで不安を抱えているのか、それは足の痛みとなって表れることになる。

こうした悲喜こもごもの羅列のような展開は、人によっては本作をのんべんだらりとした平坦なものと感じるのかもしれない。それでも私自身は本作が退屈なものとは感じられなかったのは、主人公を演じたのがレア・セドゥだったからかもしれない。

『それでも私は生きていく』

レア・セドゥの新境地

レア・セドゥはどちらかと言えば『ストーリー・オブ・マイ・ワイフ』みたいに妖艶な謎の女性というイメージだが、本作で彼女が演じたサンドラはごく普通の女性だ。これは監督の狙いでもあり、レア・セドゥの新しい側面を見せてくれるようでとても新鮮だったのだ。

思い切ったショートカットは、もしかしたらジーン・セバーグを意識しているのかもしれない。というのは、サンドラとクレマンが公園を歩くシーンが、『勝手にしやがれ』のジャン=ポール・ベルモンドとジーン・セバーグのシーンとよく似ているからだ。ヘラルド・トリビューンを売るジーン・セバーグが通りを歩いていき、そのまま来た道を戻っていくシーンだ。本作のサンドラとクレマンも同じように連れ立って公園の道を行ったり来たりすることになるのだ。

とはいえサンドラはジーン・セバーグのようなシャレた感じはしない。ショートカットも通訳の仕事で忙しいからとも思え、「セックスのやり方も忘れた」などとクレマンに語るほど艶めいたことからは縁遠くなっていた女性でもある。

そんなサンドラがクレマンと最初のキスをする場面は妙に初々しい。こんなシーンは今までレア・セドゥが演じてきた役柄にはなかったわけで、そのあたりは見どころなんじゃないだろうか。

サンドラはクレマン曰く「埋もれていた」女性ということになるわけだが、それを演じているのはレア・セドゥなわけで、その裸体が魅力的であることはこれまでのいくつもの作品で示してきたことでもある。ベッドに横たわる気だるい後ろ姿や、クレマンを妻子のもとに返したくないための玄関先でのやり取りなどは官能的なものを感じさせた。

それからフランスではサンタさんの存在を子供たちに信じ込ませたいのだろうか? クリスマス・プレゼントに対する大人たちの熱中ぶりがおもしろい。あそこまでやると、かえって真実を知った時の子供たちのショックが心配な気もするけれど……。

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