『ボーンズ アンド オール』 キスとカニバリズム

外国映画

原作はカミーユ・デアンジェリスの同名小説。

監督は『君の名前で僕を呼んで』『サスペリア』などのルカ・グァダニーノ

脚本は『サスペリア』などのデビッド・カイガニック

物語

生まれながらに人を喰べる衝動を抑えられない18歳の少女マレン。
彼女はその謎を解くために顔も知らない母親を探す旅に出て、同じ宿命を背負う青年リーと出会う。
初めて自らの存在を無条件で受け入れてくれる相手を見つけ、次第に求めあう二人。
だが、彼らの絆は、あまりにも危険だったー。

(公式サイトより抜粋)

過保護な少女?

主人公のマレン(テイラー・ラッセル)は“超”が付くほどの過保護なのか、いつも父親の顔色を窺っている。友達からお泊りパーティーに誘われたけれど、父親は夜の外出を許してくれないらしい。部屋には外側から鍵をかけられ、閉じ込められた夜を過ごしているのだ。

その夜、マレンは窓枠をドライバーで外し、父親の目を掻い潜って友達の家に遊びに行く。そして、友人と楽しい夜を過ごすことになるのだが、どういうわけかマレンはその友達の指を喰べ始めてしまう……。

顔を血だらけにして帰ってきたマレンを迎えることになった父親が発したのは、「またやったのか」という言葉で、こうしたことは初めてではなかったらしい。それでもマレン自身はそのことを覚えていない。その後、マレンは父親と一緒にまた別の土地へと流れていくことになる。

そして、マレンが18歳になると、父親は出生証明書とわずかばかりの金を残してどこかへ消えてしまう。マレンの過去のことを吹き込んだカセットテープを残しただけで、マレンを捨てたのだ。マレンはそのテープによって自分がどんな人間かを知ることになる。彼女は人を喰わなければ生きていけない宿命を背負わされていたのだ。

(C)2022 Metro-Goldwyn-Mayer Pictures Inc. All rights reserved.

同族のつながり

現実世界にカニバリズムを実践している人がうようよしていたら困ってしまうけれど、『ボーンズ アンド オール』では意外に多いという設定になっている。そして、彼ら(彼女ら)は同族イーターと呼ばれ、臭いで互いのことがわかるということになっている。

父親から捨てられたマレンは、母親に会いに行くことになるが、その過程で何人かのイーターに出会うことになる。最初に出会ったのがサリー(マーク・ライランス)で、サリーはかなり遠くの位置からマレンの臭いに気づき、ひとりぼっちのマレンに近づいてくる。

サリーは「決して同族の者は喰べない」というルールを教えつつ、マレンにも自分の獲物を分け与えることになる。サリーは長い鍛錬の成果なのか、臭いによって間もなく死ぬ人間を見つけることが出来、そういう人間だけを狙っているのだという。

イーターは常に人を喰っているわけではない。喰べなくてもある程度は大丈夫らしいのだが、突然欲求に駆られる時があり、そうなるとマレンが友達の指を喰い出した時のように見境がなくなってしまう。それだからサリーは「喰べられる時に喰べろ」という教えをマレンに授けることになる。マレンはサリーが見つけた獲物のご相伴に預かることになる。マレンはそれによって渇きを癒すことになるのだが……。

※ 以下、ネタバレもあり!

(C)2022 Metro-Goldwyn-Mayer Pictures Inc. All rights reserved.

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社会の“のけ者”たち

本作のイーターという存在は、人を喰っているわけで、これは到底社会において受け入れられるものではない。社会にはルールというものがあるけれど、これは多くの人の同意があって成立するものだろう。そして、「人を殺してはいけない」というルールは、どこの社会においても当然なことになっているはずだ。しかし、イーターはそのルールを守れないわけで、当然、社会の中では真っ当に生きていけないことになる。

本作についてルカ・グァダニーノ監督はこんなふうに語っている。

社会の片隅で生きる人々や権利を剝奪された人々に、私はえも言われぬ魅力を感じ、心打たれる。私のつくる映画はすべて、社会ののけ者を描いているけれど、『BONES AND ALL』の登場人物にも共感を覚えた。

ちなみに本作の出演者であるティモシー・シャラメは、インタビューにおいて“アウトサイダー”という言葉を使っている。社会の“のけ者”であったり、“はみ出し者”と呼ばれる人たちが本作の主人公ということになる。

多分、イーターは何らかのメタファーということになるのだろう。それが何であるかはともかくとして、“のけ者”や“はみ出し者”の悲哀が描かれていくことになる。

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実はロードムービー

本作ではイーターたちもルールという言葉を口にしている。イーターは数が少ないから孤立化している。イーターが語るルールというのは、単に自分だけの決め事でしかない。

孤立化したイーターは自分がモデルにしていくような先達がいない。だから自分だけで独自の決め事を作っていくしかないことになるのだ。ただ、それは自分だけのルールなわけで、都合よく変えることが出来ることになる。その後のサリーが自分で決めたはずのルールを守っていないような行動をしているのは、そういうことだろう。

マレンはサリーの姿を見て信頼できないものを感じ逃げ出すことになるけれど、その後に出会ったリー(ティモシー・シャラメ)という青年と一緒に母親探しの旅に出ることになる。リーならばイーターとして生きていく上で自分のモデルになり得るような人だと感じたのだろう。

ほかにもマレンはジェイクというイーターにも出会う。彼には仲間がいるのだが、その仲間はイーターではないらしい。それでも彼はジェイクと一緒に人間を喰べるらしい。常識的には異常者ということになる。マレンもリーもそのふたりに何かおぞましいものを感じるのだが、彼らがやっていることとマレンとリーがやっていることに違いはないわけで、自分の存在について疑問を抱くきっかけになっているのだろう。

本作はマレンとリーのふたりのロードムービーだ。先ほども触れたが、イーターは孤立化していて仲間がいない。そんな状況では、自分のことが見えてこない。ふたりの間にもルールに違いがあるけれど、孤立していたらそこに気づくことが出来ないということだろう。ふたりは一緒に旅をすることで、相手のことだけでなく自分をもっと知ることになっていくのだ。

しかし、旅の終わりで待っているのは、残酷な事実だった。マレンとリーはマレンの母親(クロエ・セビニー)に会いに行くことになるのだが、その出会いが教えてくれたのは、イーターにはごくごく限られた選択肢しかないということだからだ。

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キスとカニバリズム

意外だったのはリーとマレンは、旅の途中から性的な関係になったのだと思われるけれど、そういう描写がほとんどないところ。これはなぜなのだろうか?

以下は勝手な推測に過ぎないけれど、恐らくキスということにもっと重要な意味合いを持たせるためだったんじゃないだろうか。

劇中ではリーがハードロックバンドのキッスのアルバムについて講釈する場面がある。本作は1970年生まれのマレンが18歳になったばかりという設定だから、1988年あたりが舞台となっている。その意味では、1983年に発売された『地獄の回想』が登場するのは、時代を指し示すものとして不思議ではないけれど、キッスというバンドが選択されたのは、それ以上にキスということの意味合いを強調するためだったんじゃないだろうか。

キスというものの起源をカニバリズムと結びつけて説明したりする説もあるようだ。これ自体は俗説に過ぎないのかもしれないけれど、本作ではキスすることが最大限の愛情表現になるのだろう。そしてそれはそのまま「骨まですべて」を喰い尽くすことにつながっていく。これは究極的な愛ということになるわけで、そのためには性愛は余計な要素だったということだろうか。

たとえば『カニバル』という作品でも、喰べることと愛することはイコールとなっていたわけで、これは予想される展開だったとも言える。最初はおぞましいものばかりを予想していたけれど、本作は意外にも若いふたりの純愛ストーリーだったのだ。

派手に染めた髪に穴の開いたジーンズという出で立ちも決まっていたティモシー・シャラメも魅せるけれど、それ以上にインパクトがあったのはサリーを演じたマーク・ライアンスだろう。不気味さもさることながら、マレンに拒否されてただをこねる感じはちょっとウザくてかわいい? 自分のことをサリーと呼んでしまうおじいさんはマレンでなくてもちょっと遠慮したい気はするけれど……。

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