『グエムル –漢江の怪物–』『母なる証明』などのポン・ジュノの最新作。
韓国映画では初めてとなる、カンヌ国際映画祭でパルム・ドールを受賞した作品。
物語
半地下の住宅に住むキム一家は、父親ギテク(ソン・ガンホ)をはじめ、家族4人全員が失業中だった。宅配ピザ屋の箱を折る内職で、ようやくその日暮らしをしているような状態だ。
そんなとき、長男ギウ(チェ・ウシク)が友人から家庭教師の仕事を任され、IT企業社長のパク家に出入りするようになる。ギウはある計画を思いつき、妹のギジョン(パク・ソダム)のことを美術の家庭教師として紹介することになるのだが……。
格差社会がテーマ
ポン・ジュノ監督の2014年の作品『スノーピアサー』のレビューでも、格差社会を描いた映画は流行りのようだと書いていたのだが、その傾向は衰えるどころかより一層顕著になっているようだ。
昨年公開されたものでも、『アス』『家族を想うとき』『ジョーカー』などの作品が格差を題材にしていた。こうした作品が多く製作されているのは、当然ながら現実社会においても格差が一向になくならないからだろう。
一応『スノーピアサー』を振り返っておくと、地球が再び氷河期を迎えた近未来の物語となっており、生き残った人類は“スノーピアサー”と呼ばれる止まることのない列車のなかにだけ存在している。そして、その列車内では車両ごとに人々が住み分けており、先頭に行くほど富める者が住み、最後尾には貧困層が住むという格差社会となっていたのだ。
『スノーピアサー』では水平方向に並んでいた格差社会だが、『パラサイト 半地下の家族』ではその格差がもっとわかりやすく、垂直方向へと構図を変えて描かれていくことになる。
※ 以下、ネタバレもあり! 結末に触れているので要注意!!
上下の関係
一般に高層のタワーマンションなどでは、上層階にいくほど家賃が高くなっていくのだそうだ。理由としては見晴らしがよくなるからということらしい。確かに気分としても山の中腹にいるよりも、頂上にいたほうが気持ちいいだろうとは思う。そうしたコミュニティでは低層階に住む人は高所恐怖症を装ってまで、実は経済的な理由で高層階に住めないだけなのを認めようとはしないのだとか。
そうした話が本当かどうかはわからないけれど、黒澤明監督の『天国と地獄』にも描かれていたように、金と権力を得た者が下界の下々を見下ろすような高台に住み、優越感に浸りたいというのはまんざら嘘でもないだろう。
現実問題としては、高台に住むなんて駅からも遠いだろうし、そこに行くまで不便だろうとも思うのだが、それは庶民の浅はかさだ。そういう場所に豪邸を買うことのできる富豪たちは運転手付きの車に乗っているわけで、駅まで歩くこともないし登坂を上ることを心配する必要もないのだ。
『パラサイト 半地下の家族』では、そうした高低差がうまく表現されている。ギウが初めてパク邸へと向かう時にもそれを感じるが、より明確だったのは後半でパク邸から逃げ出したギウたちが下へ下へと降りていく場面だろう。その時、外は豪雨に見舞われ、雨水は滝のように下へと流れていき、ギウたちはその流れを追う形で自分たちの住居へたどり着き、その半地下の家が浸水していることを発見するのだ。
落ちてくるものは?
経済の理論では、「富裕層が富むことで、そのおこぼれが下に落ちていく」という、トリクルダウン理論というのがあるそうだ。しかし、これはあくまで仮説らしく、そうした理論を喧伝することで富裕層がさらに肥え太ることを正当化しようという意図があったんじゃないかとも思いたくなる。
確かに富裕層のおこぼれがまったくないわけではない。ただ、それはごく限られている。本作ではそのおこぼれに預かるのは、パク邸の家庭教師からはじまり、運転手や家政婦としての仕事も確保することになるキム一家ということになる。
しかし、本作はパク邸にキム一家が寄生して終わるわけではない。前半のキム一家の寄生パートは、どこか浮世離れしている奥様(チョ・ヨジョン)の騙されやすさや、悪ふざけの金正恩ネタなんかもあってコメディとなっているのだが、ある出来事をきっかけに不穏な空気が支配していく。というのは、キム一家がパク邸から追い出した家政婦には夫がいて、その夫はパク邸の地下に隠れて住んでいたことが明らかになるからだ。
キム一家は貧乏でも半地下の住宅を持っていたわけだが、元家政婦の夫はパク邸の陽の射すこともない完全な地下(完地下)に、持ち主であるパク夫婦も知らぬ間に住んでいたのだ(韓国では北側の核兵器に対する防御としてシェルターを持っている場合があるのだとか)。
ここで生じているのはパク一家のおこぼれを巡る、“半地下”にいるキム一家と、“完地下”にいる元家政婦たちの貧困層同士の醜い争いだ。トリクルダウン理論によればおこぼれによって貧困層も潤うはずが、実際にはその少ないパイを巡って助け合うべき貧困層が争っているわけで、もともとの理論が間違っていることを示しているのかもしれない。
さらに、本作において貧困層が住む半地下へと落ちてくるものはと言えば、豪雨による雨水だ。ちなみに“半地下”にあるキム一家の住宅で一番高い位置に鎮座しているのは便器だ。なぜかと言えば、汚物は水で下へと流すわけで、低いところにあっては便器が意味をなさないことになってしまうからだろう。高いところにあるから重力によって、汚物はさらに下へと流れていくわけだ。つまりは富裕層の住む高台から流れ落ちてくるものは、おこぼれの富などではなく汚物以外の何ものでもないことを示しているようにも感じられるのだ。
革命は可能か?
『スノーピアサー』では下の者が上の者の場所を奪い取ったし、さらに革命を起こすことが可能だったわけだが、本作ではより厳しい現実が待っている。“半地下”にいた父親ギテクは、パク邸の“完地下”へとさらに格下げとなるわけで、貧困層が富裕層に取って代わることはないのだ。ラストで長男ギウが思い描くのは金を貯めてパク邸を買い取ることだが、これはほとんど夢物語にしか思えない。
『スノーピアサー』の世界では富裕層が貧困層から搾取する姿が明確に描かれていたのだが、一方の本作においては富裕層は貧困層から搾取しているのかもしれないのだが、それはあまりに巧妙になっているのか見えないものとなっている。しかし両者を分断しているものはあるわけで、だからこそ富裕層は肥え続け貧困層はいつまでもそこから抜け出すことができない。
唯一両者を分断しているものとして示されるのが“臭い”だ。“臭い”は目に見えないわけで、敏感な人にはわかるのかもしれないのだが、すぐに気が付くものではない(“完地下”の住人は“臭い”が度を越していて悲劇を引き起こしたわけだが)。だからこそ格差というものがより一層広がっていくことになっているのかもしれない。
本作はカンヌ国際映画祭でパルム・ドールを受賞した作品だが、カンヌが好む高尚なイメージとは縁遠い娯楽作となっている。それでいて評価されたのは、社会に対する風刺が効いているからだろう。
正月ボケから未だ抜けきらない新年最初としては、なかなか強烈な1本だったと言える。“完地下”の住人がパク家の主人に忠誠を誓っている姿は、トランプ大統領のような富豪を支持するブルーワーカーがモデルなんだろうか?
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